今月20日、川崎市内の河川敷で、中学1年生の男の子が遺体で見つかった。そして1週間後の本日27日、殺人容疑で17歳、18歳の少年らが逮捕された。本当に痛ましい、あってはならない事件だと思う。被害者のご冥福とご遺族の慰められることとを心から願う。
事件の背景が次第に明らかになっている。被害者少年はいわゆる不良グループとの交流があり、今年に入ってから不登校になっていたという。また1ヶ月前から身体に暴行の痕跡もあったという。
そういう状況で注目されるのが、それぞれの責任問題だ。学校はどう対応したのか、教育委員会はどう対応したのか、警察の捜査はどうだったのか等。つまり事件発生を予期できたのではないか、対応に不備はなかったのか、もっと〇〇すべきだったのではないか、みたいな責任追及である。
けれど今回の場合、学校の担任教師は数十回にわたって家庭に電話連絡し、数回訪問もしているとのこと。部外者だから何とも言えないけれど、一般的な教師のタイムスケジュールからしたら精一杯の対応だったのではないかと私は想像している。
・ここから本題
ところでSNSを見てみると、あるクリスチャンがしたり顔でこんなことを言っている(要約して書く)。
「わたしの学校ならこんなことにはならない。不登校になった時点で介入して、みすみす見殺しになんてしない。(被害者の学校は)なんてひどい学校だ」
この書き込みの方がよっぽどヒドくてイタい。詳しい状況を知ってて書いてんの? 当事者たちの経緯を詳細に知ってんの? 部外者がここまで大きな口たたく方が恥ずかしいって気づかない?
メディアで報じられた、被害者の顔面に大きなアザがある画像だけ見て、「こんな状態を放置するなんてあり得ない」とか言っているけれど、それは心理学で言う「後知恵バイアス」だ。事が起こった後だから言えるに過ぎない。
それに、「自分たちがこの教師の立場だったら」なんてタラレバは意味がない。何とでも言えるからだ。また「自分たちだったら防げた」みたいな発言も失礼だ。特に遺族に対して。だったらやってみろ、遺族にそれを言ってみろ、という話だ。
言うなれば、卑怯な後出しジャンケン。一部のクリスチャン特有のいやらしい独り善がり。
そこにはおそらく、一部のクリスチャンが根強く持っている公立学校批判の影響もある。ミッションスクールやチャーチスクールみたいに聖書を土台に教えるべきだ、それをしない公教育はダメだ、間違っている、という手前勝手な決めつけ。
じゃあチャーチスクールがどんな人間を排出できたと言うのだろうか。そのへんを棚に放り投げて偉そうなこと言ってもね・・・。
という訳で、クリスチャンの「常識」が疑われかねない事例なので取り上げてみた。
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