2015年2月3日火曜日

クリスチャンと「祈り」の関係

 クリスチャンにとって「祈り」は基本的なことと思われるかもしれない。けれどその本質をとらえるのは案外難しい。

 特に聖霊派では、祈りの時間が長いほど良く、感情的に盛り上がるほど良く、流麗で語彙が多いほど良い、という暗黙的な評価基準がある。みんなそれを意識的にか無意識的にか感じていて、その基準に従って「あの人は祈りの人だ」とか評価している。つまりこれもまた能力の話であって、霊的とか敬虔とかほとんど関係ない。

 だから聖霊派クリスチャンの祈りは正直なところ、苦行に近いものがある。プライベートはまだしも、みんなで祈る時なんかだと1時間でも2時間でも祈り続けることになる。また盛り上がったり静まったりの祈りの「ドラマ」に付き合わなければならない。それに信仰歴が長ければ長いほど「ちゃんと祈れるところを見せないと」みたいなプレッシャーに晒されているから、代表の祈りに指名されたら大変である(と思っている人は少なくないはずだ)。

 そういう聖霊派の「祈り」は、神の前にありのままの姿で出るという行為ではない。むしろ大いに着飾って、自分を良いクリスチャン、立派な祈りができるクリスチャンに見せようとする行為だ。
 キリストは「重荷を置きなさい」と言っているのに、彼らは自ら余計な荷物をイロイロ背負って神の前で痩せ我慢することを「祈り」と位置付けている向きがある。きっと疲れるだろうに。

 ある牧師がこんなことを言った。
「祈らないことの罰は、もっと祈れなくなることだ」
 クリスチャン歴の長い人はきっと頷けると思う。
 毎日の祈りを継続させるコツは、一にも二にも習慣化させることであろう。しかし1日でもサボってしまうと再開しづらくなってしまう。そしてサボる日数が増えれば増えるほど、また祈るのが億劫になってしまう。
 と、いうような意味だと思う。

 確かに頷けるけれど、私はちょっと違和感も感じる。そこにもやはり「祈り」に対する誤解がある気がする。

 たとえばある人が、毎晩決まった時間に神に祈っていたとする。しばらく続いたけれど、ある夜仕事で帰りが遅くなり、疲れていてすぐに寝てしまった。
 次の日の夜、「そういえば昨日は祈らなかったな」と思う。そして「まあいいか。もう祈るのやめよう」と思うとしたら単なる怠惰かもしれない。
 けれど一方で「昨日祈らなかったから神に合わす顔がない」みたいに思うとしたら、その人の祈りは苦行になってしまっている。努力して祈り、神様に喜ばれよう、認めてもらおう、と考えているからそういう発想になるのだ。

 よくこんな話を聞く。
「祈りは神様に通じる小道をきれいに手入れすることです。毎日祈って手入れする人の道はきれいになり、歩きやすく(祈りやすく)なります。けれど祈らない人の小道は雑草や小石でいっぱいになり、やがて通れなくなってしまいます」

 もっともらしく聞こえる話だけれど、これもやはり苦行の域を出ていない。頑張って祈らなければダメだ、祈らないのは怠惰な証拠だ、というメッセージが背後に隠れている。

 けれど神様が私たちを愛するのは、私たちがよく祈るからではない。長時間、感情的に盛り上がり、多彩な語彙でもって祈る能力があるからではない。もしそうだとしたら神の愛はだいぶ限定的なものになってしまう。

 そうでなく、私たちクリスチャンはたとえ祈れなくても神様に愛されているし、何ができなくても認められている。だからと言って怠惰になれという話ではないけれど、そんな苦行をする義務もない。

 祈れない時は無理に祈らなくていいし、間が空いたからといって後ろめたく感じる必要もない。もしそんなことで神の愛が離れるとしたら、神の愛は人間の愛以下ということになる。

「祈らないと祈りづらくなる」というのは人間の側の勝手な都合であって、実のところ神様の存在を無視している。自分の尺度に神様を当てはめているに過ぎない。
 そうでなく私たちは自分自身を神様の尺度に合わせるべきだ。そしてそれこそが「祈り」の姿勢の第一歩だと私は思う。

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