2013年4月30日火曜日

「献身」に逃げるな

 昨日「献身」について書いたが、また書きたいと思う。
 私は「クリスチャンは全員献身している」という立場だが、今回は一般的な意味での「献身」について書く。つまり「献身」=「教会で直接働く」だ。

 現在、プロテスタント新興教派ではこの「献身」をするクリスチャンが増えている。特に若い世代が多い。
 が、彼らは必ずしも、神学校を卒業して牧師や宣教師になるのではない。どこかの宣教団体で短期訓練を受けたり、教会で訓練を受けたり(それを神学校と称するところもある)、あるいはロクに訓練を受けずに、「教会スタッフ」のような肩書きで働きはじめるケースが多い。

 若者たちが大勢、神様に献身して仕えるのは、基本的に良いことだと思う。
 が、残念ながらあまり良い話を聞かない。

 一つ例を挙げると、ある若者はせっかく入った大学を中退し、海外留学に行った。が、数ヶ月で帰ってきて、そのまま就職したが、数ヶ月で辞めてしまった。そしてまた海外の何かの学校に行ったが、いつの間にか帰国していて、今は教会でスタッフのようなことをしている。
 そんな感じで、何を始めても長続きしない、同じようなことを延々と繰り返す若者たちを、何人も知っている。ケースはいろいろだが、ごく短期間で進路変更した理由を聞くと、「導かれた」とか「道が閉ざされた」とか、都合よく神様のせいにしている(もちろん本当に導かれたのかもしれないが)。

 彼らが何をしたいのか、見ていてよくわからない。彼ら自身にも、きっとよくわからないのではないか。

 そんな彼らが最終的に(本当に最終かどうかわからないが)たどり着くのが「献身」だ。
 神様に献身しますとか、教会に献身しますとかいうことで、日曜礼拝に現れて何かの奉仕をするようになる(平日何をしているのかはよくわからない)。それで有給だったりする。

 いろいろ試すのも、「自分探し」を続けるのも、お金があってできるなら自由にしたらいい。
 自分が何になりたいのかわからない、何になったらいいのかわからない、という不安とか焦りとかも、わからないではない。

 が、他にすることがないからみたいな消去法的理由で「献身」を選ぶのは、私はどうかと思っている。時間が空いているから教会の仕事を手伝います、というのは良いが、それを「献身」とは呼んでほしくない。
 彼らは純粋な気持ちかもしれないが、「献身」をうまく利用しているような気がしてならない。

 先日、アフリカに長期間派遣されていた日本人宣教師の話を聞いた。想像を絶する苦労の連続であった。彼が体験した問題の一つにでもぶち当たったなら、「道が閉ざされた」と言って宣教を諦めてもいいような気がした。

 が、その宣教師は諦めなかった。その理由は何なのか。
 彼は、神様が閉ざした道を無理矢理進んだのだろうか。
「教会スタッフ」を名乗る若者たちにも、ぜひ考えてほしい問題だ。

追記)
 以前の記事「日本のクリスチャンの若者がダメな理由」でも書いたが、上記のような若者の問題は、本人たちばかりのせいではない。彼らを指導する教会の牧師やリーダーたち、また親の責任が大きいと私は思っている。

2013年4月29日月曜日

それは本当に「主のため」なのか

 日本のクリスチャンがよく使う言葉のランキングを作ったら、おそらくこれらの言葉は上位に入るのではないだろうか。
「主のために」「神様のために」「イエス様のために」
 もちろん正確に調査したわけではないが、まったく的外れではないと思う。

 これらの言葉は基本的に、クリスチャンとして正しい。毎週日曜に教会で礼拝したり、献金したり、伝道活動や慈善活動に参加したりするのは、「主のため」だと言えるからだ。

それら「主のため」の行為について聖書は、「犠牲を払うこと」だと定義している。それも一方的な犠牲である。旧約聖書で言うと、自分の持っている牛や羊の中で最上のものを、生贄として焼き殺すことだ。食べるためにではない。全焼にして神に捧げるのであって、それは人間にとって何のメリットもない行為である。
 つまり「主のために」何かをするということは、その結果何かを得られると期待できるものではない、ということだ。
 だから今日の礼拝も献金もいろいろな教会活動も、単純に主に捧げるのであって、見返りを求める種類のものではないのだ。

 しかしある人は、礼拝の結果「神の祝福を受けることができます」と言うだろう。それは間違いではない。しかしその背景には、「祝福を受けるために礼拝する」という心理が働いている。祝福を受けることが目的なら、それは厳密には礼拝ではなく、神との取り引きでしかない。
 またある人は「伝道や慈善活動を通して、多くのことを学ばせてもらえます」「そこで新たな交流が生まれます」など言うかもしれない。それは副産物として素晴らしい。が、それが目的ならやはり「主のため」ではない。

 私は以前、教会の礼拝で毎週、楽器の奉仕をしていた。賛美リードもしていた。映像作品を作って上映したり、人前に立って話したりもした。当時の自分の動機を考えてみると、必ずしも「主のため」ではなかった。人に(特にM牧師に)よく見られたい、褒められたい、感動されたい、と思っていた。「主のために」と言いながら、神様なんて全然関係なかった。
 M牧師は信徒に無理難題を課す時、「これも主のためだ」とよく言っていた。そうやってさんざん人を騙してきた結果が、昨年の教会解散に繋がったことを考えると、彼の動機が「主のため」でなかったのは明白だ。

 そういうわけで、「主のために」という言葉を誰かが言う時、私はまず疑ってかかることにしている。その言葉の真偽は、いずれわかる。

 超教派の賛美集会などで、若者のグループが「神様のために賛美します」と元気よく言うのを聞くことがある。何々教会の何々さんが「主のためにこれこれの働きを始めます」というのもよく耳にする。
 それ自体は素晴らしいし、ぜひ頑張ってほしいと思う。が、いつの間にか立ち消えていることが多い。彼らの中には「これこれの理由で道が閉ざされました」「新しい道に導かれました」など言う人がいるが、では初めの動機や確信が何だったのか聞きたい。

 私たちは「主のために」何かをする時、その動機をよく吟味する必要がある。その結果得られると思われる全てのもの、副産物についても、私たちは考えてみる必要がある。それらが目的になっていないかと。でないと、神様と全然関係ないことをして満足している、という事態になりかねない。

「献身」とは何か

 キリスト教用語かどうかわからないが、教会でよく使われる言葉に「献身」というのがある。「身を献ずる」という言葉の通り、神様に自分の生涯を捧げる、というような意味で使われる。

 私はクリスチャンになったばかりの頃、この言葉を聞いて「クリスチャンってみんな普通に献身してるんじゃないの」と単純に思ったものだ。
 目に見えない神様を信じて、礼拝したり献金したり、慈善活動に携わったりするわけだから、それは立派な「献身」だと思ったわけだ。

 が、残念ながらそうではないようだった。

 一般にプロテスタント教会で「献身」と言うと、神学校を卒業して牧師とか宣教師とかになったり、あるいは「教会スタッフ」とかいう形で教会や教会関係事業で働いたりなど、いわゆる直接的に(多くの場合フルタイムで)教会で働くことを指すようだ。
(教団教派によっても、その辺りはいろいろあるようだ。ある教会は「一般献身」とか「特別献身」とか表現を分けていたりする。)

 じゃあそうでない人は献身していないのか、というのが私の最初の疑問だった。
 なぜならどう考えても、一般社会で働きながら教会員でいようとしたら、多大な犠牲を払うことになるからだ。毎週日曜は潰れるし、献金額だってバカにならない。平日の夜とかに教会に行くことにもなるし、継続的な奉仕を任せられたら、その責任がずっと付いて回る。

 もちろんそれを喜んでするわけだから、そもそも犠牲と考えるべきでない、という意見があるかもしれない。
 が、それは捧げる人間が、自分の行為を犠牲と認識した上で「これは犠牲などとは考えません」と言うから成り立つのであって、そうやって捧げられた側(教会など)とか周囲の人間とかが、「それはあなたにとって犠牲ではない」などと言えた義理ではないのだ。

 というわけで、私は普通にクリスチャンをやっているだけでも立派な「献身」だと思っている。牧師やら教会スタッフやら「ミニスター」やらが殊更に偉いとか、より多くの犠牲を払っているとか、そんなことは全然ない。みな犠牲を払っている。もし「私の方が多く犠牲を払っている」などとあなたの牧師が真面目に言ったら、今後の身の振り方を真剣に考えることをお勧めする。

 もし「献身度」を測定する機器があって、各人の払った犠牲の大きさが数値化されるとする。それでもし牧師が誰よりも高い値を出したとしたら、その牧師は「私は一番献身している」と自慢していいだろうか。

 もちろん自慢するのは自由だ。
 聖書が示す牧師像を見ると、そんなことは死んでもしないと思うのだが。

2013年4月28日日曜日

クリスチャンが教会に行く理由は何か

 私は日曜は、プロテスタント教会の礼拝に出席するようにしている。
 教会にはいろいろな境遇や立場の方が集まっている。が、大きく2つに分類できると思う。
 教会員と、そうでない人だ。

 教会員はその教会に在籍している人のことで、おそらく、日曜礼拝以外のいろいろな教会活動にも関わっている人が多いと思う。平日に教会に行くこともあるかもしれない。教会規約等を守ると宣誓することで、教会員になれるという教会もあると聞く。

 一方、教会員でない人というのは、現在の私のように、日曜礼拝だけちょこっとお邪魔させていただくような、薄い関わりの存在であろう。

 もちろん、どちらが良いか悪いかという話ではない。

 ただ、ふと疑問に思ったのは、クリスチャンはなぜ教会に行くのだろうということだ。
 私はすでに解散となった母教会で20年近く教会員をしていて、奉仕三昧の生活をしていたわけだが、その疑問に明確に答えられない自分自身がいる。

 なぜ教会に行くのだろうか?

