キリスト教会での牧師の働き方、特に最初の「就職」の仕方は、ザックリ言って三通りだと思う。
①既存の教会に招聘される。
②親(牧師)から教会を受け継ぐ。
③ゼロから教会を開拓する。
厳密に言えば教団に属すか属さないか、開拓にしても教団から派遣されるかフリーランスかで状況は違う。また公式・非公式に受けるサポートの有無もいろいろだ。そう考えると正確なカテゴライズはできないけれど、「牧師の就職の仕方」の本質的なところで分けるなら、上記の三つのスタイルが考えられるのではないかと思う。
ちなみにこの順番にはまったく意味はない。
これらの事情の全てに通じている訳ではないけれど、②と③はイロイロなケースを見てきた。たぶん福音派・聖霊派の牧師は②と③が多いと思う。単立教会が多く、それぞれ独立していて、牧師に後継者がいないから第三者を外部から招聘する、という習慣はない。後継者は親族や「弟子」の中から選ばれる。
最初に断わっておくと、これはどれが良いとか悪いとかいう話ではない。おそらくどれも必要だと思う。
けれどその後の牧師の成長という部分では、三通りでずいぶん異なる。そして問題ありな話がよく聞こえてくるのは②と③だ。
今回は②について書きたい。
1990年代から2000年代にかけて、いわゆる二世牧師への「代替わり」があちこちの教会で起きた。親が引退して息子が主任牧師になるとか、「ユースパスタ―」になって部分的に引き継ぐとかイロイロだけれど、要はすでに出来上がっている教会、しかも馴染みのある群れの中で彼らは「先生」になった。そして「次世代」を標榜する二世牧師・若手牧師たちのネットワークを作り、「日本の閉塞感を打ち破るんだ」みたいなことを勢いよく言った。そこには先代たちに対する多少の蔑視もあったように思われる。
そういう「見てくれ」は立派だったけれど、彼らはいわば親の遺産にありついた訳で、上記の①招聘される牧師や、③開拓する牧師の苦労を知らない。中には一定期間開拓伝道をしたり、知り合いの教会で副牧師として働いたりする人もいるけれど、あくまで一定期間の開拓であり、親しい関係性の中で働くに過ぎない。
だからかどうか定かでないし、また二世牧師が全員そうだとも思わないけれど、同じような「甘さ」を多くの若手牧師から感じる。それを象徴的に面白おかしく書いたのが、以前の「クリスチャンのあるある・若手牧師篇」である。
・若手牧師メッセージ篇
・若手牧師篇
他者、特に信徒に対する配慮があるとは私には思えない。どこか楽しげで、自己満足的な気がする。もしかしたらそれは二世だからでなく、若さのせいかもしれないけれど。
また彼らは「御心」と称していろいろな活動を始める。サッカー教室とか英会話教室とかギター教室とか、カフェとか福祉事業とか。それができるのはそもそも彼らが二世だからで、時間もあるし、使える人(信徒)もいるし、使える場所(教会施設)もあるからだ。①や③の牧師ならそう簡単にはいかない。
それでどんな成果があるかと言うと、残念ながら大してない。というか大して続かない。次々と新しいものに飛びついて、以前のものをないがしろにする牧師もいる。それが「御心」だったとは到底思えない。
そんなこんなで10年、20年が過ぎて、彼らが言うところの「閉塞感」は依然として打ち破られていない。このまま行くと、彼らが先代をバカにしたように彼らも次代からバカにされることになる。まあそれは彼ら自身が蒔いた種とも言えるけれど。
だからと言って、牧師の親の後を継ぐのが悪いのではない。そうしなければならない状況もあるだろう。立派に後を継いでいる人もいる。けれど「子孫に美田を残さず」という故事成語の意味をよく考える必要はあると思う。特に牧師は人間相手の仕事なのだから。
考えさせられる内容でした・・・
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