2015年2月27日金曜日

「自分たちの方が〇〇できる」とか言うけどさ・・・

 今月20日、川崎市内の河川敷で、中学1年生の男の子が遺体で見つかった。そして1週間後の本日27日、殺人容疑で17歳、18歳の少年らが逮捕された。本当に痛ましい、あってはならない事件だと思う。被害者のご冥福とご遺族の慰められることとを心から願う。

 事件の背景が次第に明らかになっている。被害者少年はいわゆる不良グループとの交流があり、今年に入ってから不登校になっていたという。また1ヶ月前から身体に暴行の痕跡もあったという。

 そういう状況で注目されるのが、それぞれの責任問題だ。学校はどう対応したのか、教育委員会はどう対応したのか、警察の捜査はどうだったのか等。つまり事件発生を予期できたのではないか、対応に不備はなかったのか、もっと〇〇すべきだったのではないか、みたいな責任追及である。

 けれど今回の場合、学校の担任教師は数十回にわたって家庭に電話連絡し、数回訪問もしているとのこと。部外者だから何とも言えないけれど、一般的な教師のタイムスケジュールからしたら精一杯の対応だったのではないかと私は想像している。

・ここから本題

 ところでSNSを見てみると、あるクリスチャンがしたり顔でこんなことを言っている(要約して書く)。

「わたしの学校ならこんなことにはならない。不登校になった時点で介入して、みすみす見殺しになんてしない。(被害者の学校は)なんてひどい学校だ」

 この書き込みの方がよっぽどヒドくてイタい。詳しい状況を知ってて書いてんの? 当事者たちの経緯を詳細に知ってんの? 部外者がここまで大きな口たたく方が恥ずかしいって気づかない?

 メディアで報じられた、被害者の顔面に大きなアザがある画像だけ見て、「こんな状態を放置するなんてあり得ない」とか言っているけれど、それは心理学で言う「後知恵バイアス」だ。事が起こった後だから言えるに過ぎない。
 それに、「自分たちがこの教師の立場だったら」なんてタラレバは意味がない。何とでも言えるからだ。また「自分たちだったら防げた」みたいな発言も失礼だ。特に遺族に対して。だったらやってみろ、遺族にそれを言ってみろ、という話だ。

 言うなれば、卑怯な後出しジャンケン。一部のクリスチャン特有のいやらしい独り善がり。

 そこにはおそらく、一部のクリスチャンが根強く持っている公立学校批判の影響もある。ミッションスクールやチャーチスクールみたいに聖書を土台に教えるべきだ、それをしない公教育はダメだ、間違っている、という手前勝手な決めつけ。

 じゃあチャーチスクールがどんな人間を排出できたと言うのだろうか。そのへんを棚に放り投げて偉そうなこと言ってもね・・・。

 という訳で、クリスチャンの「常識」が疑われかねない事例なので取り上げてみた。

2015年2月26日木曜日

これ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞を考えてみた

 これを言ったら要注意クリスチャン認定だろう、という台詞を考えてみました。つまり教義理解とか聖書解釈とか信仰の姿勢とかがおかしいだろう、と思われるような台詞の数々。
 以下、箇条書きにしてみます。

・「私が祈ると、主が聞いて下さるんです」

→自分が祈ると全てその通りになる、自分の祈りは特別だ、と勘違いしている人の発言。自分のことを「とりなし手」だと自負しているケース多数。祈りが実現しないと、「悪霊が邪魔している」「まだ時でない」とか都合のいいことを言ってごまかすのが特徴。

※類義語
「主が私に祈らせるんです」
「夜中に突然目が覚めるのは、主が祈れってことです」
「主が私にとりなすよう言ってくるから仕方なく・・・」(←イヤなら祈るな)

・「これは主からの特別な啓示です」

→神様が自分だけに特別に真理を現されました、でもこれは多くの人にシェアすべきと思いますので語ります、ということで聖書の「新解釈」を披露するための発言。でもそれを言い出すと、聖書は何千通り、何万通りの解釈ができる気がしますが。

※類義語
「真理の回復」
「後の雨の祝福」
「神様の秘密」
「裏啓示」(←なんだそれ)

・「目覚めよ!」

→「霊的覚醒」をしている(らしい)人が、まだ覚醒していない人に向けた言葉。けれど実際は、これを言う人の方が目覚めてません。逆にお前が起きろよって話。

※類義語
「wake up!」(英語にしただけ)

・「日本に新しい季節がやってくる!」

→季節は定期的にやって来ます。珍しいことではありません。
 もちろん「霊的な意味でだ!」ということでしょうが、それを言う人は10年前にも20年前にもいました。この間、べつに「霊的」な変化などしていませんが?
 それに「新しい季節」ってどういう意味ですか? 具体的に、未信者でもわかるように説明してもらっていいですか。

※類義語
「夜明けがやってくる」
「義の太陽がのぼる」
「新しい時代の到来」
「新しい風が吹く」
 ちなみに、これを言った人の方が吹き飛ばされちゃったって実話もあります。

・「次世代が鍵です」

→本質的には間違っていませんが、「次世代」を強調しすぎです。次世代以外の世代だって大切です。そしてたとえば、次世代(若者)が高齢世代を導くというのは現実的でありません。単に元気で従順な若者を釣りたいだけでしょう。
 逆に高齢世帯を釣りたい場合は「人生の先輩方、黄金世代が鍵です」とか言う。

※類義語
「ユース世代」(カタカナにしただけ)
「next generation」(英語にしただけ)

・神様を友達感覚で呼ぶ

 神様との親しさ、親密さをアピールしたいのでしょう。たとえば「天パパ」(←天のお父さんという意味)「ダディー」「ダーリン」「聖霊っち」(←たまごっちかよ)など。
 聖書に「アバ、父よ」という表現があるので、親しく呼ぶこと自体は問題ないかもしれないですが、そういう人たちが神様と「親密」とは考えにくい現状があります。だから彼らのそれは「親密さ」というより「不遜」でしょう。

・「主は選択の自由を与えられましたが、それは私たちが主に喜ばれる道を選択する為です」

→これのどこが悪いの? と思われるかもしれませんが、これは逆に選択権を放棄させる為のレトリックです。たとえば「今、主がこれをあなたに願っている。あなたは従うか、従わないか?」みたいな究極の2択を突きつけておいてから、上記の台詞の言うのです。言われた方にはもはや選択の自由はありません。真面目なクリスチャンであればあるほど。
 もっとも、そこには「牧師の言葉=神の言葉」という前提がありますが。

※類義語
「せっかくの主の祝福を逃すのですか」
「この選択はあなたの人生における重要な分岐点です」
「うわべだけのクリスチャンは、ここ一番という時に主を選べないものです。あなたはどちらですか?」

・「世の終わりが近いと思いませんか?」

→世界情勢だけ見て決めつける発言。聖書的根拠があるようでまったくない。
 世界情勢、とりわけ中近東情勢に詳しいのをアピールしたいだけのような気もしますが。2014年10月あたりにも「これはもう間近だ」と深刻そうに言っていた人がいましたが、どこに行ったんでしょうね。というかそういう人はいつの時代もいるようですが。

 以上、これ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞。
 また思い付いたら書きます。

2015年2月25日水曜日

【記事紹介】「カリスマ運動と異言について」

 私は常々自分なりの切り口で、キリスト教信仰(特に聖霊派クリスチャンの)の問題点を書いている。それは多くは体験に基づくもので、「これは良いように思えても結果的に悪いことになってしまう」という結果の積み重ねに依っている。

 たとえば「弟子訓練」は、導入の初期こそクリスチャンの成長に有用に思えた。そして個々のクリスチャンが成長すれば教会全体としても成長し、信徒の数も増えていくだろうと思われた。

 けれどフタを開けると、「弟子訓練」は師匠―弟子の絶対的主従関係をもたらし、カースト的支配組織を教会にもたらした。そこには表向き神に聞き従っているようで実は先輩に聞き従っているだけ、という強固で不可逆的な権威主義が根付いてしまった。

 という風に聖霊派信仰の主張の多くは、理想は良くても結果が伴っていないことがほとんどだ。「聖霊体験」も「癒し」も「力の伝道」も「リバイバル」も、その他の諸々も、牧師の口から出る段階ではきらびやかだ。掲げられた美しい理想に心酔して信徒はそこに向かうのだけれど、行けども行けども辿り着けない。行けばいくほど現実から乖離し、消耗し、喪失していく。でも表向きは楽しく、美しく、ドラマチックに見える。その陰で多くの信徒が理不尽に耐えているのはなかなか見えない。

 そういう、体験したからわかることを私は主に書いている。そして体験を書くのはある人々にとっては有用ではないかと思っている。

 けれど弱点もある。聖典である聖書がどう言っているか、あるいは言っていないか、という根拠付けが弱い(と自覚している)という点だ。
 それは一方では、信仰的虐待の被害者は聖書さえ開きづらいだろうという配慮からでもある。
 けれどもう一方で、やはり何が悪かったのか、何が間違っていたのか、ということを聖書から根拠付けられるのも大切だと思う。そこで今回紹介したいのが下記の記事である。

「カリスマ運動と異言について」

 SNSで紹介していただいた記事だけれど、聖書の言葉と共に「カリスマ運動」の問題点が解説されていてわかりやすい。
「カリスマ運動」という表現でなくても、現在多くの福音派、聖霊派教会が同様の問題構造を孕んでいる。賛成反対イロイロあるだろうけれど、多くの人に読んでいただきたいと思う。

 信仰的虐待の被害者は、聖書の言葉をもって「虐待」を「聖なる訓練」に変換させられている。だから逆変換にも聖書の言葉が必要かもしれない。
 とにかく多くの人がその虐待に気づき、解放されることを私は強く願っている。

補足)
 ちなみに上記記事は、山添浩二氏のHP「心に響く聖書の言葉」内の一記事である。他にも様々な記事があるけれど、もちろん賛否両論あると思われる。私個人としても委細全てに賛同しての紹介でないことを補足しておく。

2015年2月24日火曜日

信仰的虐待の被害者が相談してはいけない相手

 カルト被害者、と言うとカルトと非カルトの微妙な線引きの話になりやすい。特に定義屋さんがそういう話を好む。けれどそういう議論はほとんど意味がない。だからここではあえて、信仰的虐待を受けた人、と言っておこう。そうすればカルトか非カルトかはあまり問題でなくなる。とにかく教会という場所で、キリスト教信仰と類似した方法で、牧師とかリーダーとか呼ばれる人たちから、酷い目に遭わされた人、という意味になるだろう。