 もちろん、神様を礼拝するためだとか、「キリストのからだ」を建てあげるためだとか、宣教拡大のためだとか、模範的解答みたいなものはいろいろある。
 が、自分が本当は何を求めてそれをしていたのかと聞かれると、よくわからない。

 初めのうちは救われた(入信した)喜びみたいなもので、熱心に教会活動に関わっていたと思う。そういう人は多いだろう。
 が、その初めの興奮状態が過ぎた後、それをし続ける動機とはいったい何なのか。
 もちろん大人であれば責任感とか、属したコミュニティへのコミットとか、そういう「付き合い」みたいな感覚で継続していけるかもしれない。
 しかし、若い人や子どもはそうはいかないかもしれない。やはり楽しみが必要だと思う。けれど、じゃあ教会がイベントを企画して彼らを楽しませようとするのも、何かおかしい気がする(ぶっちゃけて言うと、大人も楽しみが必要だと思うが)。楽しむために行っていることになってしまう。

 傷つき弱っている人々をケアするためだ、とある人は言うかもしれない。
 しかし、ケアと一口に言ってもいろいろあるし、そもそも心のケアは素人がそんな簡単にできるものではない。神様の愛があるから大丈夫とか言うのは安直過ぎる。一般社会のケアの現場で働こうとする場合カウンセリングとか各種療法とかの一定の学習を必要とするのを、バカにしてはいけない。
 例えば自殺企図がある人に、聖書は自殺を禁じているからダメだ、と簡単に言うクリスチャンがいる。彼らは率先してその人に引導を渡してしまっていることに気づいていない。それはもはやケアでなく殺人だ(良かれと思って言っているその動機まで否定する気はないが)。

 礼拝で説教中の会衆の様子を見ると、(上から目線な言い方になってしまって恐縮だが)この人たちはいったい何のために来ているのだろうと疑問に思うことがある。
 ある教会では説教中、熱心な会衆がしきりに「アーメン、アーメン」と言ってるが、本当に意味がわかって同意しているのか疑問に思ってしまう。自分の頭でよく考えて吟味しようとするなら、即座に反応することなどできないからだ。逆に居眠りしているのもどうかと思うが(その気持ちはよくわかる)。

 私も含めてクリスチャンたちは、教会で習慣化している事柄について、自分の頭でよく考えてみるべきだと思う。なぜそれをするのか、どんな意味があるのか、続けた結果どうなるのか、よく吟味すべきではないか。
 そういう自己点検なしに惰性で続けることは、パウロが言うところの「空を打つ拳闘」を続けることと同じだと思う。努力して頑張った結果、何も残らないということになり兼ねないからだ。

ダメクリのススメ

「ダメクリ」とは「ダメなクリスチャン」という意味である。私の勝手な造語だ。

 何がダメかと言うと、罪を犯すとか不正を働くとかそういう意味のダメではない。もっと個人的なレベルで、たとえば教会の礼拝に遅刻するとか、サボるとか、奉仕に協力しないとか、そういう意味でのダメさだ。どちらかと言うとクリスチャンとしてダメというより、その教会にとって使えないクリスチャン、という意味合いだろう。

 決してお勧めするわけではないが、あるケースにおいては、ダメクリになることは有用かもしれない。

 私はどちらかと言うとイイ子ちゃんに見られたい方で、礼拝などは毎週出席したいし、時間厳守で行きたいし、献金もちゃんとしたいと思っている。
 が、昨年の教会問題以来、ストレスフルな状態だったのもあるし、一方でいろいろな見方を学べたというのもあり、教会での礼拝を絶対視し過ぎてもいけないなと思うようになった。だから仕事が忙しかったり急用があったり、実家に帰ったりする時などは、教会の礼拝を欠席するようになった。そういう時は家でのんびりディボーションしたり、賛美したりで過ごすこともある。それで特に罪悪感を感じることもない。

 日曜礼拝を守るのはクリスチャンとして常識だ、という批判がきそうだが、そう批判したい人はやや器量や視野や見識が狭いのではないかと思う。以前の記事でも書いたが、聖書が礼拝についてどう規定しているか、自身で学ぶべきではないだろうか。

 もちろん、私は教会での礼拝を否定する立場ではない。それを妨げる特段の用事がないなら、是非出席すべきだと思っている。
 そのうえで、教会での礼拝を絶対視すべきではないと言いたいのである。

 礼拝を欠席したり、少し遅刻してみたり、奉仕の誘いを断ったりするのは、私のもともとの基準から言うと、かなりのダメクリである。
 が、それを簡単にダメクリと断罪するのは(言葉が適切かどうかわからないが)、教会至上主義というか、律法主義というか、そういう背景があるような気がする。

 礼拝には必ず出席すべきだ、そうしないのは不信仰だ、というのは残念ながら思考停止の極論というものだ。まるで天国に学校みたいな出席簿があって、「あなたは礼拝に何日欠席、何回遅刻しました。だから皆勤賞はあげません」みたいなことがあるかのようだ。そんな天国なら、私は行きたくない
 

 ダメクリを勧めるわけではないが、時にそうすることによって、その教会を知ることができると思う。
 あなたを断罪する教会なら、そういう教会なのだ。あなたを個人的に断罪するクリスチャンがいるなら、そういうクリスチャンなのだ。
 べつに断罪し返す必要はないが。

 私たちは健全なところにいるべきだ。友が悪ければ自分も悪くなるし、逆もまたそうだ。
 健全な教会にいなければ、健全なクリスチャンでい続けるのは難しいし、そうであるなら未信者の方に何の良い影響も与えられない。

 私は医療従事者だが、災害時に優先すべきは自分自身の安全確保だと言われている。
 なぜなら自分が負傷してしまったら誰も助けることができないばかりか、自分が助けられる側になってしまって仲間に迷惑をかけるからだ。

 自分自身がどういう状態であるのか、常にチェックが必要だ。それは自己中心になれということではない。むしろ逆だ。
 そのためにダメクリになってみるとしたら、それは本当はダメクリではないのだろう。

踊る大捜査線 The Movie Final 新たなる希望


『踊る大捜査線 The Movie Final 新たなる希望』をDVDで観た。
 1997年から15年に及ぶシリーズの完結篇である。

 2010年の3作目、「ヤツらを開放せよ!」は、いつの間にか上映されていた印象があった。
 ネットの批評も散々だったし、もう人気が落ちたのかと思っていた。が、観てみたらやっぱり「踊る」だった。そのクオリティもこだわりも、笑いも感動もそのまま、非常に良くできていた。

 今回の4作目、完結篇となるが、話題性がどうだったのかイマイチわからない。が、本広克行監督がTwitterで制作状況を逐一ツィートしていて、その内容が面白く、ずっと期待していた。
 劇場には観に行けなかったが、DVDリリースと同時に借りて観た。

 余談だが、DVDレンタル店舗でのレンタル開始日は、告知されているリリース日の前日というのが暗黙的事実である。今回の『新たなる希望』は4月26日(金)リリースだったが、案の定、25日(木)午前中のうちに店頭に並んでいた。
 人気作でなかなかレンタルできないことが予想される作品などは、この手で先行して借りることをお勧めする。

 さて、内容であるが、あらすじ等はWikipediaで見るのが一番であろう。
 私は若干のネタバレを含みつつ、気になったことを書きたい。

・犯人について
 今回の悪役はSMAPの香取信吾、というのが話題の一つだった。
 明るいイメージの彼が寡黙でストイックな犯人を演じるということで期待していたが、本当に寡黙である。というか、セリフが2つか3つしかなかった気がする。くわえて出番も少ない。
 ぶっちゃけ、あれって香取信吾じゃなきゃいけなかったのか?
 そう思う理由の一つは、彼が主犯でないということだ。もう2人の刑事とグルで、3人の犯行ということになっている。
 その2人だが、3作目「ヤツらを解放せよ!」にも出演している。
 今回の事件は6年前の誘拐事件時の怨恨から起こしたものだから、「ヤツらを解放せよ!」の時は、2人とも怒りプンプンの状態だったはずだ。が、そうは見えなかった。
 このへんは、3作目制作時にはなかった設定だったのだろう。

・すみれさん、どうなったの
 恩田すみれ刑事が実際に辞職してしまうが、ラストで青島に止められ、頷いている。刑事を続けてくれるのかな、と思っていたが、それっきり登場しなかったのは残念だ。結局どうなったのだろう。
 ちなみに、彼女の最後の行動は疑問だらけではないだろうか? まあ、お祭りの最後と思ったらいろいろな矛盾も勘弁できるのかもしれない。

・オープニングクレジットがかっこいい
 おなじみのテーマをバックに、15年分の映像がフラッシュバックする仕組み。メインキャラの若返り方が見てて感慨深い。いくつか日付が表示されていて気になった。"1997.2.18"とか"1997.3.4"とかだ。気になって調べてみたら、どうやらドラマ版の放送日のようだ。その回のサブタイトルも大小様々に表示されている。ほとんど一瞬だから、見ててもわかりづらいが。

・全体的に
 
 まとまりがないと言ったらそうかもしれない。
 犯人グループの犯行が計画的だったのかどうか、よくわからない。真下の息子を誘拐するくだりも、絵葉書を見てとっさに思いついたように見える。が、その割には6年前の同じ日に犯行が設定されている。主犯格が最終的にしたかったことも、復讐なのか、警察機構の改革なのか、よくよく考えると見えてこない。
 犯人とか犯行動機とかの弱さは、「踊る」シリーズに共通していると個人的に思う。

