それは本当に「主のため」なのか

2013年4月29日月曜日

キリスト教問題

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 日本のクリスチャンがよく使う言葉のランキングを作ったら、おそらくこれらの言葉は上位に入るのではないだろうか。
「主のために」「神様のために」「イエス様のために」
 もちろん正確に調査したわけではないが、まったく的外れではないと思う。

 これらの言葉は基本的に、クリスチャンとして正しい。毎週日曜に教会で礼拝したり、献金したり、伝道活動や慈善活動に参加したりするのは、「主のため」だと言えるからだ。

それら「主のため」の行為について聖書は、「犠牲を払うこと」だと定義している。それも一方的な犠牲である。旧約聖書で言うと、自分の持っている牛や羊の中で最上のものを、生贄として焼き殺すことだ。食べるためにではない。全焼にして神に捧げるのであって、それは人間にとって何のメリットもない行為である。
 つまり「主のために」何かをするということは、その結果何かを得られると期待できるものではない、ということだ。
 だから今日の礼拝も献金もいろいろな教会活動も、単純に主に捧げるのであって、見返りを求める種類のものではないのだ。

 しかしある人は、礼拝の結果「神の祝福を受けることができます」と言うだろう。それは間違いではない。しかしその背景には、「祝福を受けるために礼拝する」という心理が働いている。祝福を受けることが目的なら、それは厳密には礼拝ではなく、神との取り引きでしかない。
 またある人は「伝道や慈善活動を通して、多くのことを学ばせてもらえます」「そこで新たな交流が生まれます」など言うかもしれない。それは副産物として素晴らしい。が、それが目的ならやはり「主のため」ではない。

 私は以前、教会の礼拝で毎週、楽器の奉仕をしていた。賛美リードもしていた。映像作品を作って上映したり、人前に立って話したりもした。当時の自分の動機を考えてみると、必ずしも「主のため」ではなかった。人に(特にM牧師に)よく見られたい、褒められたい、感動されたい、と思っていた。「主のために」と言いながら、神様なんて全然関係なかった。
 M牧師は信徒に無理難題を課す時、「これも主のためだ」とよく言っていた。そうやってさんざん人を騙してきた結果が、昨年の教会解散に繋がったことを考えると、彼の動機が「主のため」でなかったのは明白だ。

 そういうわけで、「主のために」という言葉を誰かが言う時、私はまず疑ってかかることにしている。その言葉の真偽は、いずれわかる。

 超教派の賛美集会などで、若者のグループが「神様のために賛美します」と元気よく言うのを聞くことがある。何々教会の何々さんが「主のためにこれこれの働きを始めます」というのもよく耳にする。
 それ自体は素晴らしいし、ぜひ頑張ってほしいと思う。が、いつの間にか立ち消えていることが多い。彼らの中には「これこれの理由で道が閉ざされました」「新しい道に導かれました」など言う人がいるが、では初めの動機や確信が何だったのか聞きたい。

 私たちは「主のために」何かをする時、その動機をよく吟味する必要がある。その結果得られると思われる全てのもの、副産物についても、私たちは考えてみる必要がある。それらが目的になっていないかと。でないと、神様と全然関係ないことをして満足している、という事態になりかねない。

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