 私は常々そういう人たちの為に書いている。そして今回は特に「信仰的虐待を受けた人」について書きたい。

 信仰的虐待を受けた人は、どのように回復していくか。
 これは大変難しい問題だから一概には語れない。被害の個人差も大きいから一括りにもできない。けれどおおよその道筋みたいなものはあると思う。それについて順を追って書いてみたい。

①気づく

 まずはじめに、被害者は被害者であることに気づく必要がある。
 気づく前、被害者はあくまで信仰によって、神に従って歩んでいると信じている。どんな理不尽も「訓練」だと思わせられている。だからいつの日かこの苦労が報われると信じている。
 また、もし従わないなら信仰を捨てることになる、神を捨てることになる、という恐怖感もある。あるいは地獄に堕ちるのではないかという恐怖感。

 だからそういう状態で自分から「気づく」のは簡単なことではない。「何かおかしい」と薄々感じているかもしれないけれど、具体的な行動を起こすほどではない。

 こういう場合、周囲の良識ある人間が半ば強制的に本人を教会から引き離すとか、あるいは教会内部で大問題が起こるとか、そういう大きなキッカケがなければどうにもならない。

 だから「気づく」ことは本当に大切で、それができたら問題は半分解決したと言っても過言ではない。

②離れる

 問題があることに気づいたら、その場所から離れるのが一番だ。
 けれどこれも簡単には行かない。教会が一丸となって一つの方向に向かっていて、それに見事に逆行することになるからだ。それに何だかんだ言っても牧師には世話になっているし、仲の良い信徒もいる。そういう状況で「離れる」のは、ほとんど裏切りに近い(と本人は感じる)。神を裏切り、信仰を捨てることにもなる、とも感じる。だから離れたくても離れがたい。

 ここでもやはり周囲の人間が鍵となる。教会から強制的に引き離すくらいしなければならないかもしれない。
 けれど離れられれば、問題の大きな部分は解決したとも言える。気づけない、離れられない、という状況を考えればそうだ。

③相談する

 たぶん「気づく」→「離れる」の後は人それぞれだと思う。必ずしも「相談する」というプロセスを通る訳ではない。
 けれどおそらく多くの人が、誰かに相談したい、あるいは話したい、と思うだろう。何かの答えがほしいとか、次の教会はどうしたらいいだろうとか思うだろう。

 それで相談すべき相手を探すことになるけれど、ここでも注意が必要だ。

 私が思うに、信仰的虐待について相談してはいけない種類の人たちがいる。そして相談してはいけない人たちに相談してしまうと、ロクなことにならない。むしろダメージが増すかもしれない。誤った解決の道を進ませられるかもしれない。
 そんなことにならないように、安易に相談してはいけない人たちについて紹介したい。それはつまり、

・他の教会の牧師

 他の教会の牧師、まともに見える牧師、親交のある牧師、有名な牧師だからと安易に相談してはいけない。信仰的虐待の実情を知らない牧師は沢山いるし、そういう牧師に被害の話をしてもほとんど無駄だ。どれだけ理解してもらえたように感じても、実はほとんど理解してもらっていないからだ。

 べつに彼らが悪いというのではない。ただ知らないだけだ。けれど信仰的虐待の場合、知らないというのは凶器になる。

 たとえばオレンジを見たことも食べたこともない人は、その見た目や匂いや味をいくら説明されても理解できない。言葉面をなぞることしかできない。
 それと同じで、信仰的虐待という何か酷い目に遭ったらしいことはわかっても、それ以上はわからない。
 実際、そういう被害について相談されたある牧師が、「でも神様を見上げるべきじゃない?」とか平気で言うのを聞いたことがある。

 ここで一つ、そういう無神経牧師の為に書いておくと、「神様を見上げるべき」というのは被害者がずっとずっと自分自身に言い聞かせてきたことだ。そしてそれが被害を増した一因ともなっている。虐待牧師を増長させた理由ともなっている。だからいいこと言ったつもりかもしれないけれど、そんなの薄っぺらい正論に過ぎない。むしろその台詞は被害者を追い詰めてしまうから言うべきではない。

 よくわからないなら、何も言わないのが一番いい。そういうことだってある。

 それに配慮ある牧師でも、信仰的虐待に詳しくないなら、やっぱり最終的には「でも神様はね・・・」という話になる。それを聞くと被害者はガックリ、また放浪の旅に出ることになる。

「でも神様の話をして何が悪いの?」と言う人がいるかもしれない。これはまた別の話になるから詳しく書かないけれど、被害者にとってそれは既に信仰云々とか、神様云々とかの話でなくなっていることが多い。また少なくない人たちが、より専門的な援助を必要としている。同じクリスチャンだからわかるとか、神に仕える牧師だからわかるとか、そういう話でもない。

 またもっと悪いことに、信仰的虐待の被害者を責める牧師がいる。被害について聞くと、「だからって牧師を批判してはいけない。それは神を批判するのと同じだ」とか言って、被害者を罪人呼ばわりする。そして「牧師を許すように」とか「悔い改めるように」とかいう話になる。こうなってしまうと完全にご愁傷様である。

 誤解のないように書いておくと、良い牧師の方も沢山いる。ただ、信仰的虐待の被害者に対応できるかどうかという点においては、また別の話だと私は思うのである。

2015年2月23日月曜日

クリスチャンはまず"do"なのか、あるいは"be"なのか

 まず英語の基礎の話。
 動詞は一般動詞とBe動詞に大別される。ザックリ言って一般動詞はdoのような「行動」を、Be動詞はI am Tomみたいな「存在」を表す。
 以上、中学英語で習う範囲。
 
 これを説教に利用する牧師がいて、クリスチャンはbeでなくdoであるべきだ、みたいなことを言う。つまりクリスチャンという身分・存在(be)に安心してはいけない、どう行動するか(do)が肝心だ、という。
 つまりキリストを信じて救われてクリスチャンになるだけではダメで、その後の人生どうするか、何をするかが重要だ、という話。
 
 この話自体は何も問題ない。またこれはクリスチャンだけの話でなく、一般的にもよく言われることだ。多くのビジネス本や自己啓発本、偉人の名言などもこれを支持している。
 その人の価値は、何をしたかで決まると。
 
 だから上記の牧師に言わせれば、クリスチャンは尚更それらしく行動しなければならない、となる。それで奉仕とか献金とか伝道とかイロイロ当たり前のように要求してくる。それに応じないのはbeに安寧するダメクリスチャン、応じるのはdoに生きる正しいクリスチャン、と評される。
 
 それもある意味で正しい。人間はその行動が良くも悪くも評価され、その評価がそのまま存在意義にもつながりやすいからだ。愛されるも嫌われるもその行動次第。また聖書を見ても、人は地上の行いによって裁かれるとある。
 
 けれど一方で、行動が全てと言ったら言い過ぎになる。たとえば何らかの障害があって人の役に立つ行動が何もできない人は存在意義がない、という話になってしまうからだ。
 もし行動が全てなら、行動できない人に価値はない。じゃあその人たちはどうしたらいいか。死ぬべきか。でも一体誰がその線引きをするのか。という話にもなる。
 
 それに誰にでも大切な人はいると思うけれど、その人が「大切」なのは、何かしてくれるからとは限らない。いてくれるだけでいい、という人も中にはいる。
 
 だから人の価値とは行動だけで決まるものではない。現実には決まりやすいけれど。
 
 そういう視点で昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、どうもbeでいることができず、いろいろdoをして自らの存在意義を表そうとしているように思える。
 
 たとえば宣教活動にしても、「今神様が〇〇に行けと命じておられる」というのが続いてアチコチ行く羽目になるし、集会にしてもやれ青年大会だ賛美集会だ癒しの聖会だで休む間もなく、そうかと思えば新会堂を建てることが御心だとか、福祉事業を始めることが御心だとか、何やかやでイベントのない月がない、いやイベントのない週がない、みたいな状況になっている。
 それで「時間がない」「忙しい」「ここは御心の教会だから」とか言うのだけれど、自ら忙しくしておいて「神に用いられている」と酔っているだけではないだろうか。
 あるいは、doに憑りつかれているのではないだろうか。
 
 もちろん教会としては何か活動すべきだろうけれど、doありきでなく、まずはbeに安心することから始めてもいいのではないだろうか。
 それで何もしなくなるのはまた違うと思うけれど、少なくとも上記のような忙しすぎる状況で「beよりもdoだ」とか息巻いても、あまり良い結果にならないと私は経験的に思う。

2015年2月22日日曜日

あれ、ここって教会だっけ? と思う瞬間

 キリスト教会(プロテスタント)で活動していて、ふと「あれ、ここって教会だったよな・・・」と疑問に思う瞬間が、そう言えばあったなと思う。そういう瞬間について箇条書きしてみたい。

■あれ、ここって教会だっけ? と思う瞬間

・集会の準備で遅くまで残ったのに、牧師にダメ出しされて結局徹夜作業になった時。
→信徒の健康やプライベートより、奉仕のクオリティの方が重視される。それって教会? それ相当の給料をもらって働くならまだわかるけれど(それはそれで会社であって教会ではない)。

・なけなしのお金を精一杯の気持ちで献金したのに、「まだ足りない」と言われた時。
→たとえば「新会堂設立」とか「〇〇購入」とかの為、ないお金を絞って献金した。それは純粋に信仰から出た行為で、必要額に足りないのは重々承知していた。けれど牧師がガッカリしたように「まだ足りない」と言うのを聞いてしまった。それって教会?

・奉仕でミスして、謝っているのに牧師にこっぴどく叱られた時。
→昨今は「正しく叱る」みたいな言葉があるけれど、ある教会ではそんなの関係ねー。牧師はミスした信徒を怒鳴り散らす。ストレス発散みたいに。それでいて後から「あれは愛をもって叱っただけだ。あなたの為だから」とか外為オンラインみたいなことを言う。いやいや、マジで怒ってたよね?

・精一杯考えて代表の祈りをしたら、後から牧師に「あんなこと祈るんじゃない」と内容を完全否定された時。
→いろいろな人に配慮して、内容を考えて適切に祈ったつもりが、後から牧師に「そういう視点で祈るんじゃない」と否定された。祈る内容まで制限されなきゃダメですか?

・正直に話すよう言われて、思い切って牧師に対する不満を直接言ったら、「牧師批判だ」と責められて追い詰められた時。
→「誠意を込めて正直に話すことが大事だ」と常々牧師が言うので、十年以上たまった牧師に対する不満を言ってみた。勇気を振り絞って。すると牧師激怒。「それは牧師批判だ。今から臨時役員会を招集してお前をどう始末するか決めてやる」みたいなことを言う。今からってもう深夜ですけど? そんなに自分が可愛いですか?

