教育の成果はどうやって判断すべきか

2013年4月22日月曜日

教育

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 知り合いの女の子が、結婚することになったと聞いた。

 普通なら喜ぶところだろう。
 が、某大学に進学したばかりの彼女がなぜもう結婚するのか、不思議だった。
 べつに学生結婚に反対するつもりはないが。

 しかしよくよく聞くと、大学は早々に中退していたという。苦労して入学したのを知っているだけに、もったいないと思った。
 彼女がその後、どのように歩んだのか定かでないが、結婚相手と知り合い、結婚することになった。

 大学中退も早期結婚も、さして驚くことではない。(クリスチャン子弟がみな聖人君主だと想像している方がいるとしたら、大間違いだと教えてあげたい。世間を知らない分、ノンクリスチャンの子より多少純粋かもしれないが、彼らも同じ人間だ。)
 が、ご両親の心中は、きっと穏やかでないのではないかと思った。
 クリスチャンスクールを卒業したのに何てザマだと非難されるかもしれないし、「心の教育」を標榜するクリスチャン教育の、面目丸つぶれかもしれない。

 しかし、では公立学校だったら違う結果になったかと言うと、それもわからないと思う。

 それに公立もいろいろな学校があるし、いろいろな先生がいる。同級生だって様々だ。もしかしたら良い先生に出会ったり、良い先輩や同級生や後輩に出会ったり、あるいは思わぬ良い出会いがあったりして、非常に効果的な成長を遂げたかもしれない。あるいは、まったく逆のことが起こったかもしれない。

 くわえて、大学を中退したり十代で結婚したりすることに眉をひそめる人がいるだろうが、それは絶対的に悪いことだろうか。私はそうは思わない。もちろん人に迷惑をかけたなら誠実に対処しなければならないが、それらの経験が、その人にマイナスに働くとは限らない。
 かえって、何か大切なことを学びとり、自分自身をより良く変化させることができたなら、それは非常に良いことだ。

 そう考えると、教育の成果というものは、最終学歴で決まるものではないような気がする。その後の人生の全てが、教育の成果なのではないだろうか。
 つまりその子にとって何が一番良かったかは、一概には言えない。

 こう書くと、クリスチャン教育の失敗を棚に上げているように思われるかもしれない。
 が、現場の人間にとって、やはりそれは事実なのだと思う。
 親にとっての子どもの成長にも、同じことが言えるかもしれない。

 彼女が今後どうなっていくか、私は遠くから見守るしかない。
 もしかしたら、何年後か何十年後かに、再び接点が生まれるかもしれない。あるいは死ぬまで生まれないかもしれない。
 しかしいずれにせよ、いつか彼女が人生を振り返った時、思春期をチャーチスクールで過ごしたことを良しと思ってくれるなら、それだけで私は満足だ。

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