私は日曜は、プロテスタント教会の礼拝に出席するようにしている。
教会にはいろいろな境遇や立場の方が集まっている。が、大きく2つに分類できると思う。
教会員と、そうでない人だ。
教会員はその教会に在籍している人のことで、おそらく、日曜礼拝以外のいろいろな教会活動にも関わっている人が多いと思う。平日に教会に行くこともあるかもしれない。教会規約等を守ると宣誓することで、教会員になれるという教会もあると聞く。
一方、教会員でない人というのは、現在の私のように、日曜礼拝だけちょこっとお邪魔させていただくような、薄い関わりの存在であろう。
もちろん、どちらが良いか悪いかという話ではない。
ただ、ふと疑問に思ったのは、クリスチャンはなぜ教会に行くのだろうということだ。
私はすでに解散となった母教会で20年近く教会員をしていて、奉仕三昧の生活をしていたわけだが、その疑問に明確に答えられない自分自身がいる。
なぜ教会に行くのだろうか?
もちろん、神様を礼拝するためだとか、「キリストのからだ」を建てあげるためだとか、宣教拡大のためだとか、模範的解答みたいなものはいろいろある。
が、自分が本当は何を求めてそれをしていたのかと聞かれると、よくわからない。
初めのうちは救われた(入信した)喜びみたいなもので、熱心に教会活動に関わっていたと思う。そういう人は多いだろう。
が、その初めの興奮状態が過ぎた後、それをし続ける動機とはいったい何なのか。
もちろん大人であれば責任感とか、属したコミュニティへのコミットとか、そういう「付き合い」みたいな感覚で継続していけるかもしれない。
しかし、若い人や子どもはそうはいかないかもしれない。やはり楽しみが必要だと思う。けれど、じゃあ教会がイベントを企画して彼らを楽しませようとするのも、何かおかしい気がする(ぶっちゃけて言うと、大人も楽しみが必要だと思うが)。楽しむために行っていることになってしまう。
傷つき弱っている人々をケアするためだ、とある人は言うかもしれない。
しかし、ケアと一口に言ってもいろいろあるし、そもそも心のケアは素人がそんな簡単にできるものではない。神様の愛があるから大丈夫とか言うのは安直過ぎる。一般社会のケアの現場で働こうとする場合カウンセリングとか各種療法とかの一定の学習を必要とするのを、バカにしてはいけない。
例えば自殺企図がある人に、聖書は自殺を禁じているからダメだ、と簡単に言うクリスチャンがいる。彼らは率先してその人に引導を渡してしまっていることに気づいていない。それはもはやケアでなく殺人だ(良かれと思って言っているその動機まで否定する気はないが)。
礼拝で説教中の会衆の様子を見ると、(上から目線な言い方になってしまって恐縮だが)この人たちはいったい何のために来ているのだろうと疑問に思うことがある。
ある教会では説教中、熱心な会衆がしきりに「アーメン、アーメン」と言ってるが、本当に意味がわかって同意しているのか疑問に思ってしまう。自分の頭でよく考えて吟味しようとするなら、即座に反応することなどできないからだ。逆に居眠りしているのもどうかと思うが(その気持ちはよくわかる)。
私も含めてクリスチャンたちは、教会で習慣化している事柄について、自分の頭でよく考えてみるべきだと思う。なぜそれをするのか、どんな意味があるのか、続けた結果どうなるのか、よく吟味すべきではないか。
そういう自己点検なしに惰性で続けることは、パウロが言うところの「空を打つ拳闘」を続けることと同じだと思う。努力して頑張った結果、何も残らないということになり兼ねないからだ。
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