・2つで十分ですよ
 監督のツィートで一番面白かったのはこれである。
 知る人ぞ知るカルトSF映画『ブレードランナー』の有名なセリフが、パロディとして使われるとのことで期待していた。さりげなく出てくるのかと思いきや、ラストではっきり、やや強調ぎみに聞こえてきた。「3つでいいよね」「2つで十分です」
 ちょっと気になったのは、『ブレードランナー』では「4つだよ、4つ」というのに対して「2つで十分ですよ」と言っていることだ。

 シリーズ全体的に、細部まで非常にこだわって作られた作品である。注意して観るといろいろ隠し設定があることがわかる。
 たとえばすみれさんが乗る九州行きのバスはTTRで、『交渉人 真下正義』の舞台となる地下鉄の系列であることがわかる。そのバス運転手も、同映画に車掌として出演していた。
 ちなみに、そのバスの番号は877で、本作には意味深いゴロ合わせでもある。
 また、冒頭の商店街を走るボクシング男性は3作目のラストにも出演しているなど、挙げるとキリがないくらいである。
 細部にこだわりすぎて、本筋の詰めがイマイチになってしまったような気もする。

 が、そんなこんなも含めて、私にとって愛すべきシリーズである。

追記)
「踊る大捜査線」シリーズのWikipediaを見ると、「時間軸」の項目で、全作品が時系列に並べられた一覧表がある。
 それによると本作「The Final」が2006年12月、「The Movie 3」が2010年3月となっているが、これは明らかに間違いであろう。The Finalで逮捕された犯人刑事たちがThe Movie 3で刑事として登場するはずがないし、彼らが恨みを抱いた6年前の事件が2000年のことだとしたら、真下正義は当時まだ交渉人になっていなかったはずだ。重大な矛盾を生むことになってしまう。

 

2013年4月25日木曜日

「支配」は人を狂わせる ―横浜女児死体遺棄事件に思うこと

 7歳女児の死体遺棄事件が、大々的に報道された。
 加害者は30歳の母親と、その交際相手。継続的な虐待の末の、暴行死だったという。病院にも連れて行かず一晩放置した上、遺体を捨てた。

 本当に痛ましい。加害者を含め、誰もそのような結末を望んではいなかったはずだ。
 

 原因はよくわからないが、単に親として未熟だったとか、無責任だったとか、そういう個人の問題として終わらせるのもどうかと思う。なぜなら同じような事件が無数に起きているからだ。まだ顕在していない、事件ギリギリの状況だって相当数あるかもしれない。

 母親の供述は、交際相手に暴力を振るわれていて逆らえなかった、というもの。いわゆるDV被害に遭っていたという。
 逆に男性は、代わりに叱ってくれと頼まれて叱っていた、それが度が過ぎてしまった、という。
 相反する供述で、残念ながら、どちらかが相手に責任転嫁しようとしているようだ。あるいは互いにかもしれない。

 この加害者に対する批判がtwitter等で多く寄せられている。中には死刑だとか許せないとか、感情的なものもある。当然の反応かもしれない。

 しかし私は、この母親の「暴力を振るわれていて逆らえなかった」という発言が本当だとしたら、安易に責めることもできないと思った。
 なぜならDV被害に遭って支配され、本当に追い詰められてしまうと、理屈も常識も通じなくなってしまうからだ。

 知り合いの女性に、夫からのDVを長年受け続けてきた方がいた。
 残念ながら、周囲がそれに気づいたのは相当ひどい状況になってからだった。
 その女性は末期症状だったのだろう。初めは助けを求めていたが、周囲が対処しようとすると、態度を一変、かえって夫をかばい、必死で守ろうとしはじめた。

 ちょうどそれが発覚した時、夫は海外出張中だった。女性を逃がすには今しかなかった。彼女の実家の両親も兄弟も、早く彼女を送ってくれと懇願していた。私たちは飛行機を手配し、空港までの車も準備した。
 しかし出発する朝、彼女は土壇場になって「やっぱりあの人には私が必要だ」と言い始めて車に乗ろうとしなかった。私たちはいろいろ言って説得しようとしたが、最後は半ば強引に車に乗せなければならなかった。が、彼女は発進した車からも降りようとした。すったもんだの末、彼女がようやく落ち着いたのは飛行機に乗せられてからだった。

 傍から見たら、私たちは誘拐犯のようだったかもしれない。何もそこまで、と思われるかもしれない。が、彼女の痛々しい暴力の跡と、夫の名前を聞くだけで恐れおののいて取り乱すその姿とを目の当たりにしたら、絶対に夫のもとに返してはいけないとわかるはずだ。

 夫に暴力を振るわれて恐ろしい、痛い、怖い、という感情はもちろんあるが、それと同じくらい、夫を支えなければならない、味方してあげなければならない、という感情もある。DV加害者と被害者は、そういう相反する共依存関係でつながれ、不可逆的な支配・被支配の関係に陥る。

 そして、そうやって支配された者は、支配者に逆らうことなどできない。勇気を出せとか立ち上がれとか子どものためだとか、そういう精神論は何の役にも立たない。

 まったく理屈が通らないけれど、そうなのだ。私はその理不尽を実際に見た者として、そう証言しなければならない。

 今回の事件の母親が、その女性と重なって見えた。
 もちろん供述の信ぴょう性の問題はあるが、もし彼女がDV被害者だとしたら、やはり正常な判断はできなかっただろうと思う。
 子どもが可哀想だろとか、それでも母親かとか、いろいろ批判するのは簡単だ。もちろん犠牲となった子どもが一番哀れだ。が、その親が抱えていた苦悩や痛みに目を向けない限り、このような事件は今後も続くのではないかと思う。
 

2013年4月24日水曜日

義務教育=学校教育なのか

 小中学生の子どもにホームスクールやチャーチスクールをさせるのは、憲法26条に違反するという意見がある。
 親は子どもに普通教育を受けさせる義務があり、普通教育とは文科省認可の学校教育だからだ、という論理だ。非常に正論である。
 が、それでも私は、違反にならないケースも存在すると思っている。

 同条と教育基本法をよく読んでみると、普通教育を受けさせる義務は保護者にあるが、その機会と水準を保障する義務は国にあることがわかる。
 つまり、ある子が不登校になったり落ちこぼれたりするのは、親の責任だと思われがちだが、実は国にも責任があるということだ。
 また、教育水準を保つ責任が国にあるなら、国はどんな子どもも落ちこぼれさせてはならないだろう。なぜなら越えられないハードルをあえて設定して転ばせることは、普通教育の目的に反するからだ。
 その普通教育の目的というのは、その個人の資質を伸ばし、日本国形成に資する人間を育成することと書かれている。だから中卒の時点でそのような人間に育っていなければ、それは国の責任である。

 もう一度確認するが、保護者の義務は「普通教育を受けさせる」ことだ。受けた結果どうなるかではない
 それはそうだろう。週5~6日、日中の大半を学校教育に子どもを預ける訳だから、その結果を親のせいにされても困る(もちろん、親はその結果を受け止めなければならないが)。

 ではその学校教育で、全ての子どもが普通教育の目的を果たし、一定以上の水準に達することができるかというと、現実的に不可能だ。病気や障害を含めて子どもの特質は様々で、公教育がその全てに適切に対応できているとは、残念ながら言えないからだ。

 ということは、憲法の定める義務を、国は十分に果たせていないということになる。

 が、国が義務を果たせていないから、保護者も果たさなくていいんだ、という話でもない。
 私が言いたいのはその逆だ。
 国が義務を果たせないなら、保護者自身がそれを果たそうとするのが自然なことのはずだ。
 文科省のHPにも、「憲法以前の自然権として親の教育権が存在する」と書いてある。

 いろいろな個別事例があるだろうが、例えば、軽い知的障害を持ったAくんがいるとする。Aくんは知能指数75くらいで、境界域である。これだと障害認定は受けられず、法的には一般の学校に入らなくてはならない。が、そこでの学習にはとても付いていけない。と言って特別な支援は何もない。こういうケースの場合、大半はほとんど学習成果を上げられないまま義務教育を終えることになる。普通教育の目的を達成できない。

 Aくんの親は、普通教育を受けさせているからと、これを黙って見ているべきだろうか。

 ホームスクール精神の根源は、このような親の悲痛な叫びにあるのではないかと思う。
 自分の子の問題は自分が負う、自分が責任を持つ、自分が最後まで付き合う、という切実な叫びだ。
 そして実際的に、学校外で親や他の誰かが時間を割いてAくんに勉強を教え始め、時間がかかっても、たとえわずかでも、何かを達成できたなら、学校教育はそれに感謝すべきだ。なぜならそれは本来、憲法に定められた学校教育の義務だからだ。

 多少極論のようになってしまったが、多かれ少なかれ、このような原理はどの学校、どの子にもあると思う。

 公教育に子どもを通わせるのは親の義務だ、というのは正論だ。
 しかし、だからそれ以外の教育は全て違反だと決めつけるのは、あまりに盲目的すぎる。ケーキを焼けと言われて、焼け焦げて炭になってもなお焼き続けるようなものだ。
 子どもの受ける普通教育が子どもにどんな成長をもたらすのか、あるいはもたらさないのか、最後まで責任をもって見定められるのは、やはり親しかいない。

 義務教育の在り方について、国も親もじっくり考えるべきだ。
 ホームスクールやチャーチスクールの存在がそのキッカケになるとしたら、それだけでも両者の存在価値があると私は思う。

