2015年3月13日金曜日

教会が掲げる「今年の目標」の残念さについて

 おそらく多くの教会が、「今年の目標」みたいなものを掲げていると思う。そして礼拝堂の目立つところに貼っているだろう。
 
 目標と言ってもイロイロで、たとえば「聖霊に導かれる教会」とか、「地域に出ていく教会」とか、「大いなる収穫の年」とか、文字通り教会の数だけあるだろう(ちなみにこの例は今パッと考えただけで深い意味はない)。
 
 とにかくその目標に沿って教会活動がなされ、1年が終わると、また新しい目標が掲げられる。そういうことが毎年繰り返されていく。
 
 だから年ごとの目標を見直してみると、その教会の歩みがなんとなく俯瞰できて、良いかもしれない。目標にはそういう効果もあるだろう。
 
 ある教会もこの例に漏れず、毎年たいそうな目標を掲げていた。ちょっとデフォルメして書くと、「魂の大収穫!(2013年)」
「祝福の大洪水!(2014年)」
「聖霊のハンパない傾注!(2015年)」(デフォルメしすぎた)
 まあ聖霊派にありがちな、大袈裟かつ感動主体の目標である。
 
 べつにそれはそれでいいし、一信徒の立場からすれば、教会の目標が何だろうとあまり関係ないのが現状だろう。「今年の目標って何だっけ」という信徒も多いような気がする(ちょっと調べてみたい)。
 一般企業なんかでも、大半の従業員は会社の「今年の目標」なんか気にもしていないだろう。目標があること自体知らないかもしれない。教会も基本的にそれと同じではないかと思う。
 
 けれどこの手の目標設定がどのようなプロセスでなされているのか、そして教会活動にどれだけ影響しているのか、信徒は気にかけておいた方が良いと私は思う。つまり「目標が何か」ということより、「なんでその目標なのか」を知っておくことの方が重要だ、という訳だ。
 
・問答無用の目標設定
 
 目標設定の仕方は教会によってそれぞれだろうけれど、完全に牧師の一存か、あるいは役員会とかがあっても事実上牧師の一存となっている教会は、注意を要する。なぜならその場合、目標設定の過程が完全にブラックボックス化しているからだ。
 
「来年のために祈っていたら、神に〇〇と語られた」
「これは神様が新しい年、この教会に願っていることだ」
 
 とか牧師に言われたら、それで話が終わってしまう。もはや議論の余地はない。
 そしてそれがたとえば「新会堂建設」に直結する目標だとしたら、信徒らは「なぜ今年新会堂が必要なのか」「どのような規模の新会堂が必要なのか」といった疑問を抱く間もなく、そこに向かわざるを得なくなる。そして「新会堂設立献金」とか、「新会堂設立委員会」とかが当然のように始まっていくだろう。
 そしてその一年は文字通り「新会堂設立」に染まることになる。けれど誰も、それが「なぜ」なのか知らない。
 そんな奇妙な現象が起こっているのである。
 
・確認不能な目標達成
 
 当然ながら「今年の目標」は、その年の終わりとともに終わる。新年には新年の目標が設定されるからだ。
 
 ここでよく見られるのが、目標が達成されたのか達成されなかったのか、何のフィードバックもない、というような状態だ。
 上記の「新会堂設立」みたいな目標だったら達成・非達成を判別できる。けれどたとえば「聖霊に導かれて前進する教会」みたいな曖昧な目標の場合、達成・非達成はどうにも判定できない。「霊的に大いに達成された」とか言えば聞こえは良いけれど、その台詞は何一つ証明していない。
 
 けれどそういう曖昧な形で1年を終え、結局あの目標は何だったのか、みたいな状態になっている教会がある。すると目標設定された理由もわからなければ、達成されたかどうかもわからない。四字熟語で言えばまさに「五里霧中」であろう。
 
 巷の諸々のプロジェクトを見ればわかるけれど、「期間終了時に明確に結果判定できる目標を設定する」のはもはや常識だ。つまり結果判定できないものは目標ではない。そういうのはただの精神論、根性論と言う。
 
 という訳で、あなたの教会に掲げられている「今年の目標」をもう一度じっくり読んでみることをお勧めする。その目標は今年の12月頃に、成否が明確に判定できるものだろうか。
 もしできないとしたら、その目標が何のか、もっと言うと必要なのか、今のうちに考えておいた方が良いと私は思う。余計なお世話なのはわかっているけれど。

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