牧師の「就職」とその後の「成長」について・その3

2015年2月13日金曜日

「クリスチャンと成長」の問題

t f B! P L
 前回は、開拓成功牧師が陥るマイナス的成長について書いた。

 困難な開拓が成功すればするほど牧師個人の「自負」が強くなり、「自慢」を繰り返すようになり、「傲慢」に陥っていく。結果、大きな問題を起こしてその「功績」を台無しにすることもある。
 という話だった。

 そうなってしまう原因の一つは、「自分一人で開拓した」「一人で成し遂げた」という牧師の誤った感覚にある。
 当然ながら教会作りは一人でできない。見えたり見えなかったりする多くの協力があって成る。けれどそういう感謝を簡単に忘れてしまう。また牧師がいろいろなことを主導したのは事実だから、どうしても「自分がやった」という感覚になりやすい。けれどそれは栄光を自分に帰する行為である。いくら口で「主に栄光を帰します」と言っても。

 もう一つの原因は(これは重要だと思うけれど)、自分の上に立つ人間、いわば監督者を置かないという点にある。

 監督者とは今風に言うとアカウンタビリティをとる相手とか、「メンター」とかになると思うけれど、要は牧師にあれこれ注意し指導できる人間のことだ。会社で言えば直属の上司みたいなものかもしれない。「上司」と聞くとあまり良い印象を持たない人が多いかもしれないけれど、いわゆる「先輩」から適切な助言を受けるのは大切なことだ。

 けれど開拓教会の場合、その頂点には当然ながら牧師が立つ。だから牧師は誰からも何も言われない立場にある。特に上から物を言われ、不服ながら従うという体験をしない。だから監督者からイロイロ耳触りの良くないことを言われて反省するとか、改善するとか、それまでなかった視点を持つとか、そういう健全な進歩に必要な経験ができない。

 これは案外致命的な事態だ。そういう監督者がいないからこそ、開拓で教会を建て上げたからといって簡単に傲慢になってしまうと言える。それに一口に「成功」と言ってもイロイロと改善点はあるはずで、そういうことは教えてもらうのは得はあっても損はない。
 だから監督者がいないのは牧師にとって不幸なことだと思う。

 もちろん中には「私にはメンターがいるから大丈夫だ」と言う牧師がいる。
 けれどこの発言は要注意だ。

 まず前半の「私にはメンターがいるから」だけれど、重要なのはメンターがいるかどうかでなく、どんなメンターかだ。
 もちろんいつも完璧な助言ができるメンターなどいないけれど、そういうことより、どれくらいの頻度で関わるか、どれだけ発言力(強制力)があるか、どれだけ牧師を従わせられるか、といった点が重要なのだ。
 中には3ヶ月に1回、あるいは半年に1回会うだけの人間を「私のメンター」と呼ぶ牧師がいる。けれど3ヶ月に1度会ったぐらいで何がわかるのか。あるいは何が言えるのか。何も言えないだろう。言ったところでその効果を確かめるのが3ヶ月後では遅すぎる。それでは牧師の監督にはならない。

 実際そういう牧師がいたけれど、やはりメンターの言うことなど何も聞いていなかった。メンターにしたって教会の状況がよくわからないのだから、毎回当たり障りなく褒めるくらいしかできなかった。それでは監督とは言えない。というかそんな状況でメンターを引き受ける方もどうかしていると私は思う。

 後半の「大丈夫」も問題だ。なぜなら大丈夫と断言することなど誰にもできないはずだからだ。

 だから開拓牧師が「私にはメンターがいるから大丈夫」と言ったら、99%疑ってかかるべきだ。それに1%加えて疑ってもいい。あ、それじゃ100%か。

補足)
 今回「メンター」という言葉を使ったけれど、厳密には「教会を開拓する牧師の監督者」という存在について表現したかっただけで、「メンター」という言葉は微妙かもしれない。
「メンター」はクリスチャン個人が「時々自分を指導してくれる人」みたいな意味合いで使うことがあり、その場合なら3ヶ月に1回とか、半年に1回とかいう頻度で全然問題ない。
 ただ本記事の趣旨である「開拓教会の牧師を適正に監督し指導する人間」としては、もっとずっと頻回で深い関わりがなければならないと思う。

QooQ