2013年4月23日火曜日

「素人経営のチャーチスクール」という誤解

 チャーチスクールは素人が経営しているからどうなのか、問題ではないのか、という意見を読んだり聞いたりすることがある。

 その意見はもっともで、どこも間違っていない。たしかに素人が何とか頑張って教育しようとしているし、いろいろ問題もある。

 だからそんな素人経営スクールに子どもを託すなんてできない、という結論になるのは当然のことだ。それでもあえてそこに入れようとする親は、相当なポリシーの持ち主だろう。明らかにマイノリティだ。

 という認識の上で書かせてもらうが、チャーチスクールをいちいち「素人が経営している」と批判的に書くのは、根本的な理解の違いにあると私は思っている。

 もともとチャーチスクールは、親が子どもの教育に責任を持とう、自動的に公立学校に入れるのでなく、子どもにとって何が最善なのか熟考してからにしよう、という発想が先にあったはずだ。
 その結果、自分の子どもは自分で教えたい、というホームスクール精神を持った人たちが現れ、それが同じ教会の信徒どうしだったり牧師が含まれていたりで、じゃあ教会でそれをサポートしていこうよ、という流れが起きた。
 それがチャーチスクールの原点だと私は理解している。

 だから、チャーチスクールをしているのは当然みんな親であって、大概みんな素人なのだ(たまたま教員免許を持った人がいるかもしれない)。
 それに、いわゆる「経営」はしていない。中には初めから経営視点で何とか回そうとする教会があったかもしれないが、少なくとも私の教会は、収益を目指した経営はしていなかった。
 だが教会がサポートする以上、親でない信徒が関わることもあるし、経費もかかるから会計も必要になる。カッコつけてスクール名なんて掲げるから、それなりにスクールを経営しているようにも見えるだろう。

 が、本質はそこではない。
 教会のもと、いくつかの家庭が支え合いながら、我が子を教育していく。
 それが本質だったはずだ。

 だから素人経営ウンヌンという批判があるのは、チャーチスクールはそもそもそういうものなのだという認識がないからではないかと思う。物理学者に向かって、あなた哲学の素人でしょうと批判するようなものだ。

 もう一つ、素人経営がわざわざ取り沙汰される理由は、他教会の子弟を受け入れているところにあると私は思っている。

 教会の信徒たちが、自分たちの子、つまり教会の子を教育しているだけなら、特別批判されることもないだろう。なぜなら外部に向けて生徒募集することもないし、そもそもスクールの存在を教会外に広報する必要もないからだ。

 が、他教会の子弟を受け入れようとする段階で、そのスクールはより「スクール」らしくならなければならなくなる。
 公共性が求められ、授業料やら公的書類やら何やら、形を整えなければならなくなる。
 するとどうしても「経営」という視点が必要になる。そして我が子を教えたかっただけの親たちが、「教師」にならなければならなくなる。
 結果、「素人経営のチャーチスクール」が出来上がる。

 だからすべてのチャーチスクールにとって、他教会の子弟を受け入れるか否かは、大きな転換点だったはずだ。

 単一家族で完結するホームスクールか、複数家族で助け合うホームスクールか、はたまた自教会で完結するチャーチスクールか、他教会を受け入れるかチャーチスクールか、あるいは公教育か。
 子どもの教育の選択肢はいろいろあっていいと思うし、各自が信じた道を行けばいいと思う。

 もちろんその結果、子どもがどうなるかは(昨日書いた通り)別問題だが。

追記)
 公教育に子どもを出さないのは義務教育違反だ、という批判がありそうだが、それについては私にも意見がある。また次に書きたい。

2013年4月22日月曜日

教育の成果はどうやって判断すべきか

 知り合いの女の子が、結婚することになったと聞いた。

 普通なら喜ぶところだろう。
 が、某大学に進学したばかりの彼女がなぜもう結婚するのか、不思議だった。
 べつに学生結婚に反対するつもりはないが。

 しかしよくよく聞くと、大学は早々に中退していたという。苦労して入学したのを知っているだけに、もったいないと思った。
 彼女がその後、どのように歩んだのか定かでないが、結婚相手と知り合い、結婚することになった。

 大学中退も早期結婚も、さして驚くことではない。(クリスチャン子弟がみな聖人君主だと想像している方がいるとしたら、大間違いだと教えてあげたい。世間を知らない分、ノンクリスチャンの子より多少純粋かもしれないが、彼らも同じ人間だ。)
 が、ご両親の心中は、きっと穏やかでないのではないかと思った。
 クリスチャンスクールを卒業したのに何てザマだと非難されるかもしれないし、「心の教育」を標榜するクリスチャン教育の、面目丸つぶれかもしれない。

 しかし、では公立学校だったら違う結果になったかと言うと、それもわからないと思う。

 それに公立もいろいろな学校があるし、いろいろな先生がいる。同級生だって様々だ。もしかしたら良い先生に出会ったり、良い先輩や同級生や後輩に出会ったり、あるいは思わぬ良い出会いがあったりして、非常に効果的な成長を遂げたかもしれない。あるいは、まったく逆のことが起こったかもしれない。

 くわえて、大学を中退したり十代で結婚したりすることに眉をひそめる人がいるだろうが、それは絶対的に悪いことだろうか。私はそうは思わない。もちろん人に迷惑をかけたなら誠実に対処しなければならないが、それらの経験が、その人にマイナスに働くとは限らない。
 かえって、何か大切なことを学びとり、自分自身をより良く変化させることができたなら、それは非常に良いことだ。

 そう考えると、教育の成果というものは、最終学歴で決まるものではないような気がする。その後の人生の全てが、教育の成果なのではないだろうか。
 つまりその子にとって何が一番良かったかは、一概には言えない。

 こう書くと、クリスチャン教育の失敗を棚に上げているように思われるかもしれない。
 が、現場の人間にとって、やはりそれは事実なのだと思う。
 親にとっての子どもの成長にも、同じことが言えるかもしれない。

 彼女が今後どうなっていくか、私は遠くから見守るしかない。
 もしかしたら、何年後か何十年後かに、再び接点が生まれるかもしれない。あるいは死ぬまで生まれないかもしれない。
 しかしいずれにせよ、いつか彼女が人生を振り返った時、思春期をチャーチスクールで過ごしたことを良しと思ってくれるなら、それだけで私は満足だ。

2013年4月21日日曜日

希望は、また与えられる

 私はこのブログで、キリスト教の信仰とか礼拝とか愛とかについて、キリスト教会への批判を込めながら書いてきた。

 クリスチャンの中には、それを快く思わない人々もいるかもしれない。特にニセ牧師Mとか、インチキ校長Gとか、その関係者らはそうかもしれない。

 が、私は本気だし、書かなければならない、訴えなければならないと強く思っている。
 それは本来、特定の個人を批判することではないかもしれない。が、キリスト教とかクリスチャンとかがこれ以上世間から失望されない為には、間違っている人々の間違いは間違いだと言わなければならないと思う。

 例えば「政治家」と聞くと、何だかお金にだらしない、信用できないというイメージを持たれやすい。が、そういう人々もいるだろうが、そうでない、真面目に働いている人々だっているはずだ。それなのに全部を一括りにして、「政治家はダメだ」と言うのは乱暴な話だ。
 それと同じように、クリスチャンだっていろいろな人がいて、トンデモもいれば真面目な人もいる。それを一部の(一部かどうかはわからないが)トンデモのために、全部がトンデモにされるのは、私としては避けたい。

 そういう訳で私は、クリスチャンたちの間違っている点は間違っていると言いたいと思う。
 その目的は、こき下ろして潰してやろうということでは決してない。
 かえって正しいこと、良いことに目を向けてほしいと思っている。

 かくいう私も間違う人間だし、いつも正しいことができるわけではない。
 いつも正しくありたいとは願っているが。

本題
 いつもネガティブなことを書いているが、今日はポジティブなことを書きたい。

 ちょうど一年前、私の教会で問題が発覚し、解散へのカウントダウンが始まった。人生の多くを捧げてきた教会とチャーチスクールが、なくなっていくのを目の当たりにした。

 私は人生って何だろうとか、神って何だろうとか、そんなことばかり考えるようになった。全て無意味だったと思った。他の教会の方々から「無意味だったなんてことはありません」と励ましてもらっても、変わらなかった。

 私はチャーチスクールで、子どもたちに接するのが好きだった。授業だけでなく、いろいろ活動したり、遊んだり、話したりして、一緒に問題に取り組んで成長していけることを喜んでいた。

 今思うと、そこにもいろいろ課題はあったし、反省すべきこともあった。チャーチスクールに対する批判も、もっと真摯に受け止めるべきだった。

 が、そんなこんなも含めて、私の立っている場所が土台もろとも崩れ去った。教会も、子どもたちとの関係も、それで終わった。
(チャーチスクールだけが分離独立し、以前とは似つかない別モノに変わってしまったのは書いてきた通りだ。)

 私は教会関係の一切から手を引き、普通に働き始めた。長く味わわなかった普通の暮らしだ。それはそれで良かった。毎朝働きに出て、夕方帰る。家族で夕食をとり、いろいろ話して、寝る。平穏な日々だ。

 半年以上、そんな風に過ごしてきた。私も私の家族も、その中で次第に回復していったようだった。
 そしてつい最近、そのチャーチスクールのその後の問題を、あれこれ耳にするようになった。多くはG校長のリーダーシップに関する問題だった。

 多くの生徒がスクールにいられなくなり、去っていった。そして去っていってもどうしたら良いかわからない子たちがいた。

 その子たちの居場所作りの手伝いを、私は今させてもらっている。
 終わってしまったと思った子どもたちとの関係が、よみがえっている。

 何だか不思議なことだ。が、私はとても嬉しい。

 誤解を恐れず書くが、神様は確かに働かれている。神様は私のことを忘れず、導いて下さっている。もちろん私のことだけでなく、神様を求めている人も求めていない人も、神様は愛して導いておられる。

