ダメクリのススメ

2013年4月28日日曜日

キリスト教信仰

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「ダメクリ」とは「ダメなクリスチャン」という意味である。私の勝手な造語だ。

 何がダメかと言うと、罪を犯すとか不正を働くとかそういう意味のダメではない。もっと個人的なレベルで、たとえば教会の礼拝に遅刻するとか、サボるとか、奉仕に協力しないとか、そういう意味でのダメさだ。どちらかと言うとクリスチャンとしてダメというより、その教会にとって使えないクリスチャン、という意味合いだろう。

 決してお勧めするわけではないが、あるケースにおいては、ダメクリになることは有用かもしれない。

 私はどちらかと言うとイイ子ちゃんに見られたい方で、礼拝などは毎週出席したいし、時間厳守で行きたいし、献金もちゃんとしたいと思っている。
 が、昨年の教会問題以来、ストレスフルな状態だったのもあるし、一方でいろいろな見方を学べたというのもあり、教会での礼拝を絶対視し過ぎてもいけないなと思うようになった。だから仕事が忙しかったり急用があったり、実家に帰ったりする時などは、教会の礼拝を欠席するようになった。そういう時は家でのんびりディボーションしたり、賛美したりで過ごすこともある。それで特に罪悪感を感じることもない。

 日曜礼拝を守るのはクリスチャンとして常識だ、という批判がきそうだが、そう批判したい人はやや器量や視野や見識が狭いのではないかと思う。以前の記事でも書いたが、聖書が礼拝についてどう規定しているか、自身で学ぶべきではないだろうか。

 もちろん、私は教会での礼拝を否定する立場ではない。それを妨げる特段の用事がないなら、是非出席すべきだと思っている。
 そのうえで、教会での礼拝を絶対視すべきではないと言いたいのである。

 礼拝を欠席したり、少し遅刻してみたり、奉仕の誘いを断ったりするのは、私のもともとの基準から言うと、かなりのダメクリである。
 が、それを簡単にダメクリと断罪するのは(言葉が適切かどうかわからないが)、教会至上主義というか、律法主義というか、そういう背景があるような気がする。

 礼拝には必ず出席すべきだ、そうしないのは不信仰だ、というのは残念ながら思考停止の極論というものだ。まるで天国に学校みたいな出席簿があって、「あなたは礼拝に何日欠席、何回遅刻しました。だから皆勤賞はあげません」みたいなことがあるかのようだ。そんな天国なら、私は行きたくない
 

 ダメクリを勧めるわけではないが、時にそうすることによって、その教会を知ることができると思う。
 あなたを断罪する教会なら、そういう教会なのだ。あなたを個人的に断罪するクリスチャンがいるなら、そういうクリスチャンなのだ。
 べつに断罪し返す必要はないが。

 私たちは健全なところにいるべきだ。友が悪ければ自分も悪くなるし、逆もまたそうだ。
 健全な教会にいなければ、健全なクリスチャンでい続けるのは難しいし、そうであるなら未信者の方に何の良い影響も与えられない。

 私は医療従事者だが、災害時に優先すべきは自分自身の安全確保だと言われている。
 なぜなら自分が負傷してしまったら誰も助けることができないばかりか、自分が助けられる側になってしまって仲間に迷惑をかけるからだ。

 自分自身がどういう状態であるのか、常にチェックが必要だ。それは自己中心になれということではない。むしろ逆だ。
 そのためにダメクリになってみるとしたら、それは本当はダメクリではないのだろう。

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