私は常々自分なりの切り口で、キリスト教信仰(特に聖霊派クリスチャンの)の問題点を書いている。それは多くは体験に基づくもので、「これは良いように思えても結果的に悪いことになってしまう」という結果の積み重ねに依っている。
たとえば「弟子訓練」は、導入の初期こそクリスチャンの成長に有用に思えた。そして個々のクリスチャンが成長すれば教会全体としても成長し、信徒の数も増えていくだろうと思われた。
けれどフタを開けると、「弟子訓練」は師匠―弟子の絶対的主従関係をもたらし、カースト的支配組織を教会にもたらした。そこには表向き神に聞き従っているようで実は先輩に聞き従っているだけ、という強固で不可逆的な権威主義が根付いてしまった。
という風に聖霊派信仰の主張の多くは、理想は良くても結果が伴っていないことがほとんどだ。「聖霊体験」も「癒し」も「力の伝道」も「リバイバル」も、その他の諸々も、牧師の口から出る段階ではきらびやかだ。掲げられた美しい理想に心酔して信徒はそこに向かうのだけれど、行けども行けども辿り着けない。行けばいくほど現実から乖離し、消耗し、喪失していく。でも表向きは楽しく、美しく、ドラマチックに見える。その陰で多くの信徒が理不尽に耐えているのはなかなか見えない。
そういう、体験したからわかることを私は主に書いている。そして体験を書くのはある人々にとっては有用ではないかと思っている。
けれど弱点もある。聖典である聖書がどう言っているか、あるいは言っていないか、という根拠付けが弱い(と自覚している)という点だ。
それは一方では、信仰的虐待の被害者は聖書さえ開きづらいだろうという配慮からでもある。
けれどもう一方で、やはり何が悪かったのか、何が間違っていたのか、ということを聖書から根拠付けられるのも大切だと思う。そこで今回紹介したいのが下記の記事である。
「カリスマ運動と異言について」
SNSで紹介していただいた記事だけれど、聖書の言葉と共に「カリスマ運動」の問題点が解説されていてわかりやすい。
「カリスマ運動」という表現でなくても、現在多くの福音派、聖霊派教会が同様の問題構造を孕んでいる。賛成反対イロイロあるだろうけれど、多くの人に読んでいただきたいと思う。
信仰的虐待の被害者は、聖書の言葉をもって「虐待」を「聖なる訓練」に変換させられている。だから逆変換にも聖書の言葉が必要かもしれない。
とにかく多くの人がその虐待に気づき、解放されることを私は強く願っている。
補足)
ちなみに上記記事は、山添浩二氏のHP「心に響く聖書の言葉」内の一記事である。他にも様々な記事があるけれど、もちろん賛否両論あると思われる。私個人としても委細全てに賛同しての紹介でないことを補足しておく。
「心に響く聖書の言葉」のHP今やっと読み終わりました。
返信削除山添師はディスペンセーション神学を学ばれたんですね。この神学まだ理解出来ないでいます。
聖書研究は色々と教えられました。特に「カリスマ運動と異言について」は賛同します。
出た者 様
返信削除いつもコメントありがとうございます。
私も同感です。ディスペンセーションについてはまだ何も言えませんけれど、「カリスマ運動と異言について」は非常に明確だなあと思っています。
沖縄では 5万10万円約束献金を募る聖会があるよ。目を閉じさせて前に出てこさせ頭に手を置かれ祝福の祈りをされる。もちろん現金を持ってない人が多いので、書面に名前と金額、を書かされる。気が変わっても後の祭りである。後日そこへ収めるシステムである。
返信削除その金の行方も、5,6人牧師がいてもおかしい事に気づかないで、かれこれそんな聖会が10年以上も続いている。今になっておもえば、約束献金って何を約束したんだろう?ってなはなし。トホホ・・・