■曽野綾子さんのコラムの件
曽野綾子さんが産経新聞で連載しているコラム「透明な歳月の光」の、2月11日の記事が物議を醸している。タイトルは『「適度な距離」保ち受け入れを』というのもの。
要約すると、
異文化交流は難しい。でも日本は将来人手不足になるから、外国人移民が必要になる。けれど異文化人どうしが一緒に住むの難しい。南アフリカ共和国の実情を知って以来、居住地だけは人種別にした方がいいと私は思うようになった。
という感じ。
これが、安倍首相のブレインだった人がアパルトヘイト政策を支持する発言をしている、という訳で批判のマトになった。掲載した産経新聞もイロイロ言われている。
べつに曽野さんを弁護するつもりはないけれど、この批判にはちょっと発想の飛躍がある気がする。
南アフリカ共和国のアパルヘイト政策の本質は、明らかな白人優遇と黒人劣遇にあり、居住地を分けたのはその結果である。人種差別はあってはならないけれど、それと居住地を分けることとは
必ずしもイコールではない。
それに居住地が同一人種で固定化されていく傾向はどこででも見られる。アメリカにも中国人街とかイタリア人街とかあるし、日本でも東京の大久保に韓国人街とか、葛西にインド人街とかがある。またカナダのバンクーバーには日本人街がある。それらはべつに人種差別の結果できた外国人街ではない。税制その他の差別もない。どちらかと言うと利便性と効率の問題で出来上がったコミュニティである。
日本人が外国に住むなら、きっと周りに日本人がいたら安心だと思うだろう。外国人だってそれは同じだ。だから異国にあって同一邦人が集まっていくのは、当然と言えば当然である。
たとえば自分がマンション住まいだとして、他の居住者が皆ある特定の外国人で占められていたとしたら、きっと何らかの不都合を感じるだろう。それは文化が違い、言葉が違い、考え方が違うからだ。けれどそれは単なる不都合であって、相手を憎悪することではない。結果的に憎悪につながることはあるかもしれないけれど、本質的にはつながっていない。
だから憎悪による人種差別の結果としての居住地隔離と、利便性を考えての居住地分けはイコールではない。それで(記事を読む限り)曽野さんが言っているのは後者の方だと私は思うのだけれど、なぜか前者として捉えられているようである。
そこには何か決めつけというか、先入観みたいなものが働いている気がする。好きな人の発言は好意的に受け止め、嫌いな人の発言はハナから否定してかかる。人間にはそういう傾向があるけれど、まさにそんなバイアスが作用しているのではないだろうか。
私は南アフリカがかつて執行していたアパルトヘイト政策には反対である。曽野さんが同記事で書いている、将来日本が労働力として外国人移民を必要とするかどうかはわからない。また同記事がたしかに、「外国人移民を労働力として引っ張ってきて、限定的な居住地に住まわせればいい」みたいなアパルトヘイト政策を感じさせるのも否定しない。
そのうえで書くと、その人の意見は意見としてちゃんと趣旨を受け止め、誤解のないようにすべきだと思う。それができないと、どう受け取られるか怖くて、誰も何も言えなくなってしまう。
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