村上密先生の最近の記事『カルト化教会は監視社会』を読んで。
まさにその通りってケースを思い出したから、書いてみたい。
もう10年ほど前になるけれど、ソウルへ行った。観光でなく、教会研修みたいなものである。何日かかけて市内の主要な教会を回った。その合間のある夜、偶然とある賛美集会があるのを知って、飛び入りで参加することになった。
詳細は書かないけれど、ソウルでは名の知れた牧師がリードする賛美集会だった。専属の賛美チームがあって、それが教会という形態なのかどうかよくわからなかったけれど、すごくよく統率されていたのを覚えている。
賛美集会としてのクオリティは相当高かった。演奏もタイミングも全体の流れも洗練されていて、日本ではまずお目にかかれないレベル。聖霊派の連中に言わせれば、「聖霊の圧倒的な臨在」に包まれた集会、ということになる。私も当時は感動と感嘆に言葉を失った。
たぶん知ったかぶりの「霊的」クリスチャンがその会場に入ったら、すぐさま目を閉じて両手を挙げ、感動に打ち震えて涙を流すに違いない。「これぞ主の臨在。私にはすぐわかる」とか言いながら。
けれど集会の後、私は感動とは違った意味で言葉を失った。
集会が終わって、しばらくそれぞれ自由に過ごしていた。舞台から降りた賛美チームの面々は、皆意外と若かった。というより子供? おそらく大部分が十代。いってて二十代。
そこへ牧師の号令がかかった。言葉は全然わからなかったけれど、おそらく「集合」みたいな意味だったはず。
するとあちこちに散っていた賛美チームの面々が、一斉に牧師のもとに飛んできた。皆駆け足である。クモの子散らすの正反対。なにこれ集団行動?
そして牧師が話しだすと、皆ウンウン頷きながら聞いている。近くにいた女の子のウットリしたような眼差しが忘れられない。牧師に心底心酔しているようだった。
牧師もそれを知ってか知らぬか、自信満々、皆の衆にとうとうと話している。
それで話が終わると、今度は牧師の号令とともに後片付けが始まった。これもよく統率された動きだった。ランダムに立っているメンバー1人1人が、まっすぐ自分の持ち場に向かう。そして若いのに誰も一言も口をきかず、黙々と自分の作業を進める。
よく統率がとれている、よく訓練されている・・・というより、もはや怖いくらい完璧な「人間コントロール」に私には思えた。軍隊だってここまで統率できないだろう。とても生きた意志ある人間の行動とは思えない瞬間だった。
何かに魅せられて、自分の意思など放棄してその言葉に従っている、と言ったらいいだろうか。
私が見たのはほんの一部分だけれど、彼らの1日を追ったらどうなるのだろうか。もっとすごい光景を見ることになりそうだ。
この光景はながらく忘れていたものだけれど、冒頭の村上密先生の記事がキッカケで思い出した。「同じカラーに染まっている」というのがまさに的を射ている。
自由意思が尊重されているなら、集団内はそれぞれイロイロな色が混在することになる。混ざり合わない部分もある。それは人間の集まりである以上当然だ。
けれどそれを「不一致」とか「和合してない」とか断罪して、全て同じカラーで染めようとする牧師なり教会なりがある。その行動は一見聖書的・信仰的に見えるかもしれないけれど、単なる権威主義でしかない。
そういうキリスト教信仰と権威主義の、本来なら明確になっているはずの境界線が、なんとも曖昧になっている。それが昨今のキリスト教会に多く見られる現象ではないかと私は思う。
またその「見事なまでの統率」を「すごい」とするか「こわい」とするか、そのあたりの感覚も命運を分けることになりそうだ。
最後に今回の紹介記事を一部引用させていただき、終わりにしたいと思う。
「みんながにこにこして、歓迎してくれたら、要注意である」
つまり、初めて行った教会で歓迎も挨拶もしてくれない人がいて、なんてひでー奴だよ本当にクリスチャンかよとか思うんだけれど、案外それが普通なのかも、って話。
|「みんながにこにこして、歓迎してくれたら、要注意である」
返信削除|つまり、初めて行った教会で歓迎も挨拶もしてくれない人がいて、なんてひでー奴だよ本当にクリスチャンかよとか思うんだけれど、案外それが普通なのかも、って話。
このまえ、大久保駅近くのでかいきよめ派を訪れました。
礼拝はすでに始まってたし、次の用事もあったので、週報とか資料もらって去りたかったのですが、
へんに受付が僕の周りをうろうろして、少しでもお出になったら、とか言うし、
帰り際に未信者扱いして、
こちらを代わりにお持ちくださいと、
渡されたのよりはるかに薄いチラシ束を姉妹が外で交換しようとしたので、シカトして去りました。
週報をみたら、教会建設費用の数字がケタ違いでしたね。
ひとりでも多く加わってほしいのもわかるけど、もちっとほっといてほしかったかな。