2015年2月12日木曜日

牧師の「就職」とその後の「成長」について・その2

 牧師の教会への「就職」の仕方が三通りあると前回書いた。再掲すると以下の通り。

①既存の教会に招聘される(第三者として)。
②親(牧師)から教会を受け継ぐ。
③ゼロから教会を開拓する。

 それぞれで状況が違うし、個別の事情もあるから、実際にはこの三通りにキレイに分類される訳ではない。またどれが優っているか劣っているかという話でもない。けれど前回も書いた通り、牧師としての「成長」という観点でみると、この三通りは全然違う結果へと繋がる。
 今回は③について書きたい。

 ゼロから教会を開拓するのは本当に大変なことだと思う。
 これも教団からサポートを受けながら始めるのと、まったくのフリーランス(サポートなし)で始めるのとで事情が変わるけれど、場所もなく人もいない文字通りゼロの状態から、建物と人と教会活動を形成していくという「無→有」のプロセス自体は似ている。

 教会開拓は努力すれば必ずできるという保障はなく、こうすればできるという確かな方法論もなく、人柄がいいとか能力があるとかで絶対達成できるものでもない。その意味で大変なチャレンジであろう。これを何のサポートも元手もなく始めるのは無理ゲーに近い。けれどそんなチャレンジに身を投じる牧師もまた少なくない。

 ある程度名の知れた牧師も、かつては極貧生活だったという話はよく聞く。味噌汁に具を入れられなかったとか、子どもの給食費さえままならなかったとか、何度も強制断食になったとか、そういう苦労話は尽きない。

 そこまで苦労して教会開拓に向かうのは、「自分の使命だから」ということなのだと思う。ただ神様を信じて、何の保障がなくても始める、困難になっても諦めない、という姿勢は尊敬に値する。それで信徒が徐々に増え、教会として形になっていくとしたら、牧師として最高の喜びなのではないだろうか。そしてそれがあるからこそ、この高すぎるハードルにあえて挑むのかもしれない。

 ちなみにこう書くと教会開拓礼賛みたいに思われるかもしれないけれど、現実には何年たっても結実を見ない、つまり失敗と思われるケースの方が圧倒的に多いのは言うまでもない。それは依然として無理ゲーの域なのである。

 それで開拓に成功したごく少数のケースの場合だけれど、数々の困難を乗り越えて教会形成できたことは、喜びと同時に達成感、優越感、万能感をもたらす。簡単に言うと傲慢になりやすくなる。
 実際、教会開拓のベテランみたいな牧師に話させると、

「開拓は大変なことだよ。誰にでもできることではないよ(私にはできたけどね)」
「私はこんな苦労をしてきたんだよ(君たちには無理だろうけれどね)」
「今はこんな大きな群れになって、ただ主の栄光だね(もっとも私の努力が不可欠だったけどね)」

 みたいな話になる。

 それはそれで尊敬すべきだけれど、私たちが尊敬すべきは開拓に成功した牧師でなく、開拓に真剣に挑んだ全ての牧師のはずだ。また牧師の方は開拓できた・できなかったで優越感や劣等感を持つべきではない。
 よく開拓伝道をビジネス理論で語る牧師がいるけれど、そういう理論で成功するなら誰も苦労しない。それより開拓にはいわゆる「運」みたいな要素が大きく絡むから、個人の人格・能力・方法だけでは語れない。つまり開拓に成功したから良い牧師、できなかったから問題のある牧師、ではないのだ。

 現に開拓に大いに成功して名を馳せた牧師ほど、大きな問題を起こしている。

 開拓成功牧師のマイナス成長は、一にも二にも傲慢だと思う。そして開拓成功という「お山の大将」を注意する立場の人間は事実上いない。だから傲慢が増長するばかりで、歯止めが効かない。
 結果、そういう牧師は人の話を聞かない、独り善がりな人間になっていく。口を開けば「私はこうやって開拓した」という過去自慢。まるで自分一人で教会を形成したみたいに。
 それにそういう「老害」で済むならまだしも、聖神中央教会みたいな犯罪行為にだって発展しかねない。

 傲慢とは恐ろしいものだ。それに憑りつかれると、開拓も教会の発展も全て無になりかねない。
 開拓成功牧師にはそういう危険性がいつもあって、生涯離れることがない。

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