 もうダメだと思っているそのところに、神様は希望を与えて下さる。
 私がもう一度希望を与えられたように。

2013年4月17日水曜日

怒ってあげる愛情

 前回、人には痛い目に遭わないとわからないことがあると書いたが、村上春樹の新刊「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んで、それについて再び考えさせられた。

 同著のあらすじや感想をここで書く気はないが、主人公である多崎つくるの悩み(?)に共感できる人がどれだけいるか、私は疑問に思っている。
 なぜなら彼は裕福な家に生まれ、何不自由なく育ち、大学進学も就職も問題なくできた身の上で、ただ一つ、高校時代の友人との関係に躓いただけだからだ。
 私に言わせれば、甘ったれてんじゃねえである。

 その主人公の悩みどころの「別世界」感は、「ノルウェイの森」に通ずるものがあると思う。
(ネガティブに書いているようだが、私は「ノルウェイの森」も「色彩を持たない〜」も楽しく読ませてもらった。)

 が、そこで思い出したのが、前回自分で書いた記事である。
 人には、体験しなければわからないことがある。
 ということは、多崎つくるの悩みは私には理解できないが、それは私の経験不足や見識不足によるものなのかもしれない。そこには彼にしかわからない複雑な心理があるのかもしれない。

 が、そこでまた別のことを考えさせられた。

 先日、映画「グッド ウィル ハンティング」を初めて観た。
 マット・ディモン扮する悩める青年ウィルと、ロビン・ウィリアムス演じる心理学者ショーンとの心の交流を描いた作品である。
 ウィルは癒し難いトラウマを持っていて、そのせいで誰に対しても不遜な態度を取ってしまう。誰にも俺の気持ちなんかわからねえ、俺に近づくんじゃねえ、というひねた心理である。何人もの心理学者がそんなウィルにサジを投げるが、ショーンは「ざけんじゃねえこのクソガキ」と逆に一喝(実際にはそんな台詞ではなかったが)。ウィルの幼児性を見抜いてそこにアプローチした。

 このケースの場合、「私は体験していないからあなたの気持ちはわからない」と言っていたら何も始まらないし、誰も救われない。
 気持ちがわからないのは事実かもしれないが、人として何が必要かはわかる。それを教えるため、多少荒療治でも「ざけんなクソガキ」と怒ってあげるのもまた、愛情の一つではないかと思った。

 このウィルの不遜さと自己憐憫さが、私には多崎つくると重なって見えた。彼の悩みは確かに彼を絶望へと追いやっただろうが、それと同じかもっとひどい絶望に毎日追いやられている人が、一体どれだけいるか。そう考えると、つくるには誰かが「ざけんなクソガキ」と怒ってあげるべきではなかったかと、思わずにいられない。

2013年4月16日火曜日

痛い目に遭わないとわからないこと

 人には想像力があって、未体験の事柄でもある程度、想像して体験することができる。
 例えば自力では飛べないが、もし飛べるとしたら、地上はこういう風に見えるだろうとか、風はこんな感じだろうとか、想像の中で体験することができる。

 それはおそらく他の動物にはない、素晴らしい能力だろう。
 が、やはり「想像の域を越えない」事柄というものもある。

 例えば、バンジージャンプがどんなものかいろいろ聞かされても、実際の高さや恐さ、落下速度やスリルといったものは、経験者でないとわからない。
 また、いつも寝坊する子どもが「寝坊するな」と親に怒られても、遅刻したことがなかったら、何故寝坊がいけないのか本当には理解できない。学校に遅刻し、何らかの罰やペナルティが自分に課せられて、初めてわかる。

 上記の例に共通して言えるのは、人は経験したことでないと正しく想像できない、ということだ。つまり人はまっとうな助言でも、聞けない性質がある
 実体験から得られる「リアル感」だけが、その人に本当の理解を与えるからだ。

 映画「セブン」でケビン・スペイシー演じる犯人が、犯行の動機としてこんなようなことを言う。
「人はハンマーで頭を叩かれて、初めて聞く耳を持つ」
 あながち的外れなことではない。
 もちろん、ハンマーで叩かれたら聞くに聞けないだろうが。

 勤めていたチャーチスクールが崩壊しかかった時、私はスクール再建のため、一つのことを主張した。スクールが正しく回復していくためには、絶対にそれが必要だと私は信じていた。
 が、その主張は私の家族以外の誰にも受け入れられなかった。そして結局、私自身がスクールを去らなければならなくなった。
 しかし私が去ってすぐに、スクールは(新校長は)思わぬ方向に舵を切った。多くの父兄や生徒が、それによって切り捨てられた。切り捨てられた人々はそこに至って、私の主張が正しかったことを認めた。

 しかし、時すでに遅しである。
 もはや、スクールを元に戻すことはできない。
 が、私はそれでも良かったと思っている。
 なぜなら、真実が見えなかった人が、その痛みを通して真実を見ることができるようになったとしたら、それは何にも勝って貴重なことだからだ。

 人には、自分が痛まなければ決して理解できない領域がある
 その痛みを避けようとするのは、人として当然の反応であろう。
 が、それを避けられず苦しんだ結果、何かを発見したとしたら、それは富や栄誉やその他のすべてのものに勝って、その人を助ける宝となるだろう。

2013年4月14日日曜日

チャーチスクールの高校生の悲劇

 私が勤務していたチャーチスクールが問題発生後、大きく様変わりしたのは何度も書いている通りだ。生徒数が三分の一に減り、教師はほぼ総入れ替えとなった。施設も一か所だけに縮小し、細々とやっている(その在り方の問題点はすでに書いてきた)。

 その新体制と袂を分かつ父兄や教師も多かった。私もその一人だ。生徒からすれば、従来とは違う方針、違う教師、違う授業の中でやっていかなければならない。従来のスクールを良しとして入学してきた生徒や父兄からしたら、「話が違う」というのも当然だろう。

 そういうわけでスクールを退学し、別の道を選んだ家庭は多い。
 幼稚園生、小学生、中学生は、それでもまだ道があるからいい。公立の、自分の学区の学校が受け入れてくれる。
 問題は高校生だ。

 もともとこのスクールは無認可だから、高校レベルの授業をしても、公の単位とは認められない。だから3年間頑張って勉強しても、世間一般でいうところの高校卒業にはならない。本人たちがいくら頑張ってもだ。高卒認定試験に合格して進学しない限り、彼らの最終学歴は(厳密に言えば)「中卒」になる。
 このスクールで高校生として1年間、あるいは2年間過ごしてきた生徒たちが、上記の理由で退学した時、その後どうするかは本当に悩むところだ。

 都立・県立などの公立高校は4月入学が原則だから、学期中に入ることはできない。それに4月を待って入学するにしても、学年は1年になる。
 通信制高校も基本的にはそれと同じだ。学期途中から始められるにしても、そこから3年間かけなければならない。
 私立高校は唯一可能性を残している。実際にあった例だが、高1の2学期までチャーチスクールで過ごした生徒が、某私立高校の1年生への編入を認められたことがある。ただ、それは高1の2学期前半という、早い時期だから叶ったことではある。これが高2の終わりとか高3だったら、話は違うだろう。それに、私立は費用の点が問題ともなる。

 というわけで最後に残された現実的な道は、ホームスクーリングである。家で自分で勉強する、親が教える、予備校に通う、などいくつか手法はあるが、いずれにせよ「学校」というものに属さない形態だ。これで高卒認定試験合格を目指すとか、大学や専門学校への進学を目指すとかいうことになる。中には就職する子もいるだろう。

 子どもと言っても千差万別、いろいろな子がいる。中には学校に通うより、ホームスクーリングの方がのびのびできて良い結果を生む子もいるだろう。ホームスクーリングで大学進学し、社会で頑張っている子もいる。
 が、そうでなく、「学校」という枠組みを必要としている子もいる。そういう子からすると、この状況は決して喜ばしくない。

 今まで信じてきたチャーチスクールを辞めざるを得なくなり、突然、道なき道へ放り出された子たちが、実際にいる。
 彼らのフォローをできなかったチャーチスクールの罪は大きい。
 願わくは彼らが、それでも逞しく、したたかに、自分の生きる道を見つけて進んでいければと思う。
 私も何かその役に立てればと願ってやまない。

2013年4月12日金曜日

村上春樹を読むという巡礼

 朝のニュースで知ったのだが、今日は村上春樹の新刊の発売日だった。
 徹夜組が現れ、多くの書店が開店時間を繰り上げていた。出社前に買いたい、という人のためだろうか。
 神田の三省堂が「村上春樹堂」と改装されているのもニュースで取り上げられていた。
 
 
 今日はちょうど休みだったので、午前中のうちにお茶の水まで足を運んでみた。ニュースで見た通り、「村上春樹堂」となっていた。ちょっと興奮してiPhoneで何度か撮影。同じように撮影する人が、けっこういた。
 これを見るためだけに来たのだが、当然ながらすぐに見終わってしまった。せっかくだからと話題の新刊を購入。三省堂限定かどうかわからないが、フリーペーパーが付いてきた。中には「村上春樹 都内巡礼MAP」なるコンテンツもある。
 ちょっと得した気分である。
 

 村上春樹との出会いは、高2の時に読んだ「ノルウェイの森」だった。
 今思い返すと大したストーリーもない本だが、当時は衝撃を受けつつ読破した。
 以来、村上春樹の本を読むようになった。おそらく大半の著書は読んだだろう。

 が、よくよく気づいたのは、彼の本を買ったことがないということだ。今まで友人から借りたり、図書館で借りたりで済ませてきた。だから今回の新刊「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が初めて購入した本ということになる。 