・皆で談笑中、牧師がある信徒を笑いモノにして場を盛り上げている時。
→奉仕の後とかで皆で談笑している時、牧師が信徒の失敗談とか笑いネタとか始める。皆大笑いで楽しいけれど、ネタにされた信徒は苦笑い。牧師は「あ、ごめんごめん」とか言うけれど、更に続ける。悪いなんて思ってないよね?

・牧師に明らかに非があるのに認めず、自己正当化に終始するのを見た時。
→謝るってそんなに難しいこですか。

・牧師が明らかに罪を犯して逃亡した時。
 上記につながるけれど、罪がバレた牧師が失踪。全信徒が置いてけぼり。これから教会どうする? てゆうかこれって教会? 何だかんだあって後、本当に教会でなくなりました、チャンチャン、という話。

 もちろん問題のない教会はない。むしろ日々いろいろな問題を皆で解決していくのが教会かもしれない。けれど明らかに牧師に問題があり、かつ誰もそれを指摘できない時、その教会はどうやって健全化すればいいのだろうか。牧師がいなくなる以外の方法を私は思いつかない。

2015年2月21日土曜日

これ言ったら「カルト」フラグ立ちます

 映画やドラマで「死亡フラグ」とされる台詞がある。「この戦いが終わったら結婚しよう」みたいな、それを言ったキャラは遅かれ早かれ死ぬことになる(あるいはその確率が高い)台詞だ。最近はこのフラグを逆手にとった作品もあるけれど、いまだ健在である。例を挙げるとこんな感じ。

・「俺、この戦争が終わったら故郷の彼女と結婚するんだ」→あえなく戦死。
・「戻ったら一杯おごれよ」→戻れない。
・「さあ、さっさと終わらせて夕飯までに帰るぞ」→帰れない。少なくとも夕飯までには。
・「俺はまだこんなところで死ねねー!」→壮絶に死ぬ。
・「こんなのもうイヤ! わたし家に帰る!(と言って飛び出す)」→次に登場する時は死体。

 他にも沢山ある。
 今回はこの死亡フラグを「カルト」フラグに置き換えてみたい。つまりこの台詞を言う牧師やクリスチャンは、カルト疑惑が強く要注意となる(と思う)。もちろん、言ったから必ずカルトという訳でもない。けれどその信仰の姿勢に注意を要するのは間違いない。

■これ言ったら「カルト」フラグ立ちます

・「この集会は聖なる集会です。本当に信じる人だけが参加して下さい」
→彼らの「神」には集会参加の自由がないようです。

・「今から○○のために祈りますが、心を合わせられない人はここで退室して下さい。祈りが妨げられますから」
→彼らの「神」は祈りにも制限を加えるようです。なんか窮屈。

・「(何かのメディアを取り上げて)あれは悪霊の影響を受けているから見てはいけません。見るとあなたも悪影響を受けてしまいます」
→単なる情報統制では。

・「主が今、真の信仰を求めておられます。あなたは今ここで、これを信じますか?」
→その場で究極的な二者択一を迫ってくる。考える時間はもらえない。

・「長時間祈り、賛美し、礼拝することであなたはますます清められます。そして父の御心を知ることができるようになります」
→行為で清められるのではありません。また神の御心は聖書に全部記されています。

・「教会成長に弟子訓練は欠かせません。弟子訓練は神の御心であり戦略です」
→教会内カーストができあがり、権威主義に陥ってしまいます。否定するならあなたが一番下の弟子になってみて下さい。

・「この国のリバイバルのために私(牧師)は全てを捧げています。少しも惜しくありません」
→まずあなた自身が「リバイバル」される必要がありますね。

・「信仰をもって癒しを宣言しなさい。そうすれば必ず癒されます」
→では癒されなかったら信仰がないと? 信じているのに?

・「多く捧げる者は多く刈り取ります。だから多く献金するのは祝福です。どんどん捧げましょう」
→あなたがまずそうして下さい。

・「これは霊的に目覚めていないとわからない事柄です。もっと多くの人が目覚めるように祈ります。」
→寝言は寝ながら言って下さい。

 以上の10項目を全部言ったら、フラグどころではないかも。早急に離れることをお勧めする。

2015年2月19日木曜日

宣教師のスリリングな「証」に感動も感心もできないという話

 海外で働く日本人宣教師の「証」を、時々聞いたり読んだりする。

 キリスト教系雑誌とか無料小冊子とかでよく見かけるし、教会に毎週通っていれば年に数回はそういう話を聞く機会があるだろう。だからイロイロと聞いているクリスチャンの方も多いと思う。

 そういう宣教師の「証」でわりと多いのが、いわゆる「宣教禁止国での危機一髪談」だ。
 たとえば中国とか北朝鮮とか、宣教師という身分では入れない国になんとか潜入して宣教活動をする、という筋の話。当局にバレたり追われたり隠れたりと、けっこうスリリングな展開が多い。

 たとえばこんな感じ(以下は完全にフィクション)。

 中国宣教に向かうことになった。宣教チームを構成し、全員のスーツケースに中国語の聖書を詰めるだけ詰めて、出発。当然むこうの空港でバレるかもしれないけれど、そこは信仰。神様から「強い使命」を頂いているから行くしかない。それでバレずに入国できるようにとか、むこうで十分に宣教ができるようにとか、皆で祈った。
 さて、中国の空港に到着。入国審査が終わり、残すは荷物検査。全ての荷物がX線検査を通る。検査官が画面を見れば、スーツケースの中が聖書でイッパイなのは一目瞭然。無事通れるか? 緊張の瞬間。心臓が口から飛び出すほど激しく鼓動している(という表現が多い)。
 それで神様に祈りながらゲートを通過する。横では自分のスーツケースが機械に入っていく。と、どうだろう、検査官がタイミングよく画面から目を逸らし、同僚と何やらしゃべりだした。画面にはクッキリと聖書が映っている。けれど誰もそれを見ていない。ハレルヤ!
 という訳で自分は奇跡的に通過できた。あとのメンバーがもし止められたら、もう自分だけで行くしかない。そう覚悟を決めていると、なんとメンバー全員無事にゲートを通過してきた。またまたハレルヤ!
 と、安心したのも束の間、後ろから検査官らが走ってくる。何やら厳しい口調で叫びながら。もしやバレたか? でももう少しで空港を出られる。ここは全力ダッシュ! 後ろで何か叫んでいるけれどかまわず走り続け、なんとかトイレに逃げ込んだ。・・・

 みたいな感じである。話はまだまだ続くけれど、似たような危機一髪&奇跡(?)&ハレルヤの繰り返しだから省いても問題ない。

 この手の「宣教禁止国で危機一髪談」を語る宣教師がいる。もちろんごく少数だと思うけれど。話の真偽を確かめる術はほとんどないけれど、全部真実として考えてみよう。

 すると、これはまず明らかな違法行為のような気がする。持ち込み禁止物品をムリクリ持ち込もうとしているのだから。そしてその理由を「神様の命令だから」として神様に責任転嫁しているのもどうかと思う。
 たぶん彼らは「でも聖書を渡すのは良いことだ、人々に救いをもたらすことだ」とか言うだろう。けれど聖書を渡された人が後日、バレて大変な目に遭ったとしたら、どう責任を取るのだろうか。そこはもう「自己責任」なのだろうか。

 それに宣教師の身分を偽るという意味でも違法であろう。よくここで、「宣教師かと聞かれなかったから答えなかっただけだ。ウソはついていない」と言う人がいるけれど、それは詭弁であろう。正確に言うとウソをついている。あるいは騙している。

 あと、こういう「危機一髪&奇跡的脱出&ハレルヤ」ばかりが強調されると、「宣教禁止国の宣教って面白うそうじゃん」みたいに軽率に考えて宣教に向かう人が増えるかもしれない。宣教活動が増えること自体は良いのかもしれないけれど、それでシャレにならない事態に陥る人が続出したらどうするのだろうか。やはりそれも自己責任なのだろうか。

 なんとなく、宣教旅行のスリリングさを強調しているようにも思えなくもない。

 またその「証」は、宣教地の人々がどうだったかという視点でなく、自分たちがどうだったか、自分たちがどんな体験ができたか、という視点に終始してしまっている。いったい誰のための宣教なのだろうか。

 それより私が真実味を感じる宣教師の「証」は、全然スリリングでもなくエキサイティングでもなく、もっと地味なものだ。何十年と同じところで宣教を続け、良いこともあれば悪いこともあり、信徒が少しずつ増えてきたと思ったら激減して落胆し、それでもなお前進し続ける、みたいな、失敗談とも思えるものの方がよっぽどリアルだ。そして尊敬できる。

 だから上記のような「危機一髪談」を披露して喜んでいる宣教師をみると、この人はいったい何がしたいんだろうと疑問に思ってしまう。また宣教地の人々がその人をどんな思いで受け入れたのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。

2015年2月18日水曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(お祈り篇)

 教会その他に集まったクリスチャンたちの「お祈り」のあるある。個人の祈りでなく、複数の中で誰かが代表して祈る、あるいは順番に祈るときの話。

■食事のお祈り

(代表者)早く終わらせたいけれど、意地汚いと思われたくないからちょっと長く祈る。
(聞く側)早く終わらせてもらいたいけれど、意地汚いと思われたくないからガマンして聞く。
(頻出ワード)作ってくれた人に感謝します。世界中の恵まれない人にも食べ物をお与え下さい。これに力を得てさらに神の業に励むことができますように。等。
(30秒経過)長いと感じ始める。目の前の食事の匂いが妙に気になる。
(1分経過)祈りがまったく耳に入ってこない。自分との戦い。
(3分経過)怒りを覚えるレベル。
(5分経過)合掌。
(カルト的)食事の感謝を全員順番に祈る。幼児だからって許されない。祈りが盛り上がっちゃって牧師が按手の祈りとか始めるかも。もはや食事どころじゃない。

■皆で順番に祈るとき

・自分の番が序盤か中盤か終盤かを意識している。
・自分の番が近づくとソワソワしてしまう。
・自分が終盤の場合、他の人がまだ祈っていない内容を必死で考えている。
・でも必死で考え出したことを直前の人に祈られてしまってピンチ。
・誰も祈っていない独特の視点を披露するのが楽しみ。
・ソワソワするのが恥ずかしいので、かえって冷静にふるまう。けどそれが逆に不自然。
・自分が祈り終ると、もう後の人の祈りが耳に入ってこない。
・時間がかかり過ぎてしばし妄想の世界に入っている。
・ちなみに、祈った課題がその後どうなったか案外誰も気にしていない。

■ある課題(たとえば試練にある人のため)を祈るとき

・その人を試練から守って下さい。(普通)
・その試練を遠ざけて下さい。(普通)
・いいえ、その人が強められて試練に勝てるようにして下さい。(特別な視点でしょ、エッヘン)
・天の大軍勢がその人を取り囲んでいるのが見えます。(電波系)
・霊の領域で今その試練を打ち破りました。(超電波系)
・ちなみに幼い子が「その人を試練から守って下さい」と可愛らしく祈ると、「これぞ幼子の信仰だ!」と称賛される。あれ、でもそれって普通の祈りじゃなかった?

