昨日「献身」について書いたが、また書きたいと思う。
私は「クリスチャンは全員献身している」という立場だが、今回は一般的な意味での「献身」について書く。つまり「献身」=「教会で直接働く」だ。
現在、プロテスタント新興教派ではこの「献身」をするクリスチャンが増えている。特に若い世代が多い。
が、彼らは必ずしも、神学校を卒業して牧師や宣教師になるのではない。どこかの宣教団体で短期訓練を受けたり、教会で訓練を受けたり(それを神学校と称するところもある)、あるいはロクに訓練を受けずに、「教会スタッフ」のような肩書きで働きはじめるケースが多い。
若者たちが大勢、神様に献身して仕えるのは、基本的に良いことだと思う。
が、残念ながらあまり良い話を聞かない。
一つ例を挙げると、ある若者はせっかく入った大学を中退し、海外留学に行った。が、数ヶ月で帰ってきて、そのまま就職したが、数ヶ月で辞めてしまった。そしてまた海外の何かの学校に行ったが、いつの間にか帰国していて、今は教会でスタッフのようなことをしている。
そんな感じで、何を始めても長続きしない、同じようなことを延々と繰り返す若者たちを、何人も知っている。ケースはいろいろだが、ごく短期間で進路変更した理由を聞くと、「導かれた」とか「道が閉ざされた」とか、都合よく神様のせいにしている(もちろん本当に導かれたのかもしれないが)。
彼らが何をしたいのか、見ていてよくわからない。彼ら自身にも、きっとよくわからないのではないか。
そんな彼らが最終的に(本当に最終かどうかわからないが)たどり着くのが「献身」だ。
神様に献身しますとか、教会に献身しますとかいうことで、日曜礼拝に現れて何かの奉仕をするようになる(平日何をしているのかはよくわからない)。それで有給だったりする。
いろいろ試すのも、「自分探し」を続けるのも、お金があってできるなら自由にしたらいい。
自分が何になりたいのかわからない、何になったらいいのかわからない、という不安とか焦りとかも、わからないではない。
が、他にすることがないからみたいな消去法的理由で「献身」を選ぶのは、私はどうかと思っている。時間が空いているから教会の仕事を手伝います、というのは良いが、それを「献身」とは呼んでほしくない。
彼らは純粋な気持ちかもしれないが、「献身」をうまく利用しているような気がしてならない。
先日、アフリカに長期間派遣されていた日本人宣教師の話を聞いた。想像を絶する苦労の連続であった。彼が体験した問題の一つにでもぶち当たったなら、「道が閉ざされた」と言って宣教を諦めてもいいような気がした。
が、その宣教師は諦めなかった。その理由は何なのか。
彼は、神様が閉ざした道を無理矢理進んだのだろうか。
「教会スタッフ」を名乗る若者たちにも、ぜひ考えてほしい問題だ。
追記)
以前の記事「日本のクリスチャンの若者がダメな理由」でも書いたが、上記のような若者の問題は、本人たちばかりのせいではない。彼らを指導する教会の牧師やリーダーたち、また親の責任が大きいと私は思っている。
ざっくりとした感想ですが、教会に家族ぐるみで来ている子どもたちは甘やかされてる感じの子が多い。どこがどのようにと言われると返答に困るのだが、教会に行き始めたころからそんな風に感じていた。
返信削除家族に守られ、教会で甘やかされ・・・
教会につながってさえいれば他のことは大目に見る親御さんが多いのか?
そうでないことを願う。
俺は教会に子供たちの連れて行っているが、甘やかしているつもりは毛頭ない。
削除教会に来ているだけで他のことは多めに見る?なんやそれ。
どこのどいつか知らんが、子育てや教育をなめとるんやないか?
本物の信仰もって生きていくんはあまったるいもんやない。
匿名様
返信削除コメントありがとうございました。