クリスチャンと「癒し」の関係・その2

2015年2月1日日曜日

「癒し」に関する問題

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 前回書いた通り、聖霊派の皆さんが信じる「癒し」には怪しいのが多いけれど、真面目に信じている人が多いのもまた事実である。
 そういう人たちからしたら私など相当不信仰で不敬虔な輩だろうけれど、現に「癒し」の話は沢山聞きはしても実際に見たことがないのだから仕方がない。それに前回の「脚が伸びる祈り」みたいな眉唾ものも多いのだから、何でもかんでも鵜呑みにはできない。

 海外で「癒し」をバンバン行っているという触れ込みで来日する「癒しの器」も、日本の集会ではいつも何もできていない。いわく、「日本は霊的に閉ざされているから御業が起こりにくい」とのこと。なるほど、神様にもイロイロ制限があるのであろう。どこの神様だか知らないけれど。

 ある日曜日、牧師が風邪で熱があるのに教会に来た。礼拝で説教があるから仕方ないけれど、始まる前から一生懸命自分自身の癒しのために祈っていた。何人かの信徒からも祈られていた。それで頑張って礼拝を終わらせたけれど、結局のところ「癒し」は起きず、すごすごと帰っていった。

 そういう例は沢山ある。長く教会にいるとイロイロな信徒がイロイロな病気やケガをするのを見るし、その都度皆で祈るけれど、皆医学的に必要な日数だけ療養生活をして回復している。それは医学的に当たり前な話で、瞬間的な「癒し」とか奇跡的な「癒し」とは何の関係もない。

 だから彼らは「癒し」があると主張するし、実際に「癒し」」が起こっていると話すけれど、誰もそれを実体験として経験していない。海外のどこかから、あるいは日本の有名な「先生」から話が入ってくるだけだ。実際に見ていないし、どこの誰だかもわからない。

 あるいは経験していても、先の「脚が伸びる祈り」みたいなものしかない。骨盤の歪みを瞬時に治すよりは熱を下げる方がよっぽど簡単だと思うのだけれど。

 だから聖霊派の皆さんが「癒し」を信じる根拠は、内外の有名人がそう言うから、に尽きる。ベテランかつ著名な先生が言うのだから間違いないと単純に考えているのだ。またそこには「見ないで信じる者は幸いです」という聖書の言葉の都合のいい解釈もある。疑うと不信仰と言われる、だから無条件に信じる、という訳だ。

 だから前回も書いた通り、自分に「癒し」が起きないのは神様のせいでなく、自分自身の問題だという発想になってしまう。癒されないのは自分の信仰が足りないからだ、祈りが足りないからだ、何か罪があるからだ、先祖からの呪いがあるからだ、とかいうことで自分を責めたり、無駄に長い祈りを捧げたり、無茶な断食をしたりしてしまう。

 しかしそれは聖書が言う律法主義であって、「行いによる救済」を目指しているに過ぎない。その先に本当に救済があればまだいいけれど、残念ながら人は行いによっては救済されない。その努力の先には何もない。
 だから頑張って祈ったからとか、一生懸命断食したからとか、呪いと呼ばれるものを断ち切りまくったからとか、そういうことで「救い」とか「癒し」とかを達成できるのではない。

「癒し」についてあれこれ知っているクリスチャンならそんなことは当然知っているはずだけれど、どうやら知らないようなので、とりあえず書いてみた。

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