■クリスマスのお祈り

・イエス様のご降誕を感謝します。(普通)
・まだこの神様の愛を知らない人たちが、知ることができますように。(普通)
・クリスマスはイエス様の誕生日じゃないんだけど、巷が祝ってるからそれに合わせて一応祝います。(イタイ系)
・クリスマスはイエス様の誕生日じゃない。真のクリスチャンは仮庵の祭りを祝うものだ。あ、ちなみに私は真のクリスチャンですけどね。(超イタイ系)
・(聖劇で)天使の格好をした幼い女の子が手を合わせて祈る姿に感動。(ロリコンか)

■オマケ:しなくていい「お祈りアピール」

・今、断食して祈ってるんですよ。あ、でも3日目だからまだまだですけど。(←黙っとけ)
・毎日あなたを覚えて祈ってますよ~。(←恩に着せてます?)
・毎朝起きたら1時間は祈らないと気が済まないですね。(←霊的ってこと?)
・ある夜突然目覚めて、あなたのことがすごく気になって祈ったのよ。きっと主が私を祈らせようとして起こしたのね。あなた、あの夜何もなかった?(←何もなかったので大丈夫です)
・(時事問題を取り上げて)○○が××になって良かった。実は私、そうなるように祈ってたのよ。(←あなたが祈ったからじゃありません)

2015年2月17日火曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第52話

「よし、じゃあリハーサルを始めよう」
 溝田牧師の一声に、賛美チームのおそらく全員が「はい」と返事する。そして駆け足でそれぞれのポジションに付き、自分の楽器やマイクの準備を始めた。

 溝田牧師は会堂の中央あたりの席にドカッと腰を下ろし、サトリコ姉妹に「水」と指示し、PAの方に向かって「マイク」と指示する。音響の担当者が弾かれたように小走りでマイクを持ってくる。サトリコ姉妹はお盆にグラスを載せてやってきた。
「じゃ、順番通りに始めて」
 水を一口飲んだ牧師が言う。賛美リーダーの姉妹が「はい」と応え、ドラムのカウントとともに賛美が始まった。しかし最初のAメロが終わらないうちに牧師が制止した。
「あのさ、キマジメくん」と牧師。
 キマジメくんはドキッとしながら返事する。「は、はい」
「リハーサルなんだからさ、ちゃんとスクリーンに歌詞出してよね。ここで歌詞のチェックだってしてるんだからさ」
「あ、すみません」
 キマジメくんはバタバタとパソコンを操作し、またドラムのカウントが入り、賛美が始まった。しかしまたAメロが終わらないうちに制止された。
「あのさ、なに暗い顔で賛美してんの? これ、癒しの集会なんだよ? もっと希望に溢れた顔しなきゃダメじゃん。葬式じゃないんだからさ。これじゃ来た人だれも癒されるなんて思えないよ」
「はい、すみません」
「イメージと雰囲気が大事なんだよ、こういう集会は」と溝田牧師。「一人一人の出す雰囲気が全体の雰囲気になるんだよ。だからもっと笑ってくれないと」
「はい」と賛美チーム一同。
 それでまたドラムのカウントが入り、賛美が始まった。

 その後もいろいろケチが入りながらリハサールは進行し、1時間弱かかった。最後はそれまでの文句がウソだったみたいに「みんな最高に良かったよ~。本番は主だけ見上げれば大丈夫だよ~」と賛美チームを褒めちぎる。皆そこでやっと安堵の表情を浮かべた。キマジメくんはキーボードに張り付けていた指をようやく離した。手が汗で濡れ、かすかに震えていた。
 牧師がまた口を開いた。「さ、集会まであと1時間切った。もう人が来るかもしれないから、全員で会堂内をチェックして。ゴミとかあったら拾っといて。僕はそろそろルンド先生を迎えに行くから。よろしく」
 それで溝田牧師が会堂を出て行くと、キマジメくんはようやく一息つけた。心底安心している自分自身を感じながら、この安心感はいったい何なのだろうと考える。神の器である牧師と一緒にいる方が安心できるはずなのに、実際は逆になっているのではないだろうか。ということは、自分に何か問題があるのだろうか。まだまだ悔い改めて、変えられていく余地があるのではないだろうか。
 パソコンの画面をぼんやり眺めながら、キマジメくんはしばしそんなことを考えた。

 30分程で、溝田牧師がルンド先生を連れて戻ってきた。メボ・ルンド先生は長い髪をふんわりしたオールバックにし、てかてか光る真っ白のスーツで身を固めている。顔もなんとなく白くて、どうやら化粧を薄くしているようだ(化粧の知識ゼロのキマジメくんにもそれとわかった)。脇に大判の聖書を抱えてゆっくり歩く姿は、自然と注目を集める。長身なのも影響しているだろう。
 ルンド師は会堂に入ってくると、「ミナサン、コンニチワ」と片言な日本語で言った。

 そのまま牧師室に入っていくルンド師を見ながら、やはり世界規模で働く神の器は違うな、とキマジメくんは思った。今日はいったいどんな癒しの業が行われるのだろうか。
 集会まであと30分。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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「結婚相当証明書」の良し悪し

 今月12日、渋谷区が同性カップルに対して「結婚相当証明書」を発行する条例案を発表した。3月の区議会に提出され、可決されれば4月から施行される予定とのこと。世田谷区も同様の施策を検討しているようだ。またその発表を受けて、さっそく渋谷区に転入した同性カップルがいるらしい。

 これは事実上、日本初の同性婚を認める動きであろう。非常に画期的だと思う。アメリカでは2004年にマサチューセッツ州で初めて同性婚が認められ、以降急速に拡大し、今では50州のうち30州までに達している。アメリカで起こることは数年内に日本に飛び火すると聞いたことがあるけれど、これも同様の現象かもしれない。あるいは時代の要請だろうか。

 同性カップルはこれまで婚姻関係を認められない、つまり家族と認められないことでイロイロと不都合を受けてきたようだ。たとえばパートナーが緊急入院した場合、入院先を確かめようと電話しても、家族でないから教えてもらえない。面会までこぎつけても、病状説明など聞けない。手術が必要な場合、同意書にサインできない。パートナーとして同居し、生計を共にしていても、法律的には赤の他人でしかなかった訳だ。

 そういう不都合が少しでも解消されるなら良いと思うし、これを機に同性婚に対する理解が広まっていけば良いと思う。という訳で私はこの施策に賛成なのだけれど、気になることもある。

 というのは、いわゆるLGBTの方々がマイノリティであって、そういう風に証明書を受けなければならない立場にある、ということだ。もちろん証明書がないよりあった方がいいけれど、そもそもなんでそんな証明が必要なんだ、という話ではないだろうか。

 つまり証明書そのものが、その二人の関係を「通常でない」と表明している気がするのだ。「通常でないけれど、昨今の時代の流れを鑑みて認めましょう」と言っているに過ぎないのではないか。

 社会福祉の分野では「インクルージョン」という言葉が使われ始めているけれど、それと同じように異性婚も同性婚も自然に存在するカップルの形として認識されるのが、本来ではないかと私は思う。こういう人もいればああいう人もいる、という多様性が自然に受け入れられているなら、そもそもパートナー証明など必要ないだろう。

 繰り返すけれど「結婚相当証明書」は日本社会にとって前進であり、同性カップルに対するグッドニュースであるのは間違いない。けれど証明書を持っていないとカップルとして認められないとう状況から、私は映画『シンドラーのリスト』を思い出した。

 第二次世界大戦下、ナチスによって強制移住させられたユダヤ人たちにとって身分証明書は命綱だった。携帯するのを忘れたらどんな目に遭うかわからない。それは証明書があって良かったねという話でなく、証明書がないと生きられない異常事態である。

2015年2月15日日曜日

居住地分けと人種差別ってイコールでしたっけ

■曽野綾子さんのコラムの件

 曽野綾子さんが産経新聞で連載しているコラム「透明な歳月の光」の、2月11日の記事が物議を醸している。タイトルは『「適度な距離」保ち受け入れを』というのもの。
 要約すると、

 異文化交流は難しい。でも日本は将来人手不足になるから、外国人移民が必要になる。けれど異文化人どうしが一緒に住むの難しい。南アフリカ共和国の実情を知って以来、居住地だけは人種別にした方がいいと私は思うようになった。

 という感じ。
 これが、安倍首相のブレインだった人がアパルトヘイト政策を支持する発言をしている、という訳で批判のマトになった。掲載した産経新聞もイロイロ言われている。

 べつに曽野さんを弁護するつもりはないけれど、この批判にはちょっと発想の飛躍がある気がする。

 南アフリカ共和国のアパルヘイト政策の本質は、明らかな白人優遇と黒人劣遇にあり、居住地を分けたのはその結果である。人種差別はあってはならないけれど、それと居住地を分けることとは
必ずしもイコールではない。

 それに居住地が同一人種で固定化されていく傾向はどこででも見られる。アメリカにも中国人街とかイタリア人街とかあるし、日本でも東京の大久保に韓国人街とか、葛西にインド人街とかがある。またカナダのバンクーバーには日本人街がある。それらはべつに人種差別の結果できた外国人街ではない。税制その他の差別もない。どちらかと言うと利便性と効率の問題で出来上がったコミュニティである。

 日本人が外国に住むなら、きっと周りに日本人がいたら安心だと思うだろう。外国人だってそれは同じだ。だから異国にあって同一邦人が集まっていくのは、当然と言えば当然である。

 たとえば自分がマンション住まいだとして、他の居住者が皆ある特定の外国人で占められていたとしたら、きっと何らかの不都合を感じるだろう。それは文化が違い、言葉が違い、考え方が違うからだ。けれどそれは単なる不都合であって、相手を憎悪することではない。結果的に憎悪につながることはあるかもしれないけれど、本質的にはつながっていない。

 だから憎悪による人種差別の結果としての居住地隔離と、利便性を考えての居住地分けはイコールではない。それで(記事を読む限り)曽野さんが言っているのは後者の方だと私は思うのだけれど、なぜか前者として捉えられているようである。

 そこには何か決めつけというか、先入観みたいなものが働いている気がする。好きな人の発言は好意的に受け止め、嫌いな人の発言はハナから否定してかかる。人間にはそういう傾向があるけれど、まさにそんなバイアスが作用しているのではないだろうか。

