「素人経営のチャーチスクール」という誤解

2013年4月23日火曜日

教育

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 チャーチスクールは素人が経営しているからどうなのか、問題ではないのか、という意見を読んだり聞いたりすることがある。

 その意見はもっともで、どこも間違っていない。たしかに素人が何とか頑張って教育しようとしているし、いろいろ問題もある。

 だからそんな素人経営スクールに子どもを託すなんてできない、という結論になるのは当然のことだ。それでもあえてそこに入れようとする親は、相当なポリシーの持ち主だろう。明らかにマイノリティだ。

 という認識の上で書かせてもらうが、チャーチスクールをいちいち「素人が経営している」と批判的に書くのは、根本的な理解の違いにあると私は思っている。

 もともとチャーチスクールは、親が子どもの教育に責任を持とう、自動的に公立学校に入れるのでなく、子どもにとって何が最善なのか熟考してからにしよう、という発想が先にあったはずだ。
 その結果、自分の子どもは自分で教えたい、というホームスクール精神を持った人たちが現れ、それが同じ教会の信徒どうしだったり牧師が含まれていたりで、じゃあ教会でそれをサポートしていこうよ、という流れが起きた。
 それがチャーチスクールの原点だと私は理解している。

 だから、チャーチスクールをしているのは当然みんな親であって、大概みんな素人なのだ(たまたま教員免許を持った人がいるかもしれない)。
 それに、いわゆる「経営」はしていない。中には初めから経営視点で何とか回そうとする教会があったかもしれないが、少なくとも私の教会は、収益を目指した経営はしていなかった。
 だが教会がサポートする以上、親でない信徒が関わることもあるし、経費もかかるから会計も必要になる。カッコつけてスクール名なんて掲げるから、それなりにスクールを経営しているようにも見えるだろう。

 が、本質はそこではない。
 教会のもと、いくつかの家庭が支え合いながら、我が子を教育していく。
 それが本質だったはずだ。

 だから素人経営ウンヌンという批判があるのは、チャーチスクールはそもそもそういうものなのだという認識がないからではないかと思う。物理学者に向かって、あなた哲学の素人でしょうと批判するようなものだ。

 もう一つ、素人経営がわざわざ取り沙汰される理由は、他教会の子弟を受け入れているところにあると私は思っている。

 教会の信徒たちが、自分たちの子、つまり教会の子を教育しているだけなら、特別批判されることもないだろう。なぜなら外部に向けて生徒募集することもないし、そもそもスクールの存在を教会外に広報する必要もないからだ。

 が、他教会の子弟を受け入れようとする段階で、そのスクールはより「スクール」らしくならなければならなくなる。
 公共性が求められ、授業料やら公的書類やら何やら、形を整えなければならなくなる。
 するとどうしても「経営」という視点が必要になる。そして我が子を教えたかっただけの親たちが、「教師」にならなければならなくなる。
 結果、「素人経営のチャーチスクール」が出来上がる。

 だからすべてのチャーチスクールにとって、他教会の子弟を受け入れるか否かは、大きな転換点だったはずだ。

 単一家族で完結するホームスクールか、複数家族で助け合うホームスクールか、はたまた自教会で完結するチャーチスクールか、他教会を受け入れるかチャーチスクールか、あるいは公教育か。
 子どもの教育の選択肢はいろいろあっていいと思うし、各自が信じた道を行けばいいと思う。

 もちろんその結果、子どもがどうなるかは(昨日書いた通り)別問題だが。

追記)
 公教育に子どもを出さないのは義務教育違反だ、という批判がありそうだが、それについては私にも意見がある。また次に書きたい。

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