 村上春樹の文章は、実はあまり好きではない。気取った感じがして、昔はそれが良かったのだが、ある時から、何故か鼻につくようになった。以来、村上春樹の本とは一定の距離を置くようになっている。

 と言っても完全に避けるわけでなく、時々、手に取りたくなる。しかし読むと、しばらく見たくなくなる。そんな繰り返しだ。本を購入しなかったのはそのせいかもしれない。

 彼の作品のキーワードの一つは「巡礼」だと思うが、私にとって彼の作品を読むのは、数年に一度の巡礼のようなものかもしれない。
 今日購入したばかりでまだ読んでいないが、久しぶりに、村上春樹の気取った文章に浸かって、私の巡礼を果たそうと思う。

2013年4月11日木曜日

ヘンな社会人:金魚の糞

 職場に「金魚の糞」タイプの人間がいる。
 いつも、特定の職員に執拗について回っている。
 その金魚の糞をNと呼ぼう。

 Nの行動があまりに露骨なので、他人事ながら、しばらく観察してみた。
 見れば見るほど異様である。現代社会の歪みを見ているようだ。
 その行動を列挙してみよう。
 ちなみに、Nがついて回る対象職員をFと呼ぶ。

・一緒に休む
 Fの休みに、自分の休みを合わせている。一ヶ月の勤務表を見ると、二人の休みがキレイに一致しているのがわかる(どうやってFの休み希望を調べているのかわからない。知らないほうがいいかもしれない)。
 また休日だけでなく、勤務中の食事時間、休憩時間までFに合わせようと画策する。例えば昼の休憩時間の間近、Fがまだ忙しくて休憩に入れない時、Nはどうでもいい仕事をさも緊急そうな顔で始め、Fが休憩に入るのを待っている。またリーダーが決めた休憩の順番さえも、いろいろ理由をつけて変えさせる。Fと休憩するためだ。

・一緒に残業、一緒に退社
 Nは自分の仕事が終わっていても、Fがいる限り、職場に残る。特に何もしていないが。
逆にFが定時で帰るときは、さっさと帰る。たとえ誰が残っていても。

・いつも隣で待機
 Nは空き時間ができると、Fのとなりに着席。Fの仕事を黙って見ている。そのままの姿勢で、軽く10分は動かない。

・いつもサービス
 Fが具合が悪い時は、Nが付きっきりになる。
 Fが欲しいと言うものは何でも、Nが買ってくる。例えばジュースとか、おにぎりとか、胃薬とか。今、仕事中だよねえ?
 また、Fの仕事に手が必要なとき、必ずNがサポートに入る。他の職員が手を必要としているとき、Nは決して手を出さない。

 もちろんだが、NはFのそばをついて回るようにと指示されているわけではない。
 全然そんな必要はない。
 ちなみにNとFは異性どうしである。これは単純に、NがFを好きだからと理解すればいいのだろうか。が、ここまで露骨な行動をしていいものかと心配になってしまう。

 それに、仕事の仕方があまりに幼稚ではないか。20代の若者ではないのだ。やりたいことだけします、で通っていいものだろうか。
 まあ、現に通っているから仕方ないのかもしれないが。

2013年4月9日火曜日

それって本当に「神の臨在」?

 プロテスタントの新興教派に、「ペンテコステ派」というのがある。「聖霊派」とか「カリスマ派」とかも同じような系統だ。それらの派の特徴は、礼拝で歌われる歌によく現れている。
 いわゆるオーソドックスな聖歌・賛美歌ではなく、新しく作られたコンテンポラリーな曲を好んで歌うのだ。ロック調だったりバラード調だったりで、若い人向けと言えるかもしれない。

 初めに断っておくが、礼拝で歌われる歌(賛美という)に、これでなければならないという指定は、聖書にはない(強いて言うなら、神をあがめる歌詞であるという条件があるだろう)。

 前述の新興教派は、いわゆる「体験」を重視する傾向がある。例えば神の奇跡を見るとか、病気が神によって癒されるとか、神の存在を「感じる」とかの体験だ。

 それらの体験は悪いものではなく、かえって良いものであろう。神が今日も実際に働かれるという証明にもなる。

 が、彼らの問題点は、その体験がどれだけあるかで、その人の信仰とか敬虔さとかが測られてしまうところにある。つまり体験が多ければ「霊的」、少なければ「まだこの世的」ということだ。

 だから年配でプライドが高いクリスチャンなどは、後輩に負けられないなどの理由で、ことさらに体験を求めるようになってしまう。
 いわゆる「体験」は神から一方的に与えられるもので、人の努力によるものではないはずだが。

 そんな「体験主義」の新興教派が常日頃から口にする言葉の一つが、「神の臨在を感じる」である。簡単に言うと、神様の存在感をリアルに感じる、ということだ。

 その存在感がもたらすのは「あたたかさ」とか、「心の平安」とか、「喜び」とか、そういったポジティブな感情だ。
 そして「霊的」な人ほどその存在感を強く感じられる、というのが、暗黙の了解的に理解されている見解だろう。
 だから「神の臨在」を感じるということは、彼らにとって重要なステイタスとなる。私はいつも神様を感じています、だからいつもポジティブです、だからとても「霊的」です、というわけだ。

 その「神の臨在」をもっとも感じやすいのが、冒頭に書いた礼拝賛美の部分である。
 賛美を歌う中で、「神の臨在」に包まれる。だから賛美をする前後で、自分自身がまったく変えられている、という。

 それは、まったく理にかなわないことではない。
 聖書には、神は賛美の中に住まわれるという表現があるし、ソロモンの神殿奉献の時などは、神の栄光が強く現れて、祭司たちが立っていられなかったというエピソードもあるからだ。

 が、「神の臨在」をいつも感じるのが霊的なクリスチャンで、そういう人たちはいつもポジティブな感情でいられる、という理想像みたいなものが彼らの心を支配しているとしたら、それは大きな間違いにつながる。
 何故なら、いつも「神の臨在」を感じていなければならない、いつもポジティブに振舞わなければならない、という神経症的心理が、何でもかんでも「神の臨在」と決めつけてしまうことになりかねないからだ。

 彼らは、賛美を繰り返し歌っている中で、気分が高揚してきた、気が晴れてきた、不思議と心が安らかになった、等と言う。それはそれで素晴らしいことだ。が、一般に音楽療法の分野では、歌を歌うことでストレス・ホルモンであるコルチゾールが低下することが証明されている。また歌や楽器の音色で、脳内麻薬が分泌されることも証明されている。この脳内麻薬は気分を高揚させ、不安感を払い、ポジティブな感情を増加させる。

 そのような事実を無視して、賛美したから「神の臨在」に包まれた、と言うのはあまりに安直すぎる
 それが自己完結していればまだいいが、それを教義的な事実として他者にも広めるとしたら、オレオレ詐欺ならぬ神神詐欺みたいなことになってしまう。

 ペンテコステ派の礼拝に出席すると、舞台上の賛美奉仕者たちや、舞台近くの一般信徒たちは、だいたい皆同じように見える。手を挙げたり踊ったり、笑顔だったり涙を流したり、目を閉じて眉間にシワを寄せ、「今、私は神の臨在を強く感じてます」的な表情をしたりだ。
 それは、事実かもしれない。
 が、そこに「霊的」に見られたいという願望があったり、集団心理が働いていたりすることを、完全に否定することはできない

 私の教会はペンテコステだった。私は反省を込めてこれを書いている。
 どうか体験にこだわるだけでなく、正しい聖書理解、正しい信仰生活というものが何なのか、各個人がよくよく注意して吟味してほしいと思う。

 もちろん、私は日本中のペンテコステ教会を見て回った訳ではない(彼らの代表者が集まる大会には何度か参加したことがある)。だから全てのペンテコステがそうだと言うつもりはない。
 というより、そう言わずに済むことを願っている。

2013年4月6日土曜日

チャーチスクールは「経営」するものではない

 昨日に続いてチャーチスクールの、今日は経営について書きたい。

 チャーチスクールの収益は、基本的に生徒からの納付金(授業料や施設利用料など)のみである。別途、寄付金や献金などもあるが、昨日書いたように、これらがメインであってはいけない。

 各種公立学校、私立学校との違いは、国からの補助金が一切受けられないという点にある。無認可なのだから、当然と言えば当然である。私塾や予備校と同じだ。

 私立学校の収入の内訳は、国からの補助金が3割、生徒からの納付金が6割、同窓会等からの寄付金が1割程度となっている。それで生徒が数百人いて、ようやく経営が成り立つ。が、少子化の進行で、経営はますます困難になっていくと言われている。

 チャーチスクールはもっと深刻である。国からの補助金はなく、生徒は多くてせいぜい50〜60人程度。その分授業料を高くできるかと言うと、できない。なぜならチャーチスクールに子どもを入れたいのはクリスチャン家庭で、彼らは自分の教会の礼拝で献金しているし、場合によっては(聖書の解釈に従って)全収入の十分の一を、礼拝とは別に献金しているからだ。
 中流以上の家庭であっても、教育費にかけられる額は、どうしても制限されてしまう。
 それに、中流以上の家庭というのは、教会では珍しい存在だと思う。教育費をほとんど払えない家庭の方が多いというのが、私の経験だ。

 以上のことから、チャーチスクールは構造的に経営難なのである。
 成立させるためには、何かを削るしかない。そして現実的に削りうるのは、人件費しかない。
 つまり基本的に教師は、無給か、有給でも薄給になる。
 が、それも生徒が50人60人いればの話だ。多くのスクールはそこまで集められない。ほとんどの教師が無給状態にならざるを得ない。
 

