超教派の集会(と言ってもザックリ言って聖霊派の集まりだけれど)に行くと、時々「預言」らしきことが語られる。海外からの「神の器」とか「ミニスター」とかがメッセージの最後、「日本の為に特別なメッセージがあります」とか言って、荘厳な雰囲気の中、感動的な語り口で語り出す。こんな感じだ。
「日本に新しい季節がやってきます・大いなる変革が訪れます・未だかつてなかったような祝福で日本が覆われます・大いなる収穫の時がきます」などなど。
語られる会衆側はみんな目を閉じて、ウンウン頷いたり、アーメンとかハレルヤとか言ってみたり、手を挙げたり、眉間にシワを寄せて嘆息したり、まあとにかく感動している。そして「日本にもきっとリバイバルが訪れるんだ」という希望を胸に会場を後にする。「今日の集会、とっても恵まれましたね」とか言いながら。
上記の一コマだけ切り取ってみると、別段問題を感じないかもしれない。けれど実は、集会毎に同じようなことが繰り返されている。もちろんまったく同じメッセージが語られる訳でなく、まったく同じ「預言」が語られる訳でもないけれど、どの集会に行っても毎回似通った話を聞くのは間違いない。
平たく言うと、「日本にすごいことが起こる」という意味の「預言」がどの集会でも語られるのである。
クリスチャンになったばかりの人がそれを聞いたら感動するかもしれない。「これから日本は変わっていくんだ」と期待するかもしれない。けれど10年20年、あるいはそれ以上クリスチャンをやっている人からすると事情が変わる。もうその手の話を何十年と聞いてきたからだ。
毎年毎年、超教派集会ですごいことが語られる割に日本のキリスト教界では何も起こっていない。むしろ教会の高齢化が進み、牧師の数も不足し、徐々にしぼんできているような気がする。としたらそれらの「預言」はいったい何なのだろうか。
「預言は励ましだ」とある人は言う。たしかにそういう面もあると思う。
けれどたとえば末期癌患者に「今年こそ治療薬が見つかるさ」と励ますのは有益かもしれないけれど、それが10年20年続いたらみんな死んでしまう。何らかの励ましにはなったかもしれないけれど、結局のところ「儚い夢」でしかなかったことになる。
では神様が与えるという「預言」は、実現することのない「儚い夢」でしかないのだろうか。
と書くと「約束の成就を忍耐して待つべきです」という意見が出そうだ。けれどそもそも、上記の「日本の為の特別なメッセージ」を聞いてみると、どれも曖昧で抽象的で、結局何が起こるのか、どう変化するのか、全然わからない。それが実現したのかどうか、誰にも検証できない。「大いなる祝福が訪れる」とか荘厳に言われても何の具体性もないから、それが本当に起こったのかどうか確認しようがない。だから忍耐して待つにしても、何を待ったらいいのかわからないのではないだろうか。
そういうのを神からの「預言」と言うのは、神様が曖昧で思わせ振りな方だと言うのと同じだ。
しかしそういう「預言」を聞いて、上記のように感動してしまうクリスチャンがとても多い。何年も似たような話を聞き続けてきたことに気づいていない。あるいは気づいていても何の疑問も感じていない。むしろ何も起こらない現状を「悪霊のせいだ」とか「日本のクリスチャンの祈りが足りないからだ」とか「もっと聖霊様の傾注が必要なんだ」とか言いきって憚らない。その発想は神様を無力にするのと同じなのだけれど。
だから「預言」を聞くときは感動ありきでなく、アーメンありきでもなく、ちゃんと吟味する姿勢でなければならない。おかしいと思うことにはおかしいと言わなければならない。でないと結局、「儚い夢」を見続けたまま人生終わらせることになってしまう。そしてそれは間違っても「忍耐の人生」でなく、「浅はかな人生」でしかない。
初コメです。いつもfumimaru Kさんの記事を拝見させてもらっています。
返信削除自分も教会内の活動、または発言に違和感を感じ、教会から抜けて、独学で聖書(色々な啓発本を読む)を学びながら信仰生活を送っております。
fuminaru kさんのおっしゃるように、預言(神のメッセージ)をおおらかに語る人達の言葉のニュアンスがとても教会内部で凝り固まっているローカル知識だけで、普遍性が全く感じられないと思いました。
普遍性における神のメッセージというのは、抽象的でヘラヘラしているようなおめでたい言葉ではなく、教会内外問わず、どんな人でも共通する信仰生活のノウハウ、具体的にどのような神との接点を聖書的に抽象除いて実践的に語れるかが、預言の本質だと思います。
稚拙ながらコメントしてみました。
匿名様
返信削除初のコメントありがとうございます。
またいつも読んで下さってありがとうございます。
教会に失望して以降、他の教会に行くこともできず、かといって信仰を捨てるという選択肢もなく、やむをえず独学的な形で信仰生活を送る、という人は案外多いようです。
そういう人たちに「でも教会に行くべきだ」と言う人がいますが、おそらく問題の本質がわかっていないのかなと思います。教会に行くことが解決にならず、かえってダメージを増すことになる状況もあるのですが、教会に失望したことのない人はそういうのを想像できないのでしょうね。
沖縄にはいつも預言と称する予言者が来る。(国内外)外れれば信仰が足りないからとか、何もしなければ それはかなわない。とか言われてしまう。又は自分に祈りが足りなかったんだと言い聞かせるてみたり、又は時ではないかも知れないと思って自分を騙し騙し、ここにとどまった。
返信削除一度でも預言が当たらなければ、それは既に立派な偽預言者であるはずなのにだ。
それにきずくのにだいぶ時間をついやした。なぜなら、聖書を読まなかったからだ。
牧師の言う事に疑いを持たないからだ。いや 持ってはいけないとすら思って信仰生活を歩んで今に至る。蛇のようにさとくであるのに鳩のように素直でだけがきっと私の心に落ちていたのだ。むしろ 蛇の様に聡くはクリスチャンに言ったはずだ。にも関わらず、まさか、聖書をよく知っている牧師がそれを見分けられないはずがない。と思いこんでしまった 自分の失態でもある。お陰で聖書に帰ろう 聖書的であるかを確認する癖がついた。
年に二回ほどもらった預言のテープが山となっていた。全てを処分して 何なに牧師ではなく、
神様に帰ろう。聖書に帰ろう。本来キリストが私に与えようとしたのは預言ではなく 愛だったはずだ。と思ったら、テープを処分するのも怖くなかった。
目を覚ましていなさいと言うのは、イエスただお一人との親しい間柄を引き裂こうとする者についての警告です。
返信削除教会・牧師・預言者・・・・。
どれも金集めであり、商売なのです。
「教会に繋がるべきだ。でなければ健全な信仰生活が出来ない」等と言うのは、戯言であり、利益誘導であり、真理では無いのです。
教会に行けば、色々な眼鏡を掛けさせられて聖書を読まされます。ひたすら「横の繋がりが横の繋がりが」と念仏のように言いくるめられ、本来の個人と神との関係が、何か訳のわからない方向に持っていかれます。
偶像礼拝とは、この地上の組織を通して神へと言う、それだけの事です。
キリスト教は偶像礼拝なのです。
歴史を詳細に調べれば簡単にわかります。
その、どうしようもないものを、信者さんは信じているからです。