希望は、また与えられる

2013年4月21日日曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 私はこのブログで、キリスト教の信仰とか礼拝とか愛とかについて、キリスト教会への批判を込めながら書いてきた。

 クリスチャンの中には、それを快く思わない人々もいるかもしれない。特にニセ牧師Mとか、インチキ校長Gとか、その関係者らはそうかもしれない。

 が、私は本気だし、書かなければならない、訴えなければならないと強く思っている。
 それは本来、特定の個人を批判することではないかもしれない。が、キリスト教とかクリスチャンとかがこれ以上世間から失望されない為には、間違っている人々の間違いは間違いだと言わなければならないと思う。

 例えば「政治家」と聞くと、何だかお金にだらしない、信用できないというイメージを持たれやすい。が、そういう人々もいるだろうが、そうでない、真面目に働いている人々だっているはずだ。それなのに全部を一括りにして、「政治家はダメだ」と言うのは乱暴な話だ。
 それと同じように、クリスチャンだっていろいろな人がいて、トンデモもいれば真面目な人もいる。それを一部の(一部かどうかはわからないが)トンデモのために、全部がトンデモにされるのは、私としては避けたい。

 そういう訳で私は、クリスチャンたちの間違っている点は間違っていると言いたいと思う。
 その目的は、こき下ろして潰してやろうということでは決してない。
 かえって正しいこと、良いことに目を向けてほしいと思っている。

 かくいう私も間違う人間だし、いつも正しいことができるわけではない。
 いつも正しくありたいとは願っているが。

本題
 いつもネガティブなことを書いているが、今日はポジティブなことを書きたい。

 ちょうど一年前、私の教会で問題が発覚し、解散へのカウントダウンが始まった。人生の多くを捧げてきた教会とチャーチスクールが、なくなっていくのを目の当たりにした。

 私は人生って何だろうとか、神って何だろうとか、そんなことばかり考えるようになった。全て無意味だったと思った。他の教会の方々から「無意味だったなんてことはありません」と励ましてもらっても、変わらなかった。

 私はチャーチスクールで、子どもたちに接するのが好きだった。授業だけでなく、いろいろ活動したり、遊んだり、話したりして、一緒に問題に取り組んで成長していけることを喜んでいた。

 今思うと、そこにもいろいろ課題はあったし、反省すべきこともあった。チャーチスクールに対する批判も、もっと真摯に受け止めるべきだった。

 が、そんなこんなも含めて、私の立っている場所が土台もろとも崩れ去った。教会も、子どもたちとの関係も、それで終わった。
(チャーチスクールだけが分離独立し、以前とは似つかない別モノに変わってしまったのは書いてきた通りだ。)

 私は教会関係の一切から手を引き、普通に働き始めた。長く味わわなかった普通の暮らしだ。それはそれで良かった。毎朝働きに出て、夕方帰る。家族で夕食をとり、いろいろ話して、寝る。平穏な日々だ。

 半年以上、そんな風に過ごしてきた。私も私の家族も、その中で次第に回復していったようだった。
 そしてつい最近、そのチャーチスクールのその後の問題を、あれこれ耳にするようになった。多くはG校長のリーダーシップに関する問題だった。

 多くの生徒がスクールにいられなくなり、去っていった。そして去っていってもどうしたら良いかわからない子たちがいた。

 その子たちの居場所作りの手伝いを、私は今させてもらっている。
 終わってしまったと思った子どもたちとの関係が、よみがえっている。

 何だか不思議なことだ。が、私はとても嬉しい。

 誤解を恐れず書くが、神様は確かに働かれている。神様は私のことを忘れず、導いて下さっている。もちろん私のことだけでなく、神様を求めている人も求めていない人も、神様は愛して導いておられる。

 もうダメだと思っているそのところに、神様は希望を与えて下さる。
 私がもう一度希望を与えられたように。

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