2015年2月4日水曜日

クリスチャンと「祈り」の関係・その2

 クリスチャンと「祈り」について2回目。
 前回は「苦行と化した祈り」について書いたけれど、今回は「統制された祈り」について書きたい。

「祈り」は基本的に個人の自由で、何を祈ろうと他人にとやかく言われることではない。受験に合格したいとか就活で成功したいとか、理想の結婚がしたいとか、そういう自分軸の祈りに終始したって咎められることはない。

 一方、教会でみんなで祈る時なんかは、ちゃんと他人のことも考えて祈らなければならない。誰某さんの抱える問題が解決するようにとか、何かの必要が満たされるようにとか、そういう教会員としての配慮が求められる「祈り」は当然ある。そこには言及してはいけないこととか、逆に言及すべきこととか、イロイロあってけっこう難しい。

 そのへんは常識というかバランスが必要で、プライベートのように何でもかんでも自由にという訳にはいかない。そしてもちろん聖書の価値観に沿った祈りが望ましい。

 先日、ISILに拘束された湯川氏と後藤氏の死亡がほぼ確定されたと報じられた。本当に悲しいことだし、怒りすら覚えるけれど、ここで「ISILを皆殺しにして下さい」と祈るのは復讐心であって聖書の基準に反している。だから他の形で祈るべきだと思う(それは決して復讐心そのものを隠したり否定したりすることではないけれど)。

 というふうに、「祈り」は自由なようで自由でない。他者の耳という監視装置を意識する必要がある。もっとも、ごく一般的な常識を身に着けているならそこまで神経質になる必要もないけれど。

 しかしこの監視装置が強すぎるのではないか、と思う場面がしばしばある。

 たとえば、クリスチャンが迫害されている国のために祈るとする。Aさんが「迫害からクリスチャンを守って下さい」と祈る。するとBさんが、「いやいや、迫害にあっても負けない強さが与えられるように祈るべきだ」とか言う。

 Bさんの指摘は一理あるようであり、知恵深いようでもあるけれど、べつにAさんの祈りが間違っている訳ではない。AさんはAさんでまっとうなことを祈っただけだ。
 たしかにBさんの視点は優れているのかもしれないけれど、だったら自分でそう祈ればいい訳で、何もAさんの祈りを否定までする必要はない。むしろ自分の視点の良さをアピールしているようでイヤラシイと私は思う。

 これはほんの一例だけれど、そういう他者の祈りの否定はけっこうある。
「クリスチャン議員が増えるますように」→「いやいや、今いるクリスチャン議員が一人でも力強く立つことができるように祈るべきだ」
「憲法改正によって日本が戦争する国になりませんように」→「いやいや、国際社会にあって正しく力を行使する国となるよう祈るべきだ」
「誰某さんの心の傷が癒されますように」→「いやいや、痛みの中にあっても自ら立ち上がれるように祈るべきだ」

 それはもう聖書的価値観の相違というより、個人の主義主張の違いでしかない。そして自分が良かれと思う形の「祈り」を他人に強要しているに過ぎない。

 こういうのを牧師がやり出すと、本当に始末が悪い。信徒の立場で反論するのはけっこう大変なことで、結局全員が牧師の望む祈りをするようになるからだ。
 そういう教会では、信徒は牧師の顔色をうかがいながら祈るようになる。牧師の顔が渋くなっていないか、多少の差はあれ気遣いながら祈るようになる。

 その「祈り」はもはや自由度ゼロで、常識的配慮もとっくに通り越している。ただ牧師に指摘されないように、満足してもらえるように、というのが目的になってしまっている。それはハッキリ言って「祈り」ではない。牧師への奉仕だ。

 だから「祈り」は自由でないけれど、自由であるべきだ。最低限の配慮はすべきだけれど、統制されるべきではない。その意味では多少愚直であっても、聖書的に若干間違っていても、本質をとらえていなくても、その人の本心であるならまだ良いと私は思う。なぜならそれを聞くのは他者というより、神様ご自身なのだから。

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