 私は南アフリカがかつて執行していたアパルトヘイト政策には反対である。曽野さんが同記事で書いている、将来日本が労働力として外国人移民を必要とするかどうかはわからない。また同記事がたしかに、「外国人移民を労働力として引っ張ってきて、限定的な居住地に住まわせればいい」みたいなアパルトヘイト政策を感じさせるのも否定しない。

 そのうえで書くと、その人の意見は意見としてちゃんと趣旨を受け止め、誤解のないようにすべきだと思う。それができないと、どう受け取られるか怖くて、誰も何も言えなくなってしまう。

2015年2月13日金曜日

牧師の「就職」とその後の「成長」について・その3

 前回は、開拓成功牧師が陥るマイナス的成長について書いた。

 困難な開拓が成功すればするほど牧師個人の「自負」が強くなり、「自慢」を繰り返すようになり、「傲慢」に陥っていく。結果、大きな問題を起こしてその「功績」を台無しにすることもある。
 という話だった。

 そうなってしまう原因の一つは、「自分一人で開拓した」「一人で成し遂げた」という牧師の誤った感覚にある。
 当然ながら教会作りは一人でできない。見えたり見えなかったりする多くの協力があって成る。けれどそういう感謝を簡単に忘れてしまう。また牧師がいろいろなことを主導したのは事実だから、どうしても「自分がやった」という感覚になりやすい。けれどそれは栄光を自分に帰する行為である。いくら口で「主に栄光を帰します」と言っても。

 もう一つの原因は(これは重要だと思うけれど)、自分の上に立つ人間、いわば監督者を置かないという点にある。

 監督者とは今風に言うとアカウンタビリティをとる相手とか、「メンター」とかになると思うけれど、要は牧師にあれこれ注意し指導できる人間のことだ。会社で言えば直属の上司みたいなものかもしれない。「上司」と聞くとあまり良い印象を持たない人が多いかもしれないけれど、いわゆる「先輩」から適切な助言を受けるのは大切なことだ。

 けれど開拓教会の場合、その頂点には当然ながら牧師が立つ。だから牧師は誰からも何も言われない立場にある。特に上から物を言われ、不服ながら従うという体験をしない。だから監督者からイロイロ耳触りの良くないことを言われて反省するとか、改善するとか、それまでなかった視点を持つとか、そういう健全な進歩に必要な経験ができない。

 これは案外致命的な事態だ。そういう監督者がいないからこそ、開拓で教会を建て上げたからといって簡単に傲慢になってしまうと言える。それに一口に「成功」と言ってもイロイロと改善点はあるはずで、そういうことは教えてもらうのは得はあっても損はない。
 だから監督者がいないのは牧師にとって不幸なことだと思う。

 もちろん中には「私にはメンターがいるから大丈夫だ」と言う牧師がいる。
 けれどこの発言は要注意だ。

 まず前半の「私にはメンターがいるから」だけれど、重要なのはメンターがいるかどうかでなく、どんなメンターかだ。
 もちろんいつも完璧な助言ができるメンターなどいないけれど、そういうことより、どれくらいの頻度で関わるか、どれだけ発言力(強制力)があるか、どれだけ牧師を従わせられるか、といった点が重要なのだ。
 中には3ヶ月に1回、あるいは半年に1回会うだけの人間を「私のメンター」と呼ぶ牧師がいる。けれど3ヶ月に1度会ったぐらいで何がわかるのか。あるいは何が言えるのか。何も言えないだろう。言ったところでその効果を確かめるのが3ヶ月後では遅すぎる。それでは牧師の監督にはならない。

 実際そういう牧師がいたけれど、やはりメンターの言うことなど何も聞いていなかった。メンターにしたって教会の状況がよくわからないのだから、毎回当たり障りなく褒めるくらいしかできなかった。それでは監督とは言えない。というかそんな状況でメンターを引き受ける方もどうかしていると私は思う。

 後半の「大丈夫」も問題だ。なぜなら大丈夫と断言することなど誰にもできないはずだからだ。

 だから開拓牧師が「私にはメンターがいるから大丈夫」と言ったら、99%疑ってかかるべきだ。それに1%加えて疑ってもいい。あ、それじゃ100%か。

補足)
 今回「メンター」という言葉を使ったけれど、厳密には「教会を開拓する牧師の監督者」という存在について表現したかっただけで、「メンター」という言葉は微妙かもしれない。
「メンター」はクリスチャン個人が「時々自分を指導してくれる人」みたいな意味合いで使うことがあり、その場合なら3ヶ月に1回とか、半年に1回とかいう頻度で全然問題ない。
 ただ本記事の趣旨である「開拓教会の牧師を適正に監督し指導する人間」としては、もっとずっと頻回で深い関わりがなければならないと思う。

2015年2月12日木曜日

牧師の「就職」とその後の「成長」について・その2

 牧師の教会への「就職」の仕方が三通りあると前回書いた。再掲すると以下の通り。

①既存の教会に招聘される(第三者として)。
②親(牧師)から教会を受け継ぐ。
③ゼロから教会を開拓する。

 それぞれで状況が違うし、個別の事情もあるから、実際にはこの三通りにキレイに分類される訳ではない。またどれが優っているか劣っているかという話でもない。けれど前回も書いた通り、牧師としての「成長」という観点でみると、この三通りは全然違う結果へと繋がる。
 今回は③について書きたい。

 ゼロから教会を開拓するのは本当に大変なことだと思う。
 これも教団からサポートを受けながら始めるのと、まったくのフリーランス(サポートなし)で始めるのとで事情が変わるけれど、場所もなく人もいない文字通りゼロの状態から、建物と人と教会活動を形成していくという「無→有」のプロセス自体は似ている。

 教会開拓は努力すれば必ずできるという保障はなく、こうすればできるという確かな方法論もなく、人柄がいいとか能力があるとかで絶対達成できるものでもない。その意味で大変なチャレンジであろう。これを何のサポートも元手もなく始めるのは無理ゲーに近い。けれどそんなチャレンジに身を投じる牧師もまた少なくない。

 ある程度名の知れた牧師も、かつては極貧生活だったという話はよく聞く。味噌汁に具を入れられなかったとか、子どもの給食費さえままならなかったとか、何度も強制断食になったとか、そういう苦労話は尽きない。

 そこまで苦労して教会開拓に向かうのは、「自分の使命だから」ということなのだと思う。ただ神様を信じて、何の保障がなくても始める、困難になっても諦めない、という姿勢は尊敬に値する。それで信徒が徐々に増え、教会として形になっていくとしたら、牧師として最高の喜びなのではないだろうか。そしてそれがあるからこそ、この高すぎるハードルにあえて挑むのかもしれない。

 ちなみにこう書くと教会開拓礼賛みたいに思われるかもしれないけれど、現実には何年たっても結実を見ない、つまり失敗と思われるケースの方が圧倒的に多いのは言うまでもない。それは依然として無理ゲーの域なのである。

 それで開拓に成功したごく少数のケースの場合だけれど、数々の困難を乗り越えて教会形成できたことは、喜びと同時に達成感、優越感、万能感をもたらす。簡単に言うと傲慢になりやすくなる。
 実際、教会開拓のベテランみたいな牧師に話させると、

「開拓は大変なことだよ。誰にでもできることではないよ(私にはできたけどね)」
「私はこんな苦労をしてきたんだよ(君たちには無理だろうけれどね)」
「今はこんな大きな群れになって、ただ主の栄光だね(もっとも私の努力が不可欠だったけどね)」

 みたいな話になる。

 それはそれで尊敬すべきだけれど、私たちが尊敬すべきは開拓に成功した牧師でなく、開拓に真剣に挑んだ全ての牧師のはずだ。また牧師の方は開拓できた・できなかったで優越感や劣等感を持つべきではない。
 よく開拓伝道をビジネス理論で語る牧師がいるけれど、そういう理論で成功するなら誰も苦労しない。それより開拓にはいわゆる「運」みたいな要素が大きく絡むから、個人の人格・能力・方法だけでは語れない。つまり開拓に成功したから良い牧師、できなかったから問題のある牧師、ではないのだ。

 現に開拓に大いに成功して名を馳せた牧師ほど、大きな問題を起こしている。

 開拓成功牧師のマイナス成長は、一にも二にも傲慢だと思う。そして開拓成功という「お山の大将」を注意する立場の人間は事実上いない。だから傲慢が増長するばかりで、歯止めが効かない。
 結果、そういう牧師は人の話を聞かない、独り善がりな人間になっていく。口を開けば「私はこうやって開拓した」という過去自慢。まるで自分一人で教会を形成したみたいに。
 それにそういう「老害」で済むならまだしも、聖神中央教会みたいな犯罪行為にだって発展しかねない。

 傲慢とは恐ろしいものだ。それに憑りつかれると、開拓も教会の発展も全て無になりかねない。
 開拓成功牧師にはそういう危険性がいつもあって、生涯離れることがない。

2015年2月11日水曜日

牧師の「就職」とその後の「成長」について

 キリスト教会での牧師の働き方、特に最初の「就職」の仕方は、ザックリ言って三通りだと思う。

 ①既存の教会に招聘される。
 ②親(牧師)から教会を受け継ぐ。
 ③ゼロから教会を開拓する。
 

 厳密に言えば教団に属すか属さないか、開拓にしても教団から派遣されるかフリーランスかで状況は違う。また公式・非公式に受けるサポートの有無もいろいろだ。そう考えると正確なカテゴライズはできないけれど、「牧師の就職の仕方」の本質的なところで分けるなら、上記の三つのスタイルが考えられるのではないかと思う。
 ちなみにこの順番にはまったく意味はない。

 これらの事情の全てに通じている訳ではないけれど、②と③はイロイロなケースを見てきた。たぶん福音派・聖霊派の牧師は②と③が多いと思う。単立教会が多く、それぞれ独立していて、牧師に後継者がいないから第三者を外部から招聘する、という習慣はない。後継者は親族や「弟子」の中から選ばれる。

 最初に断わっておくと、これはどれが良いとか悪いとかいう話ではない。おそらくどれも必要だと思う。

 けれどその後の牧師の成長という部分では、三通りでずいぶん異なる。そして問題ありな話がよく聞こえてくるのは②と③だ。
 今回は②について書きたい。

 1990年代から2000年代にかけて、いわゆる二世牧師への「代替わり」があちこちの教会で起きた。親が引退して息子が主任牧師になるとか、「ユースパスタ―」になって部分的に引き継ぐとかイロイロだけれど、要はすでに出来上がっている教会、しかも馴染みのある群れの中で彼らは「先生」になった。そして「次世代」を標榜する二世牧師・若手牧師たちのネットワークを作り、「日本の閉塞感を打ち破るんだ」みたいなことを勢いよく言った。そこには先代たちに対する多少の蔑視もあったように思われる。

