義務教育=学校教育なのか

2013年4月24日水曜日

教育

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 小中学生の子どもにホームスクールやチャーチスクールをさせるのは、憲法26条に違反するという意見がある。
 親は子どもに普通教育を受けさせる義務があり、普通教育とは文科省認可の学校教育だからだ、という論理だ。非常に正論である。
 が、それでも私は、違反にならないケースも存在すると思っている。

 同条と教育基本法をよく読んでみると、普通教育を受けさせる義務は保護者にあるが、その機会と水準を保障する義務は国にあることがわかる。
 つまり、ある子が不登校になったり落ちこぼれたりするのは、親の責任だと思われがちだが、実は国にも責任があるということだ。
 また、教育水準を保つ責任が国にあるなら、国はどんな子どもも落ちこぼれさせてはならないだろう。なぜなら越えられないハードルをあえて設定して転ばせることは、普通教育の目的に反するからだ。
 その普通教育の目的というのは、その個人の資質を伸ばし、日本国形成に資する人間を育成することと書かれている。だから中卒の時点でそのような人間に育っていなければ、それは国の責任である。

 もう一度確認するが、保護者の義務は「普通教育を受けさせる」ことだ。受けた結果どうなるかではない
 それはそうだろう。週5~6日、日中の大半を学校教育に子どもを預ける訳だから、その結果を親のせいにされても困る(もちろん、親はその結果を受け止めなければならないが)。

 ではその学校教育で、全ての子どもが普通教育の目的を果たし、一定以上の水準に達することができるかというと、現実的に不可能だ。病気や障害を含めて子どもの特質は様々で、公教育がその全てに適切に対応できているとは、残念ながら言えないからだ。

 ということは、憲法の定める義務を、国は十分に果たせていないということになる。

 が、国が義務を果たせていないから、保護者も果たさなくていいんだ、という話でもない。
 私が言いたいのはその逆だ。
 国が義務を果たせないなら、保護者自身がそれを果たそうとするのが自然なことのはずだ。
 文科省のHPにも、「憲法以前の自然権として親の教育権が存在する」と書いてある。

 いろいろな個別事例があるだろうが、例えば、軽い知的障害を持ったAくんがいるとする。Aくんは知能指数75くらいで、境界域である。これだと障害認定は受けられず、法的には一般の学校に入らなくてはならない。が、そこでの学習にはとても付いていけない。と言って特別な支援は何もない。こういうケースの場合、大半はほとんど学習成果を上げられないまま義務教育を終えることになる。普通教育の目的を達成できない。

 Aくんの親は、普通教育を受けさせているからと、これを黙って見ているべきだろうか。

 ホームスクール精神の根源は、このような親の悲痛な叫びにあるのではないかと思う。
 自分の子の問題は自分が負う、自分が責任を持つ、自分が最後まで付き合う、という切実な叫びだ。
 そして実際的に、学校外で親や他の誰かが時間を割いてAくんに勉強を教え始め、時間がかかっても、たとえわずかでも、何かを達成できたなら、学校教育はそれに感謝すべきだ。なぜならそれは本来、憲法に定められた学校教育の義務だからだ。

 多少極論のようになってしまったが、多かれ少なかれ、このような原理はどの学校、どの子にもあると思う。

 公教育に子どもを通わせるのは親の義務だ、というのは正論だ。
 しかし、だからそれ以外の教育は全て違反だと決めつけるのは、あまりに盲目的すぎる。ケーキを焼けと言われて、焼け焦げて炭になってもなお焼き続けるようなものだ。
 子どもの受ける普通教育が子どもにどんな成長をもたらすのか、あるいはもたらさないのか、最後まで責任をもって見定められるのは、やはり親しかいない。

 義務教育の在り方について、国も親もじっくり考えるべきだ。
 ホームスクールやチャーチスクールの存在がそのキッカケになるとしたら、それだけでも両者の存在価値があると私は思う。

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