 私は、そもそもチャーチスクールは「経営」するものではないと思っている。

 チャーチスクールとは、文字通り「教会の学校」だ。だから教会がスクールを支えるというのが、最も健全な形だと私は信じている。
 多くの教会は、日曜以外は礼拝堂を使わない。だから平日はそこをスクールとして使えるだろうし、平日動ける牧師や信徒たち(多くは主婦であろう)が、教師として働ける。
 そうすれば、スクールの運営にはほとんどお金がかからない。生徒の人数にも左右されにくい(むしろ生徒は少ない方がいい)。教師として働く信徒たちにも、少なからず給料を払うこともできるだろう。

 私は、これがチャーチスクールの本来あるべき姿だと思っている。

 が、現在、一部のチャーチスクールに「学校化」を目指す動きがある。教会と切り離して、独立した経営を成り立たせようというのだ。
 その動機には、「素人が経営するチャーチスクールになんて行かせられない」という内外からの批判に応えてのものがあるのかもしれない(それはそれで一理ある)。
 が、そのためにチャーチスクールとしての在り方まで変えようとするのは、浅はかというものだ。

 いずれにせよチャーチスクールの独立というのは、上記の通り、構造的に不可能に近い。
 それに学校化を目指すなら、初めから私立のミッションスクールを作れば良かったはずだ。

 スクールをどうするか、という議論の前に、「自分たちはいったい何がしたいのか」を明確にすべきだと思う。

※この記事を読むと、私がチャーチスクールについて肯定的に書いているように思われるかもしれないが、私は現在、チャーチスクールを否定的に考えている。それについては次回に書きたい。
 

2013年4月5日金曜日

行ってはいけないチャーチスクール

 チャーチスクールに通うというのは、日本では非常にマイノリティな道である。
 だからそこへ子どもを入れようかどうしようかと迷っている保護者の皆さんも、マイノリティだと思う。
 ゆえに、私がここに書く内容を必要とする人も、ごく少数であろう。が、私は書かずにいられない。元チャーチスクール教師としての反省も込めて、これからチャーチスクールを利用しようとする人々へ警告を発することは、私の義務だと思うからだ。

※ここで言う「チャーチスクール」とは、各種クリスチャンスクールも含め、「教会あるいはキリスト教団体が運営する」「聖書教育+一般学習を施す」「文科省の認可を受けていない」スクール全般を指す。

 あなたがお子さんをチャーチスクールに入れようと考えているなら、そのスクールの代表なり入学担当者なりに、以下の点を尋ねることを勧める。

・授業料の詳細を聞き、値引きできるか聞いてみる
 まず、授業料がいくらなのか明示していないとしたら問題である。その理由を聞いて「お金は二の次、大事なのは信仰です」とか答えたらトンデモ率倍増である。真面目な顔して、信仰と言えば煙に巻けるとあなたをバカにしている恐れがある。
 また、おそらく授業料以外にも払うものがいろいろあるはずだから、結局月額いくらなのか、確認しなければならない。
 そのうえで、「そんなに払えないから値引きしてくれ」と言ってみる。まともな学校なら、値引きなんてしない。が、「あなたのお子様の信仰のためですから」とか言って真剣に値引きを考え始めたら、やはりトンデモである。親身に見えるかもしれないが、騙されてはいけない。単に生徒数を揃えたいだけだ。それに家庭によって支払額を変える、差別的運営であることを露見してしまっている。

・会計報告を見せてくれと言ってみる
 会計報告は、各種法人であれば開示義務がある。が、いわゆる牧師などによる個人経営の場合、確定申告の義務はあっても開示義務はない。
 とはいえ、複数の児童を預かって多額のお金をもらう「学校」形態である以上、法人格に準じた会計報告をすべきだ。
 つまり、法人であろうとなかろうと、会計報告がないスクールはアウトだ。あるいはあっても、数日のうちに出せないとか、入学前だから見せられないとか、いろいろ理由をつけて開示しないスクールも同様にアウトである。お金の扱いに不透明な、いい加減なところがあるから見せられない可能性が高い。(お金の扱いが明確でないというのは、もちろんキリスト教界においてもご法度である。)
 また、会計報告があっても、それで満足してはならない。内容に注目してみる。結果的にトントンな収支であっても、収入欄に寄付金とか、献金とか、支援金とか、いわゆるイレギュラーな入金が多い場合は、要注意である。ちゃんと計算してみて、そのイレギュラー入金がなければ赤字になっているとしたら、そのスクールの経営は明らかに不健全である。寄付金頼みの難破船スクールである。

・スクールの理念は何ですかと聞いてみる
 これは、事前にホームページ等で理念を確認し、書き留めておいたらいい。
 代表者が、理念を聞かれて口ごもるようならアウトだ。あるいはすらすら答えても、全然関係ないことを言えば同様にアウトである。つまり目指すものが曖昧で、とりえあず運営したい、卒業後の生徒の進路なんて関係ない、というのが本音なのである。

・在校生の学力、社会性を確認する
 学力の判断は難しいが、一般的に、チャーチスクールで平均的学力を維持するのは非常に難しいということは前提として考えるべきだ。運営者らがその事実を正しく認識しているなら、何らかの対策をしているはずである。例えば中学生ならV模試やW模試を受けさせているとか、高校生なら全国実力テストを受けさせているとか。
 自分たちの不足を認識するというのは、教育者として必要な資質である。が、「信仰が伸びれば学力も上がります」とか「神様が助けてくれます」とか真顔で言ったら信用してはいけない。自分たちの責任を平気で放り投げているだけだ。
 生徒たちの社会性は、簡単に見極めることができる。学校見学の際、休み時間を狙って教室を見に行けばいい。あなたが無言で入っていき、それでも生徒たちが元気よく挨拶してきたとしたら、彼らは非常によく教えられている。が、あなたのことをまったく無視するようなら、あるいは気づいても声をかけてこないようなら、あなたのお子さんがそのスクールでコミュ障に育つ可能性は高い

・卒業生の進路を聞いてみる
 この場合、有名大学や企業に進んだごく一部の例に騙されてはいけない。フタを開けたら神学校進学とか海外留学とかが大半だったりする。非常に狭い進路であることが多い。
 また、高校生に関して高卒認定試験に合格すれば大丈夫ですと豪語したら要注意だ。高卒認定試験は「高校卒業程度の学力」を証明するだけであって、高卒資格ではない。そのスクールの高校を卒業しても、進学するのでなければ、あなたのお子さんは中卒程度ということになってしまう。逆にそのへんをちゃんと説明してくれるスクールであれば、ある程度誠実ではある。

・最後に
 キリスト教団体は誠実でしっかりしている、というのは残念ながら幻想でしかない
 一部にはそういうところがあるかもしれない。が、私が安心してお勧めできる団体は、数えるくらいしかない。
 人は、口では良いことをいくらでも言えるものだ。誠実な、真摯な、真面目な風に装うことは、誰にでもできる。クリスチャンとしてどうかと思うかもしれないが、「騙されているかも」と疑ってかかるくらいがちょうどいいと私は思っている。
 お子さんの入学を考えるなら、よくよく覚悟してからにすべきだ。何故ならあなたの決断の結果、子どもがどうなるか、その責任はあなた自身にあるからだ。
 あなたが信頼したスクールも、牧師も、教師も、誰も責任をとってくれなどしない

追記)
 上記のチェックリストを実際に聞くことが、失礼に当たるのではないかと心配する人がいるかもしれない。が、そんな心配は無用だ。
 なぜならクリスチャンは「愛・平安・喜び・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」といった心の資質を備えることを目標の一つとしているし、彼らリーダー的立場にある人々は、もうすでにそれらを兼ね備えているはずだからだ。あなたが多少無礼な態度で接しようとも、彼らはきっとあたたかく、優しく受け入れてくれるだろう。

2013年4月4日木曜日

「肉食動物」が職場の雰囲気を決める

 この4月、新しい環境に入ったという人は少なくないだろう。
 新しい学校とか職場とか、いずれにせよ未知のコミュニティであろう。そこに新しく入ろうとする時、人は多少のストレスを感じるのではないか。
 
 新しいコミュニティでうまくやっていけるかどうかは、そのコミュニティの種類とか内容とかよりも、そこにいる人間たちの種類にかかっていると私は思う。
 だからそこの人間たちの種類を正しく見分けることは、そこで生きていくうえで少なからず有用ではないかと思っている。
 というわけで私なりに、人間の分類方法を考えてみた。
 これは私の職場を参考にしているので、学校などよりは、仕事場の方が適用しやすいかもしれない。
 
 職場でのつき合いに限定して人間を分類する方法として、二つのスケールを用意した。
 一つは「主張の強弱」、もう一つは「自分軸・他人軸」。
 
・主張の強弱
 これは、その人が自分の主義や信念、やり方等をどれだけ主張するか、である。どれだけ人に押し付けるか、と表現してもいい。

・自分軸か他人軸か
 自分の都合を優先するか、他人の都合を優先するか、の指標である。他人軸に行くほど、自己犠牲精神が強いことを意味する。
 
 この二つのスケールを縦軸、横軸にとると、下図のように大きく四つのエリアができる。
 
 
  この四つのエリアのどこに分類されるかで、その人の種類を把握しようというのである。
  対象者の自己主張の強さ、軸の中心という観点で、しばらく観察してみよう。対象者の性質をそれぞれ当てはめていけば、その人がどのエリアに入るかわかる。

 四つのエリアは、私の分析だと以下のようになる。それぞれ勝手にネーミングしてみた。

 主張(強)+自分軸=肉食動物
 主張(強)+他人軸=おせっかい
 主張(弱)+自分軸=一匹狼
 主張(弱)+他人軸=草食動物

 
 