 そういう「見てくれ」は立派だったけれど、彼らはいわば親の遺産にありついた訳で、上記の①招聘される牧師や、③開拓する牧師の苦労を知らない。中には一定期間開拓伝道をしたり、知り合いの教会で副牧師として働いたりする人もいるけれど、あくまで一定期間の開拓であり、親しい関係性の中で働くに過ぎない。

 だからかどうか定かでないし、また二世牧師が全員そうだとも思わないけれど、同じような「甘さ」を多くの若手牧師から感じる。それを象徴的に面白おかしく書いたのが、以前の「クリスチャンのあるある・若手牧師篇」である。

・若手牧師メッセージ篇

・若手牧師篇

 他者、特に信徒に対する配慮があるとは私には思えない。どこか楽しげで、自己満足的な気がする。もしかしたらそれは二世だからでなく、若さのせいかもしれないけれど。

 また彼らは「御心」と称していろいろな活動を始める。サッカー教室とか英会話教室とかギター教室とか、カフェとか福祉事業とか。それができるのはそもそも彼らが二世だからで、時間もあるし、使える人(信徒)もいるし、使える場所(教会施設)もあるからだ。①や③の牧師ならそう簡単にはいかない。

 それでどんな成果があるかと言うと、残念ながら大してない。というか大して続かない。次々と新しいものに飛びついて、以前のものをないがしろにする牧師もいる。それが「御心」だったとは到底思えない。

 そんなこんなで10年、20年が過ぎて、彼らが言うところの「閉塞感」は依然として打ち破られていない。このまま行くと、彼らが先代をバカにしたように彼らも次代からバカにされることになる。まあそれは彼ら自身が蒔いた種とも言えるけれど。

 だからと言って、牧師の親の後を継ぐのが悪いのではない。そうしなければならない状況もあるだろう。立派に後を継いでいる人もいる。けれど「子孫に美田を残さず」という故事成語の意味をよく考える必要はあると思う。特に牧師は人間相手の仕事なのだから。

2015年2月10日火曜日

クリスチャンと「ヴィジョン」の関係

 クリスチャンでなくとも「ヴィジョン」は大事であろう。日本語にすると「目標」とか「夢」とかになると思うけれど、誰でも、漠然とした形であっても何かしら目標は持っていると思う。それなくして生きることもできるけれど、あった方がハリがあっていいのではないだろうか。

 ところでクリスチャンの一部はこの目標を「ヴィジョン」と言う。なんでも横文字にするのが好きなようである。神様から与えられた目標とか夢みたいなものをひっくるめて「ヴィジョン」と呼んでいて、教会では非常に重要視されている。

 イロイロな教会、イロイロな牧師、イロイロなクリスチャンがそれぞれヴィジョンを標榜している。わかりやすいところで言うと新会堂を建てるとか、大きな賛美集会を開くとか、福祉施設を建てるとか、「一千万救霊」とかだ。個々のレベルだとクリスチャンシンガーになりたいとか、クリスチャンビジネスを立ち上げたいとか、まあイロイロあるだろう。

 それらが本当に神様から与えられたかどうかは定かでない。もちろん彼らは自信を持って「これは神様からのヴィジョンです」と言うだろう。けれどその行動を見てみると、どうも怪しいものもある。

 若い人に多いけれど、○○のヴィジョンが与えられたからと言って始めたことが、長く続かないということがある。たとえば大学を中退して無為に過ごしていた若者が、「クリスチャン調理師になりたい」とか言って調理師学校に入る。周囲のクリスチャンらは多いに祝福して祈る。けれど当の本人は半年もすると中退している。理由を聞くと「示されたから辞めた」とのこと。

 それが本当だとしたら、我らの神様は相当に気まぐれである。そんな神様ならまったく信用できない。

 また他の例を挙げると、「日本で百万人規模の賛美集会を開きたい」と言う人がいる。「教派を越えてみんなで集まって、ただ主を見上げればいい」と理想に燃えている。言っていることは素晴らしいし、そういう夢を否定する気はない。けれど肝心なのは、それが本当に実現するとどれだけ信じているかだ。そしてそれに向けて「今」何をしているかだ。

 たとえば百万人規模の賛美集会で言えば、今すぐそれだけの人数が集まるのは不可能だ。何にでも段階というものがある。そしてクリスチャン人口の少ない日本でキリスト教系の何かをしようと思ったら、百人集めるのだって大変である。仮にクリスチャン有名人を使ったとしてもせいぜい千人単位であろう。

 そういう厳しい状況の中で「百万人」と言うのは、なかなかの勇気である。
 私はそれを頭ごなしに否定しようとは思わないけれど、現実的に考えるなら、戦略が必要だと思う。

 ヴィジョンが神様から与えられても、自動的にはならない。人間の方で実現の努力をしないと、いつまでたっても絵にかいた餅でしかない。だからヴィジョンを言うならそれなりの覚悟と決意と実践が必要になる。祈っているだけではダメだし、言っているだけでもダメだ。

 本当に百万人規模の賛美集会を開きたかったら、まず自分自身が、何がなくても賛美したいという人間でなければならない。自分一人でも、誰が見ていなくても喜んで賛美する、たとえやめろと言われても賛美する、くらいでないとムリだろう。

 そして集会の場所も機材をまずは自分で用意して、知り合いに呼びかけて、誰も集まらなくても喜んで一人で賛美するのだ。それをたとえば月に1回、1年くらい1人で続けることができるなら、脈があると言える。
 誰かに頼って、場所やモノや人が集まったら始めよう、という発想だと一生かかっても1ミリも進まないだろう。断言してもいい。

 だから「百万人の賛美集会」を標榜している人の「今」を見るべきだ。「準備中です」と言うのは簡単だけれど、それが長く続くならヴィジョンとは言い難い。

 当たり前の話だけれど、ヴィジョンには行動が必要だ。行動のないヴィジョンは意味がない。「いずれやる」のだったらその時になってから「私のヴィジョンです」と言うべきだ。けれどそういう当たり前が当たり前でないクリスチャンがいて、儚い幻でしかない夢物語を「主からのヴィジョンです(エッヘン)」と言う。

 それこそ空しい生き方ではないかと私は思うのだけれど。

2015年2月9日月曜日

クリスチャンと「特別さ」の関係

 長崎旅行の帰りの飛行機で激しい頭痛があった。私は以前からそうで、着陸の頃に必ずと言っていいほど頭痛が起こる。どうやら「飛行機頭痛」のようだ。今回も行きも帰りも同じように痛んだ。

 その頭痛で思い出したけれど、以前ある教会で海外研修のようなことをした。研修と言っても海外の親しい教会で、賛美や祈りや礼拝に明け暮れるのである。ただの海外旅行じゃないかと思われるかもしれない。まあそうなのだ。けれど信徒にとっては重要な意味があった。

 その海外の教会は特別なスタイルの礼拝をしていた。それが当時は斬新だった。そしてそのスタイルを取り入れようと躍起になって、教会を挙げて何度も研修に行ったのだ。

 その研修に参加するのは特別なことだった。「導き」のところでも書いたけれど、「行きます」と言って行けるものではない。「祈っていたら〇〇と示されました。だから参加します」というようなプロセス(というか見栄)が必要だった。だからみんなそういう「語られ体験」を持って研修に参加していた。

 それで海外の教会に行って、特別なスタイルの礼拝の中、祈ったり祈られたり、「預言」されたり倒れたり、体中が痺れたり涙が止まらなかったり、というような体験をする。それで「特別さ」を享受する。日本では受けれらない「特別な油注ぎ」を受けて、「特別なクリスチャン」になったという訳だ。

 それは当時はもっともらしく思えた。聖書をちゃんと読んでいなかったというのもある。海外の秘密の場所で秘密の祈りを受け、何か特別な者になる、という古いハリウッド映画みたいな展開に興奮したのもあっただろう。みんな大真面目だった。

 それでその研修旅行の帰り道に、体調を崩す人がチラホラいた。と言っても頭痛とか腹痛とか、一過性のものだった。中には帰りの飛行機でひどい頭痛を起こす人もいた。

 そういう体調不良者を見て牧師はこんなふうに言った。「海外で特別な祈りを受けて帰ってきたから、日本を支配する悪霊たちが嫌がって攻撃しているんだ。けれど敵の攻撃に負けてはならない。祈りと霊の戦いによって勝利せねばならない」

 今思うとそれは私と同じ飛行機頭痛とか、時差ボケとか疲労とか、現地の食事が合わなかったからとか、そういうわかりやすい原因によるものだとわかる。けれど当時は「私たちは特別な者になった。だから特別な次元の戦いに入っているのだ」みたいな勘違いをしていた。

 だいいち特別な油注ぎを受けて特別な者になったなら、悪霊に負けない訳で、そもそも攻撃などされない。それに地域によって油注ぎが変わるという発想は、「礼拝はエルサレムじゃなきゃダメなんですよね」とキリストに尋ねたサマリヤの女と同じだ。見当違いも甚だしい。

 けれどそういう発想の人は今も多く、「再臨が近いからエルサレムに行かないと」みたいなことを本気で言っている。たぶん聖書を読んだことがないのだろう。

 という訳でただの飛行機頭痛を、「あ、海外で特別な祈りを受けちゃったから、特別なクリスチャンになって敵の反感を買っちゃったかな」みたいな壮大で痛々しい妄想として受け止めることがあるので要注意だ。
 そういう人はしばらく教会活動から離れて、自由気ままに旅行でもしてみたらいいと思う。きっと特別な祈りとか礼拝とか関係なく、飛行機に乗る度に一過性の頭痛が起こるのがわかるだろう。そして自分自身が全然特別でない、ただの人であることがよくわかるだろうと思う。

2015年2月8日日曜日

クリスチャンと「歴史」の関係

 通信制学習が一段落したので、長崎旅行に来た。

 長崎にしたのは未踏の地だったから。あと、いわゆるキリシタンの歴史にちょっと触れたかったから。それで浦上天主堂、大浦天主堂、島原城など回った。と言ってもあくまで観光メインだったけれど。

 べつに歴史に触れるだけなら現地に行く必要はないけれど、現地で記念碑とかパンフレットとか見ることで、26殉教者のこととかプチジャン神父のこととか、コルべ神父のこととか潜伏クリスチャンのこととか、それまで何となく知っているつもりだったことを再確認することができた。
 良いも悪いも含めて、そこにはイロイロな歴史がある。

