クリスチャンと「ヴィジョン」の関係

2015年2月10日火曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンでなくとも「ヴィジョン」は大事であろう。日本語にすると「目標」とか「夢」とかになると思うけれど、誰でも、漠然とした形であっても何かしら目標は持っていると思う。それなくして生きることもできるけれど、あった方がハリがあっていいのではないだろうか。

 ところでクリスチャンの一部はこの目標を「ヴィジョン」と言う。なんでも横文字にするのが好きなようである。神様から与えられた目標とか夢みたいなものをひっくるめて「ヴィジョン」と呼んでいて、教会では非常に重要視されている。

 イロイロな教会、イロイロな牧師、イロイロなクリスチャンがそれぞれヴィジョンを標榜している。わかりやすいところで言うと新会堂を建てるとか、大きな賛美集会を開くとか、福祉施設を建てるとか、「一千万救霊」とかだ。個々のレベルだとクリスチャンシンガーになりたいとか、クリスチャンビジネスを立ち上げたいとか、まあイロイロあるだろう。

 それらが本当に神様から与えられたかどうかは定かでない。もちろん彼らは自信を持って「これは神様からのヴィジョンです」と言うだろう。けれどその行動を見てみると、どうも怪しいものもある。

 若い人に多いけれど、○○のヴィジョンが与えられたからと言って始めたことが、長く続かないということがある。たとえば大学を中退して無為に過ごしていた若者が、「クリスチャン調理師になりたい」とか言って調理師学校に入る。周囲のクリスチャンらは多いに祝福して祈る。けれど当の本人は半年もすると中退している。理由を聞くと「示されたから辞めた」とのこと。

 それが本当だとしたら、我らの神様は相当に気まぐれである。そんな神様ならまったく信用できない。

 また他の例を挙げると、「日本で百万人規模の賛美集会を開きたい」と言う人がいる。「教派を越えてみんなで集まって、ただ主を見上げればいい」と理想に燃えている。言っていることは素晴らしいし、そういう夢を否定する気はない。けれど肝心なのは、それが本当に実現するとどれだけ信じているかだ。そしてそれに向けて「今」何をしているかだ。

 たとえば百万人規模の賛美集会で言えば、今すぐそれだけの人数が集まるのは不可能だ。何にでも段階というものがある。そしてクリスチャン人口の少ない日本でキリスト教系の何かをしようと思ったら、百人集めるのだって大変である。仮にクリスチャン有名人を使ったとしてもせいぜい千人単位であろう。

 そういう厳しい状況の中で「百万人」と言うのは、なかなかの勇気である。
 私はそれを頭ごなしに否定しようとは思わないけれど、現実的に考えるなら、戦略が必要だと思う。

 ヴィジョンが神様から与えられても、自動的にはならない。人間の方で実現の努力をしないと、いつまでたっても絵にかいた餅でしかない。だからヴィジョンを言うならそれなりの覚悟と決意と実践が必要になる。祈っているだけではダメだし、言っているだけでもダメだ。

 本当に百万人規模の賛美集会を開きたかったら、まず自分自身が、何がなくても賛美したいという人間でなければならない。自分一人でも、誰が見ていなくても喜んで賛美する、たとえやめろと言われても賛美する、くらいでないとムリだろう。

 そして集会の場所も機材をまずは自分で用意して、知り合いに呼びかけて、誰も集まらなくても喜んで一人で賛美するのだ。それをたとえば月に1回、1年くらい1人で続けることができるなら、脈があると言える。
 誰かに頼って、場所やモノや人が集まったら始めよう、という発想だと一生かかっても1ミリも進まないだろう。断言してもいい。

 だから「百万人の賛美集会」を標榜している人の「今」を見るべきだ。「準備中です」と言うのは簡単だけれど、それが長く続くならヴィジョンとは言い難い。

 当たり前の話だけれど、ヴィジョンには行動が必要だ。行動のないヴィジョンは意味がない。「いずれやる」のだったらその時になってから「私のヴィジョンです」と言うべきだ。けれどそういう当たり前が当たり前でないクリスチャンがいて、儚い幻でしかない夢物語を「主からのヴィジョンです(エッヘン)」と言う。

 それこそ空しい生き方ではないかと私は思うのだけれど。

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