■特徴
・肉食動物
 恐竜で言えばティラノザウルス。我が道を突き進むだけでなく、周囲を巻き込み、食らい尽くしていくタイプ。自分のやり方が正しいと微塵も疑わず、周囲にもそれを押し付け、反対者をあの手この手で退けようとする。
 味方であれば心強いが、敵であれば最悪。
 
・おせっかい
 
 下町のおばちゃんタイプ。ぜんぜん関係ないことに口をはさみたがり、良かれと思うことを人に押し付ける。世話好き。基本的にいい人だが、時におせっかいが過ぎて周囲をイラつかせることがある。
 
・一匹狼
 自分中心に仕事をするが、それを他人に押し付けようとはしない。基本的に群れない。争いごとを避ける傾向があるが、自分のテリトリーを守るためなら戦う。一見安定していて頼もしいが、頼っても助けてくれない。
 
・草食動物
 人畜無害ゆえ、他人に食い尽くされる運命にある子羊。社畜としていいように酷使されるが文句も言えず、心身症を発症して休職を余儀なくされても無抵抗。どんな時も笑っていれば大丈夫と自分自身に言い聞かせながら、ラオウに殴り殺されるかわいそうな村人。
 
■分析
 自分自身も含め、職場の人間を分類すると意外に面白いかもしれない。
 大半が「おせっかい」と「草食動物」で、「一匹狼」が少々、という職場なら非常に平和と言える。運よくそこにいるのなら、悪いことは言わない。決して辞めてはいけない。
 
 しかし肉食動物が一人二人いるだけで、雰囲気はガラリと変わる。通常なら仲良くし合える「おせっかい」や「草食動物」どうしまでギクシャクしてしまい、殺伐感は肌にヒリヒリ痛いくらい。
 もしも職場が肉食動物だらけのジュラシックパーク状態であるなら、一刻も早く脱出することを勧める。大丈夫、あなたが悪いわけではない。あなたの運が悪かっただけだ。
 
■結論
 以上の結果から、職場の雰囲気を決めるのは肉食動物タイプの数によると言える。草食動物がいくら集まったところで、たった一匹の肉食動物の存在ですべてが崩壊するからだ
 
 以上、この分類法が、少しでも何かの役に立つことを願うばかりである。

2013年4月3日水曜日

家計改善の一つの方法

 家計を改善したいと、誰もが思っているだろう。
 黒字にしたいとか、黒字額を増やしたいとか、うまく運用したいとか。

 家計を良くする方法は、単純に次の2つだ。
・収入を増やす。
・支出を減らす。

 当たり前である。誰もが知ってる。が、実行するのは難しい。

 収入は、そう簡単には増えない。
 年に一度の定期昇給か昇進以外に収入を増やすとしたら、サラリーマンなら副業とか転職とか起業とか考えるしかない。が、副業にはある程度の時間とエネルギーが必要だし、副業禁止規定があると税務上問題になる。転職や企業はうまく行くとは限らない。
 それに、収入を増やすことは、もちろん良いことではあるが、根本的な解決にはならない
 なぜなら、人はお金があればあるだけ使ってしまう習性があるからだ。

 たとえば年収があと100万増えたら、あるいは倍になったら、あるいは3倍になったら、生活がもっと楽になるのにと思う。その予測はある程度までは正しい。が、年収が増えても「お金がもう少しあれば」という心理状態がほとんどまったく変わっていないのは、多くの人が経験上知っているのではないだろうか。
 これは目の前にニンジンをぶら下げられた馬が延々と走り続けるのに似ている。

 人はどうしても、年収に見合うか、それより少し上の生活をしようとする。そしてその生活には、削れるものなど一つもないと思っている。

 常勤職員として働いている人が、この心理状態から抜け出すのは非常に困難だ。
 安定した企業であれば定期昇給していくし、昇進もあり得る。収入は上がりこそすれ、下がることはほとんどない。従って生活レベルも上がる一方だからだ。

 私が勧めるのは、(多くの経済学者も言うように)収入を増やす前に、支出を減らすことだ。
 実はこれが、家計改善の唯一の方法だと私は思っている。

 私はどうしてもやりたい仕事があって、年収が半減する転職をしたことがある。
 当然、それまでの生活を維持することなど不可能だった。それどころか限界まで切り詰めなければ、生活自体が成り立たない状況だった。
 私は車を手放したり、インターネットを解約したり、定期預金を解約したりと、徹底的な節約生活を始めた(そうせざるを得なかった)。

 その中で気づいたことがいくつかある。

・どうしても必要なものはわずかである
 たとえば車は、ほとんど週末しか乗っていなかった。それも毎週ではない。緊急時にあったら便利だと思っていたが、そんな事態はなかったし、あっても方法は他にもある。

・行政のサービスを使わない手はない
 行政は実はいろいろなサービスを提供している。たとえば健康保険料は、支払えない旨を申請すれば全額免除される場合がある。
 子どもがいれば簡単な申請一つで就学支援金がもらえるケースもある。
行政は基本的に申請主義だ。申請しなければ何もしてくれない。そして彼らは積極的な広報などしない。だからサービスがあっても、その存在を知らないということが結構ある。

・クーポンの類は最大限利用すべきだ
 多種多様なクーポンが存在するが、それらは大概、利用するのが面倒くさい。会員登録とか、空メールを送るとか、使えるクーポンを探すとか、切り取るとか、手間がかかるものが多い(実はそういう風に作られている)。が、本当に必要な買い物の時は、利用しない手はない。

・本当に必要かどうか、買う前に吟味するようになる
 ないお金を出す訳だから、どうしても慎重になる。そしてそれは良い結果をもたらすことが多い。
私は欲しい物がある時、まずはグッと堪えて、ネットでレビューを見たり、最安値を探したりしながら時間を置いて、自分の購買意欲が本物かどうか見極めるようにしている。すると案外、買わなくて良かったと思うことが多い。

 細かいポイントはいろいろあるが、要は、「必死」であることが重要だ。背水の陣だからこそ、お金に関するいろいろを一生懸命調べるし、勉強する。そして本当は必要でないものを切り捨て、使えるサービスや情報を最大限活用するようになる。

 そのハングリーさは、安定収入があって徐々に昇給していく生活をしていると、なかなか持つことができない。
 結果、省ける無駄にも使えるサービスにも気づかない、ある意味怠慢な暮らしを惰性で続けてしまうことになる。
「お金がもう少しあったらいいな」とは思っても、本気でそれに取り組めない。

 同僚の何人かは夫婦共働きで、持ち家があったり車があったり、不自由ない生活をしているように見える。が、彼らの口癖は「お金がない」である。
 限界ギリギリの節約生活時代の私には、彼らが毎月払うお金のほとんどが、本当に必要なのかと疑わしく見える。
 が、彼らにはそう見えない。

 私は今はそれ相応の年収があるが、この節約時代の発見は、一つの財産だと思っている。

 決してオススメできる方法ではないし、本当はそんな必要もないのだが、この「節約せざるを得ない生活」を送ることは、ある程度の「気づき」をもたらしてくれると思う。
 もしそうする余裕と暇があり、それに意義を見出す方がいるならば、試してみる価値があるかもしれない。

 ちなみに私は、もう二度としようとは思わない。

2013年4月1日月曜日

人はどうやって成長するのか


 この記事は成長について、「一定量の学習=成長」と定義している。確かに学習によって「できないことができるようになる」のは成長だと思う。

 が、私が「成長」と聞いてすぐ思いつくのは、人格面の成熟である。これは学習量がどう絡むのか、いまいち判然としないのではないか。

 例えば私には姉がいるが、幼い頃、何をやっても姉に勝つことができなかった。オセロも将棋も駆けっこも全戦全敗。悔しくて腹立たしくて、よく泣いた。
 では今でも私が負けて泣くかというと、泣かない。それは、忍耐力がついたからだろうし、「負けることもあるさ」と考えられるようになったからだろう。この場合、私は人格的に成長したと言えるだろうが、どれだけ学習したのか、よくわからない。

 もう一つ例を挙げると、私は若い頃、子どもの泣き声が嫌いだった。電車の中で延々と泣かれてよくイラついたものだ。が、自分に子どもができるとイラつかなくなった。赤ん坊は泣くものだし、どうしても泣き止まないこともあると知ったからだ。
 この場合、私は寛容さを得たことになる。人格的な成長だろう。単純にある事実に気づいただけなのだが。

 という訳で、人は学習によるスキル的な成長もするだろうが、何かの経験やキッカケで、人格的な成熟もしていくのだと思う。
 どちらが大事か選ぶとしたら、私は後者だと思う。

 銀行のATMが混んでいる時、並んでいる老人が「早くしろよ!」と怒鳴り散らす場面に遭遇することがある。何か特別な事情があるのかもしれない。が、それにしてもあまりに未成熟ではないか。少しは他人の事情を考慮すべきだと思う。
 そういう人が実はすごいスキルを持っていて、バリバリ仕事ができるとしても、私はお近づきになりたくない。

「督促OL修行日記」という本が話題になった。新卒で債権回収部署に回された女子が、凄惨な職場でいかに「スゴ腕」と呼ばれるまでになったかを綴った本だ。
 本人はユーモアを交えて書いているが、そのストレスやプレッシャーは、私の想像をはるかに越えていると思う。誰にでもできる経験では決してない。が、彼女はそこで、他では得難い成長を遂げたはずだ。そしてその成長には、人格的な部分も少なくなかったはずだ。

 彼女のことは全然知らないが、もし質問できるなら、「債権回収の仕事ができて良かったですか、それとも後悔していますか」と尋ねてみたい。
 これは私の想像だが、きっと「良かった」と答えるのではないだろうか。

 苦しんだり悩んだりするのを勧めるつもりはない。避けられるのなら、私だって避ける。
 が、それを通してでしか得られないものがあるのは事実だ。