先日はいただいた体験談から、クリスチャンの恋愛について書いた。
とある教会の、信徒の恋愛に関するトンデモ過ぎるルールに関してだ。若い男女の縦列行進とか、デートプランの提出とか事後報告とか、真面目にやっている人が本当にいるのかと疑うほどのトンデモ加減で私も驚いた。けれど同時に、大真面目に従う人もいるんだろうなとも思った。そういうトンデモが当然のようにまかり通るのが、信仰的虐待の現場(=教会)だからだ。
ところでコメントも沢山いただいて感謝。いろいろな意見があって興味深かった。
その中で『聖書が教える恋愛講座』という書籍を紹介するものがあったけれど、まあクリスチャンの恋愛というテーマではよく引き合いに出される本である。私も読んだことがある。内容は簡単に言うと「キレイな正論」である。
全ては覚えていないけれど、恋愛を神様に委ねること、相手を誠実に愛すること、純潔を守ることの素晴らしさ、みたいなことだったと思う。奔放な恋愛とその結果としての悲劇がほとんど常態化している現代日本においては、ある意味で必要なメッセージを含んでいるように思う。日本においては古典的結婚観への回帰、とも言えるかもしれない。
けれど一つ気になるのはこの本の邦題で、「聖書が教える」というのはちょっと違う気がする。なぜなら聖書は恋愛について明確に教えていないと思うからだ。もちろん「人はその親を離れて・・・」に代表される、結婚の原則みたいなものは書かれているけれど。
もちろんこれは邦題の問題で、原題は" I kissed dating goodbye "である。「デートにさよなら」みたいな意味であろう。
さてこの本の内容は「キレイな正論」である。著者であるジョシュア・ハリスの失敗談も書かれているけれど、それはむしろ正論を際立たせる。
もちろん正論は正論であって、何も問題ない。むしろ理想形であろう。万人がそういう生き方ができるなら、この世界はもっと良くなっているかもしれない。
けれどもしそういう理想形を体現している人がいるとしたら(教会でもどこでも未だ見たことがないけれど)、私は逆に気持ち悪く感じると思う。なにか完璧すぎて、かえって近づけないと思う。まるで汚してはいけない部屋に入ってしまって、立つも座るもできない、みたいな感じだ。およそ人間らしくない。
この本が示す理想形をキリストの受肉にたとえるなら、富裕層の暮らすキレイな住宅街の真ん中に、神々しい光を放ちながら完全武装の神が降り立った、みたいな感じだと思う。その目は人間のうしろめたさを全て見透かしている。私がもしその場にいたら逃げ出すだろう。
けれど実際の受肉はその真逆であった。誰も顧みない宿屋の馬小屋で、最貧層の状態で、何もできな赤子の状態で、神がやって来られた。また大人になった神もやはり貧しい身なりをしていて、自らすすんで売春婦とか不正な役人とかを訪れた。
でもだからこそ、そういう神だからこそ、私たちは神のもとに行けるのではないだろうか。
人間弱いもので、なかなか理想通りにできない。むしろ理想を求めながらも多くの失敗をする。そこへ正論を突き付けられるのは、それが正しいだけにキツい。
何が正しいか、あるいは間違っているか、案外みんなわかっている。たとえばこの本に書かれている「相手を尊重する」とか「時期を待つ」とか、そんなの当たり前な話だ。聖書から教えられるまでもない。問題はそれが正しいかどうかでなく、それを守れないのが人間だ、という前提が見過ごされている点にあると私は思う。
「でもクリスチャンは神にあって変えられていくのです。クリスチャンの人生は再創造の人生なのです」と主張する人もいるだろうけれど、それは結局のところ自分軸の話だ。神がどうかでなく、自分がどうかという視点しかない。
一つ忠告しておくと、この「変えられていく」を「罪を犯さなくなる」と勘違いしてはいけない。それは自分自身の内面を見れば、すぐにわかるはず。
むしろ私が思うクリスチャンの希望あるいは再創造は、どんなに罪を犯しても神のもとに出ることができる、それでも神は私を愛している、というシンプルな真実に気づくことである。
私の家にも、この本があります。
返信削除翻訳者のお一人は、私共が10数年前に所属していた団体で牧師をされていた方です。
今や問題のある団体と言われています。
一緒だった訳ではありませんが、それぞれ脱退して今に至ります。
我が家は数年前まで、ホ-ムスク-リングをしていた事や、チアにっぽん創設者との昔からの関わりもあり、今も福音派系統の教会に所属している事から、兎に角聖書がこう言っているのだから、神の御心はこうなのだから、クリスチャンはこうするのが当たり前だ………等と、聞いた風な、見てきたかなような事を言うな、と言いたい。
福音派系統の教会は、律法主義であり戒律主義であり、人間味の欠片もない、馬鹿の集まりです。聖書が聖書がと口を開けば呪文の如くに言っておりますが、聖書の何処をどう読めばそう言う思考になるのか?
