前回、人には痛い目に遭わないとわからないことがあると書いたが、村上春樹の新刊「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んで、それについて再び考えさせられた。
同著のあらすじや感想をここで書く気はないが、主人公である多崎つくるの悩み(?)に共感できる人がどれだけいるか、私は疑問に思っている。
なぜなら彼は裕福な家に生まれ、何不自由なく育ち、大学進学も就職も問題なくできた身の上で、ただ一つ、高校時代の友人との関係に躓いただけだからだ。
私に言わせれば、甘ったれてんじゃねえである。
その主人公の悩みどころの「別世界」感は、「ノルウェイの森」に通ずるものがあると思う。
(ネガティブに書いているようだが、私は「ノルウェイの森」も「色彩を持たない〜」も楽しく読ませてもらった。)
が、そこで思い出したのが、前回自分で書いた記事である。
人には、体験しなければわからないことがある。
ということは、多崎つくるの悩みは私には理解できないが、それは私の経験不足や見識不足によるものなのかもしれない。そこには彼にしかわからない複雑な心理があるのかもしれない。
が、そこでまた別のことを考えさせられた。
先日、映画「グッド ウィル ハンティング」を初めて観た。
マット・ディモン扮する悩める青年ウィルと、ロビン・ウィリアムス演じる心理学者ショーンとの心の交流を描いた作品である。
ウィルは癒し難いトラウマを持っていて、そのせいで誰に対しても不遜な態度を取ってしまう。誰にも俺の気持ちなんかわからねえ、俺に近づくんじゃねえ、というひねた心理である。何人もの心理学者がそんなウィルにサジを投げるが、ショーンは「ざけんじゃねえこのクソガキ」と逆に一喝(実際にはそんな台詞ではなかったが)。ウィルの幼児性を見抜いてそこにアプローチした。
このケースの場合、「私は体験していないからあなたの気持ちはわからない」と言っていたら何も始まらないし、誰も救われない。
気持ちがわからないのは事実かもしれないが、人として何が必要かはわかる。それを教えるため、多少荒療治でも「ざけんなクソガキ」と怒ってあげるのもまた、愛情の一つではないかと思った。
このウィルの不遜さと自己憐憫さが、私には多崎つくると重なって見えた。彼の悩みは確かに彼を絶望へと追いやっただろうが、それと同じかもっとひどい絶望に毎日追いやられている人が、一体どれだけいるか。そう考えると、つくるには誰かが「ざけんなクソガキ」と怒ってあげるべきではなかったかと、思わずにいられない。
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