クリスチャンはまず"do"なのか、あるいは"be"なのか

2015年2月23日月曜日

教会生活あれこれ

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 まず英語の基礎の話。
 動詞は一般動詞とBe動詞に大別される。ザックリ言って一般動詞はdoのような「行動」を、Be動詞はI am Tomみたいな「存在」を表す。
 以上、中学英語で習う範囲。
 
 これを説教に利用する牧師がいて、クリスチャンはbeでなくdoであるべきだ、みたいなことを言う。つまりクリスチャンという身分・存在(be)に安心してはいけない、どう行動するか(do)が肝心だ、という。
 つまりキリストを信じて救われてクリスチャンになるだけではダメで、その後の人生どうするか、何をするかが重要だ、という話。
 
 この話自体は何も問題ない。またこれはクリスチャンだけの話でなく、一般的にもよく言われることだ。多くのビジネス本や自己啓発本、偉人の名言などもこれを支持している。
 その人の価値は、何をしたかで決まると。
 
 だから上記の牧師に言わせれば、クリスチャンは尚更それらしく行動しなければならない、となる。それで奉仕とか献金とか伝道とかイロイロ当たり前のように要求してくる。それに応じないのはbeに安寧するダメクリスチャン、応じるのはdoに生きる正しいクリスチャン、と評される。
 
 それもある意味で正しい。人間はその行動が良くも悪くも評価され、その評価がそのまま存在意義にもつながりやすいからだ。愛されるも嫌われるもその行動次第。また聖書を見ても、人は地上の行いによって裁かれるとある。
 
 けれど一方で、行動が全てと言ったら言い過ぎになる。たとえば何らかの障害があって人の役に立つ行動が何もできない人は存在意義がない、という話になってしまうからだ。
 もし行動が全てなら、行動できない人に価値はない。じゃあその人たちはどうしたらいいか。死ぬべきか。でも一体誰がその線引きをするのか。という話にもなる。
 
 それに誰にでも大切な人はいると思うけれど、その人が「大切」なのは、何かしてくれるからとは限らない。いてくれるだけでいい、という人も中にはいる。
 
 だから人の価値とは行動だけで決まるものではない。現実には決まりやすいけれど。
 
 そういう視点で昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、どうもbeでいることができず、いろいろdoをして自らの存在意義を表そうとしているように思える。
 
 たとえば宣教活動にしても、「今神様が〇〇に行けと命じておられる」というのが続いてアチコチ行く羽目になるし、集会にしてもやれ青年大会だ賛美集会だ癒しの聖会だで休む間もなく、そうかと思えば新会堂を建てることが御心だとか、福祉事業を始めることが御心だとか、何やかやでイベントのない月がない、いやイベントのない週がない、みたいな状況になっている。
 それで「時間がない」「忙しい」「ここは御心の教会だから」とか言うのだけれど、自ら忙しくしておいて「神に用いられている」と酔っているだけではないだろうか。
 あるいは、doに憑りつかれているのではないだろうか。
 
 もちろん教会としては何か活動すべきだろうけれど、doありきでなく、まずはbeに安心することから始めてもいいのではないだろうか。
 それで何もしなくなるのはまた違うと思うけれど、少なくとも上記のような忙しすぎる状況で「beよりもdoだ」とか息巻いても、あまり良い結果にならないと私は経験的に思う。

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