宣教師のスリリングな「証」に感動も感心もできないという話

2015年2月19日木曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 海外で働く日本人宣教師の「証」を、時々聞いたり読んだりする。

 キリスト教系雑誌とか無料小冊子とかでよく見かけるし、教会に毎週通っていれば年に数回はそういう話を聞く機会があるだろう。だからイロイロと聞いているクリスチャンの方も多いと思う。

 そういう宣教師の「証」でわりと多いのが、いわゆる「宣教禁止国での危機一髪談」だ。
 たとえば中国とか北朝鮮とか、宣教師という身分では入れない国になんとか潜入して宣教活動をする、という筋の話。当局にバレたり追われたり隠れたりと、けっこうスリリングな展開が多い。

 たとえばこんな感じ(以下は完全にフィクション)。

 中国宣教に向かうことになった。宣教チームを構成し、全員のスーツケースに中国語の聖書を詰めるだけ詰めて、出発。当然むこうの空港でバレるかもしれないけれど、そこは信仰。神様から「強い使命」を頂いているから行くしかない。それでバレずに入国できるようにとか、むこうで十分に宣教ができるようにとか、皆で祈った。
 さて、中国の空港に到着。入国審査が終わり、残すは荷物検査。全ての荷物がX線検査を通る。検査官が画面を見れば、スーツケースの中が聖書でイッパイなのは一目瞭然。無事通れるか? 緊張の瞬間。心臓が口から飛び出すほど激しく鼓動している(という表現が多い)。
 それで神様に祈りながらゲートを通過する。横では自分のスーツケースが機械に入っていく。と、どうだろう、検査官がタイミングよく画面から目を逸らし、同僚と何やらしゃべりだした。画面にはクッキリと聖書が映っている。けれど誰もそれを見ていない。ハレルヤ!
 という訳で自分は奇跡的に通過できた。あとのメンバーがもし止められたら、もう自分だけで行くしかない。そう覚悟を決めていると、なんとメンバー全員無事にゲートを通過してきた。またまたハレルヤ!
 と、安心したのも束の間、後ろから検査官らが走ってくる。何やら厳しい口調で叫びながら。もしやバレたか? でももう少しで空港を出られる。ここは全力ダッシュ! 後ろで何か叫んでいるけれどかまわず走り続け、なんとかトイレに逃げ込んだ。・・・

 みたいな感じである。話はまだまだ続くけれど、似たような危機一髪&奇跡(?)&ハレルヤの繰り返しだから省いても問題ない。

 この手の「宣教禁止国で危機一髪談」を語る宣教師がいる。もちろんごく少数だと思うけれど。話の真偽を確かめる術はほとんどないけれど、全部真実として考えてみよう。

 すると、これはまず明らかな違法行為のような気がする。持ち込み禁止物品をムリクリ持ち込もうとしているのだから。そしてその理由を「神様の命令だから」として神様に責任転嫁しているのもどうかと思う。
 たぶん彼らは「でも聖書を渡すのは良いことだ、人々に救いをもたらすことだ」とか言うだろう。けれど聖書を渡された人が後日、バレて大変な目に遭ったとしたら、どう責任を取るのだろうか。そこはもう「自己責任」なのだろうか。

 それに宣教師の身分を偽るという意味でも違法であろう。よくここで、「宣教師かと聞かれなかったから答えなかっただけだ。ウソはついていない」と言う人がいるけれど、それは詭弁であろう。正確に言うとウソをついている。あるいは騙している。

 あと、こういう「危機一髪&奇跡的脱出&ハレルヤ」ばかりが強調されると、「宣教禁止国の宣教って面白うそうじゃん」みたいに軽率に考えて宣教に向かう人が増えるかもしれない。宣教活動が増えること自体は良いのかもしれないけれど、それでシャレにならない事態に陥る人が続出したらどうするのだろうか。やはりそれも自己責任なのだろうか。

 なんとなく、宣教旅行のスリリングさを強調しているようにも思えなくもない。

 またその「証」は、宣教地の人々がどうだったかという視点でなく、自分たちがどうだったか、自分たちがどんな体験ができたか、という視点に終始してしまっている。いったい誰のための宣教なのだろうか。

 それより私が真実味を感じる宣教師の「証」は、全然スリリングでもなくエキサイティングでもなく、もっと地味なものだ。何十年と同じところで宣教を続け、良いこともあれば悪いこともあり、信徒が少しずつ増えてきたと思ったら激減して落胆し、それでもなお前進し続ける、みたいな、失敗談とも思えるものの方がよっぽどリアルだ。そして尊敬できる。

 だから上記のような「危機一髪談」を披露して喜んでいる宣教師をみると、この人はいったい何がしたいんだろうと疑問に思ってしまう。また宣教地の人々がその人をどんな思いで受け入れたのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。

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