痛い目に遭わないとわからないこと

2013年4月16日火曜日

生き方について思うこと

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 人には想像力があって、未体験の事柄でもある程度、想像して体験することができる。
 例えば自力では飛べないが、もし飛べるとしたら、地上はこういう風に見えるだろうとか、風はこんな感じだろうとか、想像の中で体験することができる。

 それはおそらく他の動物にはない、素晴らしい能力だろう。
 が、やはり「想像の域を越えない」事柄というものもある。

 例えば、バンジージャンプがどんなものかいろいろ聞かされても、実際の高さや恐さ、落下速度やスリルといったものは、経験者でないとわからない。
 また、いつも寝坊する子どもが「寝坊するな」と親に怒られても、遅刻したことがなかったら、何故寝坊がいけないのか本当には理解できない。学校に遅刻し、何らかの罰やペナルティが自分に課せられて、初めてわかる。

 上記の例に共通して言えるのは、人は経験したことでないと正しく想像できない、ということだ。つまり人はまっとうな助言でも、聞けない性質がある
 実体験から得られる「リアル感」だけが、その人に本当の理解を与えるからだ。

 映画「セブン」でケビン・スペイシー演じる犯人が、犯行の動機としてこんなようなことを言う。
「人はハンマーで頭を叩かれて、初めて聞く耳を持つ」
 あながち的外れなことではない。
 もちろん、ハンマーで叩かれたら聞くに聞けないだろうが。

 勤めていたチャーチスクールが崩壊しかかった時、私はスクール再建のため、一つのことを主張した。スクールが正しく回復していくためには、絶対にそれが必要だと私は信じていた。
 が、その主張は私の家族以外の誰にも受け入れられなかった。そして結局、私自身がスクールを去らなければならなくなった。
 しかし私が去ってすぐに、スクールは(新校長は)思わぬ方向に舵を切った。多くの父兄や生徒が、それによって切り捨てられた。切り捨てられた人々はそこに至って、私の主張が正しかったことを認めた。

 しかし、時すでに遅しである。
 もはや、スクールを元に戻すことはできない。
 が、私はそれでも良かったと思っている。
 なぜなら、真実が見えなかった人が、その痛みを通して真実を見ることができるようになったとしたら、それは何にも勝って貴重なことだからだ。

 人には、自分が痛まなければ決して理解できない領域がある
 その痛みを避けようとするのは、人として当然の反応であろう。
 が、それを避けられず苦しんだ結果、何かを発見したとしたら、それは富や栄誉やその他のすべてのものに勝って、その人を助ける宝となるだろう。

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