 歴史を知り、先人を尊敬するのは現代人にとって大切だと思う。先人の偉業は励みになり、その失敗からは学ぶことができる。歴史から学ぶのは人類の進歩とも関係がある。

 ウソか本当か知らないけれど、フグの毒の部位を特定するために多くの犠牲が必要だったと聞いたことがある。フグのある部分を食べた人が死んだら、次の人は別の部分を食べる。その人も死んだら更に次の人がまた別の部分を食べる。そういうトライ・アンド・エラーの繰り返しが現在のフグ料理を可能にしたという。

 その話の真偽はともかく、歴史の重要性を現しているのは間違いない。

 振り返って現代のクリスチャンを見てみると、一つ上の先輩たちに対してでさえ尊敬の念を抱けない現状があるように思う。

 年輩の牧師を見て、「大して教勢を広げられなかった」「やり方が古いんだ」みたいなことを平気で言う若手牧師がいる。そう言う自分たちがどれだけ革新的なことができたのか怪しいけれど、口だけは達者だ。
 それで「(先代から続いている)日本の閉塞感を打ち破る」とか言い続けて少なくとも10年は過ぎているのだから、彼ら自身、次世代から「何もできなかった」とか言われかねない。

 先人たちが何もできなかったか、間違いがあったか、非があったか、ということを厳密に追求すればもちろんイロイロ出てくるだろうけれど、少なくとも教会を維持したとか、信仰を守って継承したとか、クリスチャンとして時代を生き抜いたとか、何かしら達成したことはあったはずだ。そういう苦労を無視して「先輩たちはできなかった。自分たちこそやってやる」と意気がるのは、単に歴史に学ばない愚か者だ。フグの話で言えば、先の人と同じ部位を食べて死ぬのと同じだ。それこそ犬死にであろう。

 実際に聞いた話だけれど、戦国時代のある地域に「リバイバリスト」がいて、大いにクリスチャンが増えた時期があった、と主張する牧師がいた。けれどそのリバイバリストは結局「踏み絵」に屈してしまい、その失敗とともに祝福を逃し、不幸な晩年を送ったという。「だから現代の私たちは踏み絵を踏むような信仰的妥協をしてはならない」というのがその牧師の結論だった。

 つまり先人が失敗したから、私たちは失敗してはならない、というような話だ。

 けれどその牧師も同じような失敗をして、今は見る影もない。ついでに言うとその「リバイバリスト」の話も出所不明で、どうやら作り話だったようだ。

 先人を否定してバカにするのは簡単だ。その苦労を実際に見ていないのだから、何とでも言える。けれどそこには当事者なりの事情があったはずだ。それに彼らは、私たちがまだ終えていない人生を終えている。あるいはずっと長く生きている。その意味で私たちがまだ達していないところに達しているのだから、それだけでも尊敬に値すると私は考える。

 夕日に映える大浦天主堂を見上げながら、そんな「歴史」に思いを馳せた長崎旅行であった。

2015年2月5日木曜日

クリスチャンと「導き」の関係

「神の導き」という言葉を日常的に使うクリスチャンは多いと思う。
「これは神様の導きですね」とか、
「(神様に)導かれるなら○○しましょう」とか、
「それは導きではありません」とか言う。

 つまりこの「導き」は何らかの行動をする・しないの基準になっていることが多い。神の導きなら「する」、導きでないなら「しない」というふうに。全ては御旨のままに、私は従順な僕です、という訳だ。

 それは敬虔なようだけれど、全ての判断を神に委ねるというのは、イコール自分の頭で考えて判断しないということに繋がる。それを信仰とするか浅はかとするか。

 だいいち誰が「神の導き」を判断するのだろうか。そこに人間の側の都合が入り込むことはないのだろうか。

 こういうことを書くと、「しかし疑ってはいけないと聖書に書いてあるではないか」みたいなトンチンカンな反論をする人がいる。けれど御心を信じる・信じないと、そもそもそれが本物かどうか考える・考えないは全然違う。何の検証もなく「牧師が言うから」「あの人が言うから」と顔パス的に信じてしまうのは、神に対する信仰でなく、人に対する信仰である。

 そう考えると、日本のキリスト教界(特に聖霊派)には怪しい「導き」が溢れている気がする。

 ある教会で、海外への宣教旅行が企画された。けれど参加者を募ることはなかった。その教会は「使命」と「導き」を重視する教会だから、参加者はみんな「神に導かれて」いなければ宣教に参加できないからだ。
 だから信徒はその宣教のために祈り、自分がそこに導かれているかどうか、祈って御心を聞かなければならなかった。そのプロセスを通らなければ、誰も参加する・しないを決められない。「使命」と「導き」の教会とはそういうところだ。

 それで続々と参加者が集まった。みんな口々に、「聖書のこの箇所が示されました。だからこの宣教に参加せよと主が自分に語っておられると強く確信しています」みたいなことを言う。信仰歴の長い人も短い人も、ずいぶん的確に御心を聴いたらしい。

 けれど私に言わせると、それは「行きたい」と自分が願っているからに過ぎない。聖書の箇所はいくらでも都合よく解釈できる。それを「行け」と解釈するのは自分が「行きたい」からだ。しかしそもそも神様は人間の自由選択を尊重しているのだから、あるクリスチャンをつかまえて「この宣教に参加せよ」と有無を言わせず強要することなどない。

 だから上記の教会のケースで言えば、行きたいなら行けばいいだけの話だ。無理に「使命」とか「導き」とかに結びつけようとするから、結果的に信徒にウソをつかせることになる。その方がよっぽど罪深いであろう。

 また他にも実例は沢山あるけれど、たとえばキリスト教関連の活動に誘われた時、「導きならやります」と答える人がいる。けれどそれはほとんど「ノー」と言っているのと同じだ。断ると信仰的でないと思われるかもしれないから、保留にしておいて「神の導き」に責任転嫁しているだけだ。

「神の導き」の有無はさほど重要でないと私は思う。
 導かれたから「する」、導かれていないから「しない」というのは結局のところ受け身でしかない。それより自分の頭で考え、何が重要なのか、何を優先してすべきなのか、自分で選択して決断することが重要だと思う。神様もそれを願っているはずだ。
 そして決めたからには全力で取り組み、適度に祈り、結果を神のせいとか他人にせいとかにしない。失敗からも多くを学べるとしたら、それは完全な失敗ではない。

 そういう生き方こそ神の「導き」だと思うのは、私だけだろうか。

2015年2月4日水曜日

クリスチャンと「祈り」の関係・その2

 クリスチャンと「祈り」について2回目。
 前回は「苦行と化した祈り」について書いたけれど、今回は「統制された祈り」について書きたい。

「祈り」は基本的に個人の自由で、何を祈ろうと他人にとやかく言われることではない。受験に合格したいとか就活で成功したいとか、理想の結婚がしたいとか、そういう自分軸の祈りに終始したって咎められることはない。

 一方、教会でみんなで祈る時なんかは、ちゃんと他人のことも考えて祈らなければならない。誰某さんの抱える問題が解決するようにとか、何かの必要が満たされるようにとか、そういう教会員としての配慮が求められる「祈り」は当然ある。そこには言及してはいけないこととか、逆に言及すべきこととか、イロイロあってけっこう難しい。

 そのへんは常識というかバランスが必要で、プライベートのように何でもかんでも自由にという訳にはいかない。そしてもちろん聖書の価値観に沿った祈りが望ましい。

 先日、ISILに拘束された湯川氏と後藤氏の死亡がほぼ確定されたと報じられた。本当に悲しいことだし、怒りすら覚えるけれど、ここで「ISILを皆殺しにして下さい」と祈るのは復讐心であって聖書の基準に反している。だから他の形で祈るべきだと思う(それは決して復讐心そのものを隠したり否定したりすることではないけれど)。

 というふうに、「祈り」は自由なようで自由でない。他者の耳という監視装置を意識する必要がある。もっとも、ごく一般的な常識を身に着けているならそこまで神経質になる必要もないけれど。

 しかしこの監視装置が強すぎるのではないか、と思う場面がしばしばある。

 たとえば、クリスチャンが迫害されている国のために祈るとする。Aさんが「迫害からクリスチャンを守って下さい」と祈る。するとBさんが、「いやいや、迫害にあっても負けない強さが与えられるように祈るべきだ」とか言う。

 Bさんの指摘は一理あるようであり、知恵深いようでもあるけれど、べつにAさんの祈りが間違っている訳ではない。AさんはAさんでまっとうなことを祈っただけだ。
 たしかにBさんの視点は優れているのかもしれないけれど、だったら自分でそう祈ればいい訳で、何もAさんの祈りを否定までする必要はない。むしろ自分の視点の良さをアピールしているようでイヤラシイと私は思う。

 これはほんの一例だけれど、そういう他者の祈りの否定はけっこうある。
「クリスチャン議員が増えるますように」→「いやいや、今いるクリスチャン議員が一人でも力強く立つことができるように祈るべきだ」
「憲法改正によって日本が戦争する国になりませんように」→「いやいや、国際社会にあって正しく力を行使する国となるよう祈るべきだ」
「誰某さんの心の傷が癒されますように」→「いやいや、痛みの中にあっても自ら立ち上がれるように祈るべきだ」

 それはもう聖書的価値観の相違というより、個人の主義主張の違いでしかない。そして自分が良かれと思う形の「祈り」を他人に強要しているに過ぎない。

 こういうのを牧師がやり出すと、本当に始末が悪い。信徒の立場で反論するのはけっこう大変なことで、結局全員が牧師の望む祈りをするようになるからだ。
 そういう教会では、信徒は牧師の顔色をうかがいながら祈るようになる。牧師の顔が渋くなっていないか、多少の差はあれ気遣いながら祈るようになる。

 その「祈り」はもはや自由度ゼロで、常識的配慮もとっくに通り越している。ただ牧師に指摘されないように、満足してもらえるように、というのが目的になってしまっている。それはハッキリ言って「祈り」ではない。牧師への奉仕だ。

 だから「祈り」は自由でないけれど、自由であるべきだ。最低限の配慮はすべきだけれど、統制されるべきではない。その意味では多少愚直であっても、聖書的に若干間違っていても、本質をとらえていなくても、その人の本心であるならまだ良いと私は思う。なぜならそれを聞くのは他者というより、神様ご自身なのだから。

2015年2月3日火曜日

クリスチャンと「祈り」の関係

 クリスチャンにとって「祈り」は基本的なことと思われるかもしれない。けれどその本質をとらえるのは案外難しい。

 特に聖霊派では、祈りの時間が長いほど良く、感情的に盛り上がるほど良く、流麗で語彙が多いほど良い、という暗黙的な評価基準がある。みんなそれを意識的にか無意識的にか感じていて、その基準に従って「あの人は祈りの人だ」とか評価している。つまりこれもまた能力の話であって、霊的とか敬虔とかほとんど関係ない。

