信仰的虐待の被害者が相談してはいけない相手

2015年2月24日火曜日

カルト問題

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 カルト被害者、と言うとカルトと非カルトの微妙な線引きの話になりやすい。特に定義屋さんがそういう話を好む。けれどそういう議論はほとんど意味がない。だからここではあえて、信仰的虐待を受けた人、と言っておこう。そうすればカルトか非カルトかはあまり問題でなくなる。とにかく教会という場所で、キリスト教信仰と類似した方法で、牧師とかリーダーとか呼ばれる人たちから、酷い目に遭わされた人、という意味になるだろう。

 私は常々そういう人たちの為に書いている。そして今回は特に「信仰的虐待を受けた人」について書きたい。

 信仰的虐待を受けた人は、どのように回復していくか。
 これは大変難しい問題だから一概には語れない。被害の個人差も大きいから一括りにもできない。けれどおおよその道筋みたいなものはあると思う。それについて順を追って書いてみたい。

①気づく

 まずはじめに、被害者は被害者であることに気づく必要がある。
 気づく前、被害者はあくまで信仰によって、神に従って歩んでいると信じている。どんな理不尽も「訓練」だと思わせられている。だからいつの日かこの苦労が報われると信じている。
 また、もし従わないなら信仰を捨てることになる、神を捨てることになる、という恐怖感もある。あるいは地獄に堕ちるのではないかという恐怖感。

 だからそういう状態で自分から「気づく」のは簡単なことではない。「何かおかしい」と薄々感じているかもしれないけれど、具体的な行動を起こすほどではない。

 こういう場合、周囲の良識ある人間が半ば強制的に本人を教会から引き離すとか、あるいは教会内部で大問題が起こるとか、そういう大きなキッカケがなければどうにもならない。

 だから「気づく」ことは本当に大切で、それができたら問題は半分解決したと言っても過言ではない。

②離れる

 問題があることに気づいたら、その場所から離れるのが一番だ。
 けれどこれも簡単には行かない。教会が一丸となって一つの方向に向かっていて、それに見事に逆行することになるからだ。それに何だかんだ言っても牧師には世話になっているし、仲の良い信徒もいる。そういう状況で「離れる」のは、ほとんど裏切りに近い(と本人は感じる)。神を裏切り、信仰を捨てることにもなる、とも感じる。だから離れたくても離れがたい。

 ここでもやはり周囲の人間が鍵となる。教会から強制的に引き離すくらいしなければならないかもしれない。
 けれど離れられれば、問題の大きな部分は解決したとも言える。気づけない、離れられない、という状況を考えればそうだ。

③相談する

 たぶん「気づく」→「離れる」の後は人それぞれだと思う。必ずしも「相談する」というプロセスを通る訳ではない。
 けれどおそらく多くの人が、誰かに相談したい、あるいは話したい、と思うだろう。何かの答えがほしいとか、次の教会はどうしたらいいだろうとか思うだろう。

 それで相談すべき相手を探すことになるけれど、ここでも注意が必要だ。

 私が思うに、信仰的虐待について相談してはいけない種類の人たちがいる。そして相談してはいけない人たちに相談してしまうと、ロクなことにならない。むしろダメージが増すかもしれない。誤った解決の道を進ませられるかもしれない。
 そんなことにならないように、安易に相談してはいけない人たちについて紹介したい。それはつまり、

・他の教会の牧師

 他の教会の牧師、まともに見える牧師、親交のある牧師、有名な牧師だからと安易に相談してはいけない。信仰的虐待の実情を知らない牧師は沢山いるし、そういう牧師に被害の話をしてもほとんど無駄だ。どれだけ理解してもらえたように感じても、実はほとんど理解してもらっていないからだ。

 べつに彼らが悪いというのではない。ただ知らないだけだ。けれど信仰的虐待の場合、知らないというのは凶器になる。

 たとえばオレンジを見たことも食べたこともない人は、その見た目や匂いや味をいくら説明されても理解できない。言葉面をなぞることしかできない。
 それと同じで、信仰的虐待という何か酷い目に遭ったらしいことはわかっても、それ以上はわからない。
 実際、そういう被害について相談されたある牧師が、「でも神様を見上げるべきじゃない?」とか平気で言うのを聞いたことがある。

 ここで一つ、そういう無神経牧師の為に書いておくと、「神様を見上げるべき」というのは被害者がずっとずっと自分自身に言い聞かせてきたことだ。そしてそれが被害を増した一因ともなっている。虐待牧師を増長させた理由ともなっている。だからいいこと言ったつもりかもしれないけれど、そんなの薄っぺらい正論に過ぎない。むしろその台詞は被害者を追い詰めてしまうから言うべきではない。

 よくわからないなら、何も言わないのが一番いい。そういうことだってある。

 それに配慮ある牧師でも、信仰的虐待に詳しくないなら、やっぱり最終的には「でも神様はね・・・」という話になる。それを聞くと被害者はガックリ、また放浪の旅に出ることになる。

「でも神様の話をして何が悪いの?」と言う人がいるかもしれない。これはまた別の話になるから詳しく書かないけれど、被害者にとってそれは既に信仰云々とか、神様云々とかの話でなくなっていることが多い。また少なくない人たちが、より専門的な援助を必要としている。同じクリスチャンだからわかるとか、神に仕える牧師だからわかるとか、そういう話でもない。

 またもっと悪いことに、信仰的虐待の被害者を責める牧師がいる。被害について聞くと、「だからって牧師を批判してはいけない。それは神を批判するのと同じだ」とか言って、被害者を罪人呼ばわりする。そして「牧師を許すように」とか「悔い改めるように」とかいう話になる。こうなってしまうと完全にご愁傷様である。

 誤解のないように書いておくと、良い牧師の方も沢山いる。ただ、信仰的虐待の被害者に対応できるかどうかという点においては、また別の話だと私は思うのである。

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