「献身」とは何か

2013年4月29日月曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教用語かどうかわからないが、教会でよく使われる言葉に「献身」というのがある。「身を献ずる」という言葉の通り、神様に自分の生涯を捧げる、というような意味で使われる。

 私はクリスチャンになったばかりの頃、この言葉を聞いて「クリスチャンってみんな普通に献身してるんじゃないの」と単純に思ったものだ。
 目に見えない神様を信じて、礼拝したり献金したり、慈善活動に携わったりするわけだから、それは立派な「献身」だと思ったわけだ。

 が、残念ながらそうではないようだった。

 一般にプロテスタント教会で「献身」と言うと、神学校を卒業して牧師とか宣教師とかになったり、あるいは「教会スタッフ」とかいう形で教会や教会関係事業で働いたりなど、いわゆる直接的に(多くの場合フルタイムで)教会で働くことを指すようだ。
(教団教派によっても、その辺りはいろいろあるようだ。ある教会は「一般献身」とか「特別献身」とか表現を分けていたりする。)

 じゃあそうでない人は献身していないのか、というのが私の最初の疑問だった。
 なぜならどう考えても、一般社会で働きながら教会員でいようとしたら、多大な犠牲を払うことになるからだ。毎週日曜は潰れるし、献金額だってバカにならない。平日の夜とかに教会に行くことにもなるし、継続的な奉仕を任せられたら、その責任がずっと付いて回る。

 もちろんそれを喜んでするわけだから、そもそも犠牲と考えるべきでない、という意見があるかもしれない。
 が、それは捧げる人間が、自分の行為を犠牲と認識した上で「これは犠牲などとは考えません」と言うから成り立つのであって、そうやって捧げられた側(教会など)とか周囲の人間とかが、「それはあなたにとって犠牲ではない」などと言えた義理ではないのだ。

 というわけで、私は普通にクリスチャンをやっているだけでも立派な「献身」だと思っている。牧師やら教会スタッフやら「ミニスター」やらが殊更に偉いとか、より多くの犠牲を払っているとか、そんなことは全然ない。みな犠牲を払っている。もし「私の方が多く犠牲を払っている」などとあなたの牧師が真面目に言ったら、今後の身の振り方を真剣に考えることをお勧めする。

 もし「献身度」を測定する機器があって、各人の払った犠牲の大きさが数値化されるとする。それでもし牧師が誰よりも高い値を出したとしたら、その牧師は「私は一番献身している」と自慢していいだろうか。

 もちろん自慢するのは自由だ。
 聖書が示す牧師像を見ると、そんなことは死んでもしないと思うのだが。

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