 だから聖霊派クリスチャンの祈りは正直なところ、苦行に近いものがある。プライベートはまだしも、みんなで祈る時なんかだと1時間でも2時間でも祈り続けることになる。また盛り上がったり静まったりの祈りの「ドラマ」に付き合わなければならない。それに信仰歴が長ければ長いほど「ちゃんと祈れるところを見せないと」みたいなプレッシャーに晒されているから、代表の祈りに指名されたら大変である(と思っている人は少なくないはずだ)。

 そういう聖霊派の「祈り」は、神の前にありのままの姿で出るという行為ではない。むしろ大いに着飾って、自分を良いクリスチャン、立派な祈りができるクリスチャンに見せようとする行為だ。
 キリストは「重荷を置きなさい」と言っているのに、彼らは自ら余計な荷物をイロイロ背負って神の前で痩せ我慢することを「祈り」と位置付けている向きがある。きっと疲れるだろうに。

 ある牧師がこんなことを言った。
「祈らないことの罰は、もっと祈れなくなることだ」
 クリスチャン歴の長い人はきっと頷けると思う。
 毎日の祈りを継続させるコツは、一にも二にも習慣化させることであろう。しかし1日でもサボってしまうと再開しづらくなってしまう。そしてサボる日数が増えれば増えるほど、また祈るのが億劫になってしまう。
 と、いうような意味だと思う。

 確かに頷けるけれど、私はちょっと違和感も感じる。そこにもやはり「祈り」に対する誤解がある気がする。

 たとえばある人が、毎晩決まった時間に神に祈っていたとする。しばらく続いたけれど、ある夜仕事で帰りが遅くなり、疲れていてすぐに寝てしまった。
 次の日の夜、「そういえば昨日は祈らなかったな」と思う。そして「まあいいか。もう祈るのやめよう」と思うとしたら単なる怠惰かもしれない。
 けれど一方で「昨日祈らなかったから神に合わす顔がない」みたいに思うとしたら、その人の祈りは苦行になってしまっている。努力して祈り、神様に喜ばれよう、認めてもらおう、と考えているからそういう発想になるのだ。

 よくこんな話を聞く。
「祈りは神様に通じる小道をきれいに手入れすることです。毎日祈って手入れする人の道はきれいになり、歩きやすく(祈りやすく)なります。けれど祈らない人の小道は雑草や小石でいっぱいになり、やがて通れなくなってしまいます」

 もっともらしく聞こえる話だけれど、これもやはり苦行の域を出ていない。頑張って祈らなければダメだ、祈らないのは怠惰な証拠だ、というメッセージが背後に隠れている。

 けれど神様が私たちを愛するのは、私たちがよく祈るからではない。長時間、感情的に盛り上がり、多彩な語彙でもって祈る能力があるからではない。もしそうだとしたら神の愛はだいぶ限定的なものになってしまう。

 そうでなく、私たちクリスチャンはたとえ祈れなくても神様に愛されているし、何ができなくても認められている。だからと言って怠惰になれという話ではないけれど、そんな苦行をする義務もない。

 祈れない時は無理に祈らなくていいし、間が空いたからといって後ろめたく感じる必要もない。もしそんなことで神の愛が離れるとしたら、神の愛は人間の愛以下ということになる。

「祈らないと祈りづらくなる」というのは人間の側の勝手な都合であって、実のところ神様の存在を無視している。自分の尺度に神様を当てはめているに過ぎない。
 そうでなく私たちは自分自身を神様の尺度に合わせるべきだ。そしてそれこそが「祈り」の姿勢の第一歩だと私は思う。

2015年2月1日日曜日

クリスチャンと「預言」の関係

 超教派の集会(と言ってもザックリ言って聖霊派の集まりだけれど)に行くと、時々「預言」らしきことが語られる。海外からの「神の器」とか「ミニスター」とかがメッセージの最後、「日本の為に特別なメッセージがあります」とか言って、荘厳な雰囲気の中、感動的な語り口で語り出す。こんな感じだ。

「日本に新しい季節がやってきます・大いなる変革が訪れます・未だかつてなかったような祝福で日本が覆われます・大いなる収穫の時がきます」などなど。

 語られる会衆側はみんな目を閉じて、ウンウン頷いたり、アーメンとかハレルヤとか言ってみたり、手を挙げたり、眉間にシワを寄せて嘆息したり、まあとにかく感動している。そして「日本にもきっとリバイバルが訪れるんだ」という希望を胸に会場を後にする。「今日の集会、とっても恵まれましたね」とか言いながら。

 上記の一コマだけ切り取ってみると、別段問題を感じないかもしれない。けれど実は、集会毎に同じようなことが繰り返されている。もちろんまったく同じメッセージが語られる訳でなく、まったく同じ「預言」が語られる訳でもないけれど、どの集会に行っても毎回似通った話を聞くのは間違いない。

 平たく言うと、「日本にすごいことが起こる」という意味の「預言」がどの集会でも語られるのである。

 クリスチャンになったばかりの人がそれを聞いたら感動するかもしれない。「これから日本は変わっていくんだ」と期待するかもしれない。けれど10年20年、あるいはそれ以上クリスチャンをやっている人からすると事情が変わる。もうその手の話を何十年と聞いてきたからだ。

 毎年毎年、超教派集会ですごいことが語られる割に日本のキリスト教界では何も起こっていない。むしろ教会の高齢化が進み、牧師の数も不足し、徐々にしぼんできているような気がする。としたらそれらの「預言」はいったい何なのだろうか。

「預言は励ましだ」とある人は言う。たしかにそういう面もあると思う。
 けれどたとえば末期癌患者に「今年こそ治療薬が見つかるさ」と励ますのは有益かもしれないけれど、それが10年20年続いたらみんな死んでしまう。何らかの励ましにはなったかもしれないけれど、結局のところ「儚い夢」でしかなかったことになる。

 では神様が与えるという「預言」は、実現することのない「儚い夢」でしかないのだろうか。

 と書くと「約束の成就を忍耐して待つべきです」という意見が出そうだ。けれどそもそも、上記の「日本の為の特別なメッセージ」を聞いてみると、どれも曖昧で抽象的で、結局何が起こるのか、どう変化するのか、全然わからない。それが実現したのかどうか、誰にも検証できない。「大いなる祝福が訪れる」とか荘厳に言われても何の具体性もないから、それが本当に起こったのかどうか確認しようがない。だから忍耐して待つにしても、何を待ったらいいのかわからないのではないだろうか。

 そういうのを神からの「預言」と言うのは、神様が曖昧で思わせ振りな方だと言うのと同じだ。 

 しかしそういう「預言」を聞いて、上記のように感動してしまうクリスチャンがとても多い。何年も似たような話を聞き続けてきたことに気づいていない。あるいは気づいていても何の疑問も感じていない。むしろ何も起こらない現状を「悪霊のせいだ」とか「日本のクリスチャンの祈りが足りないからだ」とか「もっと聖霊様の傾注が必要なんだ」とか言いきって憚らない。その発想は神様を無力にするのと同じなのだけれど。

 だから「預言」を聞くときは感動ありきでなく、アーメンありきでもなく、ちゃんと吟味する姿勢でなければならない。おかしいと思うことにはおかしいと言わなければならない。でないと結局、「儚い夢」を見続けたまま人生終わらせることになってしまう。そしてそれは間違っても「忍耐の人生」でなく、「浅はかな人生」でしかない。

クリスチャンと「癒し」の関係・その2

 前回書いた通り、聖霊派の皆さんが信じる「癒し」には怪しいのが多いけれど、真面目に信じている人が多いのもまた事実である。
 そういう人たちからしたら私など相当不信仰で不敬虔な輩だろうけれど、現に「癒し」の話は沢山聞きはしても実際に見たことがないのだから仕方がない。それに前回の「脚が伸びる祈り」みたいな眉唾ものも多いのだから、何でもかんでも鵜呑みにはできない。

 海外で「癒し」をバンバン行っているという触れ込みで来日する「癒しの器」も、日本の集会ではいつも何もできていない。いわく、「日本は霊的に閉ざされているから御業が起こりにくい」とのこと。なるほど、神様にもイロイロ制限があるのであろう。どこの神様だか知らないけれど。

 ある日曜日、牧師が風邪で熱があるのに教会に来た。礼拝で説教があるから仕方ないけれど、始まる前から一生懸命自分自身の癒しのために祈っていた。何人かの信徒からも祈られていた。それで頑張って礼拝を終わらせたけれど、結局のところ「癒し」は起きず、すごすごと帰っていった。

 そういう例は沢山ある。長く教会にいるとイロイロな信徒がイロイロな病気やケガをするのを見るし、その都度皆で祈るけれど、皆医学的に必要な日数だけ療養生活をして回復している。それは医学的に当たり前な話で、瞬間的な「癒し」とか奇跡的な「癒し」とは何の関係もない。

 だから彼らは「癒し」があると主張するし、実際に「癒し」」が起こっていると話すけれど、誰もそれを実体験として経験していない。海外のどこかから、あるいは日本の有名な「先生」から話が入ってくるだけだ。実際に見ていないし、どこの誰だかもわからない。

 あるいは経験していても、先の「脚が伸びる祈り」みたいなものしかない。骨盤の歪みを瞬時に治すよりは熱を下げる方がよっぽど簡単だと思うのだけれど。

 だから聖霊派の皆さんが「癒し」を信じる根拠は、内外の有名人がそう言うから、に尽きる。ベテランかつ著名な先生が言うのだから間違いないと単純に考えているのだ。またそこには「見ないで信じる者は幸いです」という聖書の言葉の都合のいい解釈もある。疑うと不信仰と言われる、だから無条件に信じる、という訳だ。

 だから前回も書いた通り、自分に「癒し」が起きないのは神様のせいでなく、自分自身の問題だという発想になってしまう。癒されないのは自分の信仰が足りないからだ、祈りが足りないからだ、何か罪があるからだ、先祖からの呪いがあるからだ、とかいうことで自分を責めたり、無駄に長い祈りを捧げたり、無茶な断食をしたりしてしまう。

 しかしそれは聖書が言う律法主義であって、「行いによる救済」を目指しているに過ぎない。その先に本当に救済があればまだいいけれど、残念ながら人は行いによっては救済されない。その努力の先には何もない。
 だから頑張って祈ったからとか、一生懸命断食したからとか、呪いと呼ばれるものを断ち切りまくったからとか、そういうことで「救い」とか「癒し」とかを達成できるのではない。

「癒し」についてあれこれ知っているクリスチャンならそんなことは当然知っているはずだけれど、どうやら知らないようなので、とりあえず書いてみた。