昨日は3月11日。当然ながら東日本大震災の話題があちこちで見られた。
当ブログも意識した訳ではないけれど、今月に入ってから震災関連の記事をいくつか書いている。震災そのものについてでなく、それに対するキリスト教会の反応についてだけれど。
それで昨日は震災ついて何か書こうかと考えていた。けれど結局やめた。どうにも考えがまとまらなかった。
テレビやSNSを見てみると、考えさせられる意見も多かった。311が「感動ショー」になっているとか、被災地のことを被災していない人間に語ってほしくないとか、被災はまだ現在進行形だから終わったみたいに言うなとか。うん確かに、と思うところもある。だからこそ不用意に書いてはいけないと思った。
ただ一つ気になったのは、震災当時に実感として強まっていた人々の「助け合い」精神みたいなものが、今はほとんど見られなくなったのではないかな、ということだ。2011年は「絆」という言葉がよく取り上げられたけれど、今震災の話になると、むしろ「対立」が起きているように思う。それが悪いという話ではないけれど。
・震災による教会の変化
復興支援に携わった教会もイロイロな変化を経験したと思う。良い変化も沢山あっただろう。けれど致命的に悪くなってしまった教会もあった。「ユレユレ詐欺」など論外だけれど、そこまで意図的でなかったにせよ結果的に詐欺まがいなことになった、という教会もある。
たとえば「直接的に復興支援をしている教会」には、全国から(あるいは海外からも)義援金や物資が届いた。物資はたぶん捌ききれない量になったはずだ。けれど食品なんかは賞味期限があるから置きっぱなしにもできない。あるいは被災地の現状に合わない物資なんかは、持って行けないから教会に溜まっていく。そういう事情で「被災地で消費できなかった物資」は相当な量になっただろう。いわゆる横流し的な状況もあったと思う。
義援金の扱いも不透明になりがちだった。そもそも義援金をどう使うかという明確なルールがない場合、そのうち、ボランティアの交通費とか食費とか宿泊費とかに使ってもいいよね? という話になり、それをキッカケに被災地で開催するイベントの費用とか、そこで使う機材の購入費とかに充てられるようになった。そうやってズルズルと、復興支援費と教会設備費の境界線が曖昧になっていったのである。もともと教会の与力が少なかったという事情もあっただろう。お金の誘惑も大いに働いたと思う。
それが結果的に、復興支援のための義援金なのに教会が好き勝手に使った、という話になったケースもあっただろう。上記のような事情があったのはわかるけれど、だからと言って許されていいということでもない。
・震災に依存するようになった教会
という訳で「復興支援」を掲げることは、震災当時ほどでないにしても、まだ教会にメリットをもたらしている。もしかしたらまだ義援金をもらっている教会があるかもしれない。
また自分たちの復興支援活動をアピールすることが、教会の推進力ともなっている。そういう教会はもはや、「震災」から離れることができない。
私が知っているケースでも、日曜礼拝のメッセージに毎週のように復興支援の話を絡める牧師がいる。自分たちがいかに苦労してボランティアをしたかとか、どれくらい被災地の役に立てたかとか。あるいは被災地の誰某からの手紙を紹介するとか、そういう人たちとの心温まるエピソードを紹介するとか。その流れは単純で、「被災地の感動→神様すごい」である。
そういう感動によって教会を盛り上げ、いかにも社会に開かれた教会、社会に心がある教会みたいなイメージを発信する。
けれど失礼ながらそういう教会は、「被災地に心がある教会」と言うより、「被災地との繋がりを頼りにした教会」である。そこに不幸な人たちがいなければ、教会としてアピールするものがなくなってしまう。
だから「震災から4年たったけれど何も解決していない」という言葉を教会が発する時、それがどういう動機で語られているのか、注意しなければならないと思う。
純粋に被災地のためなのか、実は自分たちのためなのか。
そんなことを考えた311の夜であった。
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