2015年2月5日木曜日

クリスチャンと「導き」の関係

「神の導き」という言葉を日常的に使うクリスチャンは多いと思う。
「これは神様の導きですね」とか、
「(神様に)導かれるなら○○しましょう」とか、
「それは導きではありません」とか言う。

 つまりこの「導き」は何らかの行動をする・しないの基準になっていることが多い。神の導きなら「する」、導きでないなら「しない」というふうに。全ては御旨のままに、私は従順な僕です、という訳だ。

 それは敬虔なようだけれど、全ての判断を神に委ねるというのは、イコール自分の頭で考えて判断しないということに繋がる。それを信仰とするか浅はかとするか。

 だいいち誰が「神の導き」を判断するのだろうか。そこに人間の側の都合が入り込むことはないのだろうか。

 こういうことを書くと、「しかし疑ってはいけないと聖書に書いてあるではないか」みたいなトンチンカンな反論をする人がいる。けれど御心を信じる・信じないと、そもそもそれが本物かどうか考える・考えないは全然違う。何の検証もなく「牧師が言うから」「あの人が言うから」と顔パス的に信じてしまうのは、神に対する信仰でなく、人に対する信仰である。

 そう考えると、日本のキリスト教界(特に聖霊派)には怪しい「導き」が溢れている気がする。

 ある教会で、海外への宣教旅行が企画された。けれど参加者を募ることはなかった。その教会は「使命」と「導き」を重視する教会だから、参加者はみんな「神に導かれて」いなければ宣教に参加できないからだ。
 だから信徒はその宣教のために祈り、自分がそこに導かれているかどうか、祈って御心を聞かなければならなかった。そのプロセスを通らなければ、誰も参加する・しないを決められない。「使命」と「導き」の教会とはそういうところだ。

 それで続々と参加者が集まった。みんな口々に、「聖書のこの箇所が示されました。だからこの宣教に参加せよと主が自分に語っておられると強く確信しています」みたいなことを言う。信仰歴の長い人も短い人も、ずいぶん的確に御心を聴いたらしい。

 けれど私に言わせると、それは「行きたい」と自分が願っているからに過ぎない。聖書の箇所はいくらでも都合よく解釈できる。それを「行け」と解釈するのは自分が「行きたい」からだ。しかしそもそも神様は人間の自由選択を尊重しているのだから、あるクリスチャンをつかまえて「この宣教に参加せよ」と有無を言わせず強要することなどない。

 だから上記の教会のケースで言えば、行きたいなら行けばいいだけの話だ。無理に「使命」とか「導き」とかに結びつけようとするから、結果的に信徒にウソをつかせることになる。その方がよっぽど罪深いであろう。

 また他にも実例は沢山あるけれど、たとえばキリスト教関連の活動に誘われた時、「導きならやります」と答える人がいる。けれどそれはほとんど「ノー」と言っているのと同じだ。断ると信仰的でないと思われるかもしれないから、保留にしておいて「神の導き」に責任転嫁しているだけだ。

「神の導き」の有無はさほど重要でないと私は思う。
 導かれたから「する」、導かれていないから「しない」というのは結局のところ受け身でしかない。それより自分の頭で考え、何が重要なのか、何を優先してすべきなのか、自分で選択して決断することが重要だと思う。神様もそれを願っているはずだ。
 そして決めたからには全力で取り組み、適度に祈り、結果を神のせいとか他人にせいとかにしない。失敗からも多くを学べるとしたら、それは完全な失敗ではない。

 そういう生き方こそ神の「導き」だと思うのは、私だけだろうか。

1 件のコメント:

  1. 神様に言われてないからいかない。という牧師がいた。どうやら、全てを神様が言う、言わない基準らしい。ボランティアにしても、復興支援にしても他の聖会、イスラエル旅行にしてもそうだった。
    今考えると信徒のお見舞いやその家族も行く人と行かない人がいたが、それが基準で行く行かないを判断していたとみる。その指導者の教え受ける信徒の中にも仕事を辞める事を導かれたと言い出してきた。おかしな「導き」満載の教会だったが、そのうち、隣人の助け、ほどこしさえも、神様に聴くのではないかと本気とも冗談ともつかない面持ちでその指導者を眺めている。

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