「献身」に逃げるな

2013年4月30日火曜日

キリスト教信仰

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 昨日「献身」について書いたが、また書きたいと思う。
 私は「クリスチャンは全員献身している」という立場だが、今回は一般的な意味での「献身」について書く。つまり「献身」=「教会で直接働く」だ。

 現在、プロテスタント新興教派ではこの「献身」をするクリスチャンが増えている。特に若い世代が多い。
 が、彼らは必ずしも、神学校を卒業して牧師や宣教師になるのではない。どこかの宣教団体で短期訓練を受けたり、教会で訓練を受けたり(それを神学校と称するところもある)、あるいはロクに訓練を受けずに、「教会スタッフ」のような肩書きで働きはじめるケースが多い。

 若者たちが大勢、神様に献身して仕えるのは、基本的に良いことだと思う。
 が、残念ながらあまり良い話を聞かない。

 一つ例を挙げると、ある若者はせっかく入った大学を中退し、海外留学に行った。が、数ヶ月で帰ってきて、そのまま就職したが、数ヶ月で辞めてしまった。そしてまた海外の何かの学校に行ったが、いつの間にか帰国していて、今は教会でスタッフのようなことをしている。
 そんな感じで、何を始めても長続きしない、同じようなことを延々と繰り返す若者たちを、何人も知っている。ケースはいろいろだが、ごく短期間で進路変更した理由を聞くと、「導かれた」とか「道が閉ざされた」とか、都合よく神様のせいにしている(もちろん本当に導かれたのかもしれないが)。

 彼らが何をしたいのか、見ていてよくわからない。彼ら自身にも、きっとよくわからないのではないか。

 そんな彼らが最終的に(本当に最終かどうかわからないが)たどり着くのが「献身」だ。
 神様に献身しますとか、教会に献身しますとかいうことで、日曜礼拝に現れて何かの奉仕をするようになる(平日何をしているのかはよくわからない)。それで有給だったりする。

 いろいろ試すのも、「自分探し」を続けるのも、お金があってできるなら自由にしたらいい。
 自分が何になりたいのかわからない、何になったらいいのかわからない、という不安とか焦りとかも、わからないではない。

 が、他にすることがないからみたいな消去法的理由で「献身」を選ぶのは、私はどうかと思っている。時間が空いているから教会の仕事を手伝います、というのは良いが、それを「献身」とは呼んでほしくない。
 彼らは純粋な気持ちかもしれないが、「献身」をうまく利用しているような気がしてならない。

 先日、アフリカに長期間派遣されていた日本人宣教師の話を聞いた。想像を絶する苦労の連続であった。彼が体験した問題の一つにでもぶち当たったなら、「道が閉ざされた」と言って宣教を諦めてもいいような気がした。

 が、その宣教師は諦めなかった。その理由は何なのか。
 彼は、神様が閉ざした道を無理矢理進んだのだろうか。
「教会スタッフ」を名乗る若者たちにも、ぜひ考えてほしい問題だ。

追記)
 以前の記事「日本のクリスチャンの若者がダメな理由」でも書いたが、上記のような若者の問題は、本人たちばかりのせいではない。彼らを指導する教会の牧師やリーダーたち、また親の責任が大きいと私は思っている。

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