「弟子訓練」を強調する教会が、いわゆる「伝道弟子訓練用テキスト」を独自に発行している。
いつも伝道に失敗してしまう人、どうしたらいいかわからない人に、具体的伝道方法を指南するテキストだそうな。
その内容は知らないけれど、「弟子訓練」という時点で方向性がズレているのは今までも書いてきた通り。だからどんなに素晴らしく効果的な「弟子作りの方法」が書かれているとしても、それはキリストが言った弟子とは何の関係もない。むしろ聖書に対立する考え方である。
ということは先に書いておく。
そこの牧師が「弟子訓練」を推奨する理由の1つに、「毎年1人が1人を導く」というのがある。
クリスチャンが毎年1人を(救いに)導けば、(理論上は)倍々と増えていって、ごく短期間で日本中がクリスチャン化する、という話。
それを実証する簡単な計算表も作っていて、それによると初めが50人くらいでも、毎年1人が1人を導けば、20年ちょっとで日本人口に達する。あくまで理論上は。
実はこの表、ずいぶん前にも見たことがある。その時も「毎年1人が1人を」と言っていたので、有言実行していたなら、今は何千人規模の教会になっているはずだ。
そういう話は聞かないけれど。
私が思うに、「毎年1人が1人を導く」は現実的でない。
皆さんもご自身のこととして考えてみればすぐにわかると思う。初めて知り合った相手と、1年でどれくらい仲良くなれるだろうか。どれくらいの信頼関係が築けるだろうか。
仮に初めからウマが合って良い関係を築けそうだとしても、深く信頼し合う師弟関係にまで持って行けるだろうか。
また導かれる側で言えば、たった1年の付き合いで、自分の人生を相手に完全に預けることができるのだろうか。
もちろん知り合って数か月で結婚するカップルがいるくらいだから、1年ですっかり師弟になれる人たちもいるかもしれない。けれどそれは万人に当てはまることではない。むしろ少数派であろう。
人にもよるだろうけれど、人間関係における1年は、まだまだ始まりの始まりに過ぎない。
この理論のもう1つの問題点は、たった1年で聖書をどれくらい教えられるのか、という点にある。
神学校で何年もみっちり勉強したって十分とは言えないのだから、互いに仕事やら学校やらで忙しい人たちが時々集まって学んだって、1年で十分とは決してならない。むしろどれだけ不足しているかって話になる。いわゆる「福音メッセージ」なら話せるようになるだろうけれど、それで聖書を知ったと言うのは、単なる「知ったつもり」だ。
そういう聖書「知ったつもり」が、昨今の聖霊派・福音派の逸脱の温床にもなっていると私は思う。
だから人間関係においても聖書知識においても、「毎年1人が1人を導く」は無茶苦茶な話である。
仮にその手法が奏功し、クリスチャン人口が倍々で増えていったとしたら、そっちの方が恐ろしいと私は思う。いったいどれだけの「聖書知ったつもりクリスチャン」が増殖し、実は薄弱な人間関係を「主にあるコネクション!」とか呼ぶケースが蔓延するだろうか。
くわえて「弟子訓練」そのものが抱える問題もある。つまり教会の権威主義化、階層化だ。以前も書いたけれど「弟子訓練」は厳密な主従関係、上下関係をもたらす。そこでは「神の言葉」より「師の言葉」の方が絶対であり、逆らうことができない。そしてそれが聖書的でないことに気づけない。なぜなら聖書を「知ったつもり」だから。
この「毎年1人が1人を導く」が何年たっても進んでいない現状を、私は幸いに思う。
この理論がもたらす未来は、「日本人みんなクリスチャンでハッピーな社会」ではない。知ったつもりクリスチャンが知ったつもりクリスチャンを量産する世界、全然聖書的でない上下関係と権威に支配された世界、である。いわゆる中世的封建社会、理不尽な暴力がまかり通る社会への逆行と言ってもいいかもしれない。
いったい誰がそんな世界を望むだろうか。