クリスチャンの「恋愛」に思う理想と現実

2015年3月7日土曜日

クリスチャンと恋愛

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 先日はいただいた体験談から、クリスチャンの恋愛について書いた。

 とある教会の、信徒の恋愛に関するトンデモ過ぎるルールに関してだ。若い男女の縦列行進とか、デートプランの提出とか事後報告とか、真面目にやっている人が本当にいるのかと疑うほどのトンデモ加減で私も驚いた。けれど同時に、大真面目に従う人もいるんだろうなとも思った。そういうトンデモが当然のようにまかり通るのが、信仰的虐待の現場(=教会)だからだ。

 ところでコメントも沢山いただいて感謝。いろいろな意見があって興味深かった。

 その中で『聖書が教える恋愛講座』という書籍を紹介するものがあったけれど、まあクリスチャンの恋愛というテーマではよく引き合いに出される本である。私も読んだことがある。内容は簡単に言うと「キレイな正論」である。

 全ては覚えていないけれど、恋愛を神様に委ねること、相手を誠実に愛すること、純潔を守ることの素晴らしさ、みたいなことだったと思う。奔放な恋愛とその結果としての悲劇がほとんど常態化している現代日本においては、ある意味で必要なメッセージを含んでいるように思う。日本においては古典的結婚観への回帰、とも言えるかもしれない。

 けれど一つ気になるのはこの本の邦題で、「聖書が教える」というのはちょっと違う気がする。なぜなら聖書は恋愛について明確に教えていないと思うからだ。もちろん「人はその親を離れて・・・」に代表される、結婚の原則みたいなものは書かれているけれど。

 もちろんこれは邦題の問題で、原題は" I kissed dating goodbye "である。「デートにさよなら」みたいな意味であろう。

 さてこの本の内容は「キレイな正論」である。著者であるジョシュア・ハリスの失敗談も書かれているけれど、それはむしろ正論を際立たせる。
 もちろん正論は正論であって、何も問題ない。むしろ理想形であろう。万人がそういう生き方ができるなら、この世界はもっと良くなっているかもしれない。

 けれどもしそういう理想形を体現している人がいるとしたら(教会でもどこでも未だ見たことがないけれど)、私は逆に気持ち悪く感じると思う。なにか完璧すぎて、かえって近づけないと思う。まるで汚してはいけない部屋に入ってしまって、立つも座るもできない、みたいな感じだ。およそ人間らしくない。

 この本が示す理想形をキリストの受肉にたとえるなら、富裕層の暮らすキレイな住宅街の真ん中に、神々しい光を放ちながら完全武装の神が降り立った、みたいな感じだと思う。その目は人間のうしろめたさを全て見透かしている。私がもしその場にいたら逃げ出すだろう。

 けれど実際の受肉はその真逆であった。誰も顧みない宿屋の馬小屋で、最貧層の状態で、何もできな赤子の状態で、神がやって来られた。また大人になった神もやはり貧しい身なりをしていて、自らすすんで売春婦とか不正な役人とかを訪れた。
 でもだからこそ、そういう神だからこそ、私たちは神のもとに行けるのではないだろうか。

 人間弱いもので、なかなか理想通りにできない。むしろ理想を求めながらも多くの失敗をする。そこへ正論を突き付けられるのは、それが正しいだけにキツい。

 何が正しいか、あるいは間違っているか、案外みんなわかっている。たとえばこの本に書かれている「相手を尊重する」とか「時期を待つ」とか、そんなの当たり前な話だ。聖書から教えられるまでもない。問題はそれが正しいかどうかでなく、それを守れないのが人間だ、という前提が見過ごされている点にあると私は思う。

「でもクリスチャンは神にあって変えられていくのです。クリスチャンの人生は再創造の人生なのです」と主張する人もいるだろうけれど、それは結局のところ自分軸の話だ。神がどうかでなく、自分がどうかという視点しかない。
 一つ忠告しておくと、この「変えられていく」を「罪を犯さなくなる」と勘違いしてはいけない。それは自分自身の内面を見れば、すぐにわかるはず。

 むしろ私が思うクリスチャンの希望あるいは再創造は、どんなに罪を犯しても神のもとに出ることができる、それでも神は私を愛している、というシンプルな真実に気づくことである。

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