初めに教理ありきで、数々のテキストと書物ありきの解釈と信仰な訳で、牧師の志向の丸写しの言いなりであり、半日韓国のデボ-ションテキスト「リビングライフ」を推奨し、イベント参加奨励。
何処の国の方ですか?
口を開けば日本はダメだ。神を知らないからあんなことこんな事を平気でやるんだ。
鬼は外福は内、雛祭りに端午の節句、七夕祭りにお彼岸に……全ては偶像礼拝だから。
ロ-マでこしらえられて、沢山の宗教と混和し、偶像礼拝に寛容であったため、皇帝に数々の宗教と共に認定されて、皇帝の任命で教皇が置かれて正統教理がこれだと制定され、カトリック教会が地上の王となった。
幾ら反対し反論しようとも、プロテスタント教会はその子供。全てを受け継いでいる。
ニカイヤ信条に「我は……信ず、聖なる公同の教会」の英語の箇所はThe Holy Catholic Church です。カトリック教会に帰依しているのです。プロテスタントであろうと。
頭を使って調べれば、白人至上主義の、欧米の植民地支配の道具でしかないと言う現実に、嫌でも気付く筈です。
所詮宗教は心の問題だけなのです。
信仰を持てば、ありがたや~健康でイキイキとハツラツと、病気も痛みも悩みも吹っ飛ばす。
信仰のために悩んだり、大変な目にあったり、苦しんだりなんて、可笑しいと思わないと駄目でしょう!
騙されてはいけません。
みんなお金のために必死です。
食ってくために、人を集めないと。献金たんまり集めないと。10分の一は神のものだと焼き付けて、信じ混ませて捧げさせないと!
商売に引っ掛からない様に、頭を使って蛇のようにさとくしなさいと、イエス様は仰られたのです。
神殿で商売をする「牧師を」追い出されたのではありませんか?
聖書から、どんな説教でも編み出すことが出来るのです。
洗脳の道具が教会なのです!
日本はダメだ。神を知らないからあんなことこんな事を平気でやるんだ。
返信削除鬼は外福は内、雛祭りに端午の節句、七夕祭りにお彼岸に……全ては偶像礼拝だから。
これではものみの塔聖書冊子協会と同じなのです。エホバの証人の二世で現在は親とも宗教とも縁を切ってしまった人がいますが、その人の話によると「いちど誘われて新興宗教系プロテスタントの教会に行ってみたことがあるが、教会に集っている人間から発する雰囲気やお堂全体に漂う空気が、エホバの証人たちや王国会館とそっくりだった。こんなところに行ったらまたしんどい目にあいそうだと思った。もう二度と教会と名のつくところには行かないし、神も仏も信じないと決めた。」
キリスト教を信じることは日本を否定することではありません。新興宗教系プロテスタントは日本を否定することが神に近いと勘違いしているのではないかと思います。
植村正久は当時台頭しつつあったホーリネスを見て、「ああいうのは文字信仰だ。まともな基督者のすることではない。」と批判しました。植村は教条主義に陥って、キリスト教の本道を見失いがちな新興宗教系プロテスタントに否定的でした。私たち日本人が目を向けるべきは、質は粗悪で数だけはやたらと多いのを誇っている韓国の新興宗教系プロテスタントではなく、植村正久の文字信仰批判ではないかと思います。
その通りですね。
削除そんな教会の宗教がリバイバルしては大変なことになります。
その教えの根底を知らず、甘~い表面の教えと御利益でうっとりしてマインドコントロールされてしまった人々には、外部また時には内部からの指摘や批判には耳を貸そうともしない。そんな人は信仰から漏れてしまった人だから危ない人。関わらないで行きましょう。もう来ないでください。他の教会に行かれては・・・・等など、大体わかります。
ふと部外者の目を持って観たら、おかしな集団ですよ。
自分達だけが正しいと言い、この教えこそが正しいと守ってきた物ですと言い、日本の国は神を知らないから駄目だ(米国が、神を信じて素晴らしいと憧れる彼らが、この国に人種差別と人体実験と、白人以外は人間でないのだから何をしても良いと言う思想のもとに、原子爆弾を投下し大量虐殺を行い、敗戦国だからと罪意識を植え付け、いまだに米国に人殺し野郎!と向かって行く人などおりませんが)、この国は偶像を拝んでいるから駄目だ、戦争で中国・朝鮮に酷い事をしたから(正しい歴史を教えられていないので嘘なのに信じ込まされています)その当然の報いだ・・・・・などとおバカもほどほどにして、居なくなって欲しいものです。全く必要ありません。
彼ら福音主義・ペンテコ・カリスマ教会は、自分の食いぶちと野望とに駆られて、大勢の人達を犠牲者に仕立て上げる、害毒垂れ流しの人種でしょう。