2013年3月31日日曜日

日本のクリスチャンの若者がダメな理由

BBAの放言 ご同情申し上げます

 この記事はキリスト教社会の悲惨な結婚事情を、端的に現していると思う。
 同じクリスチャンと結婚するのが理想だとわかっているけれど、ぶっちゃけ、ロクな人間がいない、ということである。わずかにいても早々に持って行かれてしまう、と。
 日本のクリスチャン人口は1%未満らしいから、それも必然的なことかもしれない。

 以前の記事で「就活」を「椅子取りゲーム」と評したことがあるが、クリスチャンが理想的な結婚をするための椅子取りゲームは、さらに苛烈を極めるのではないだろうか。

 またまた以前の記事で、クリスチャンとノンクリスチャンの結婚についても書いたが、そういう事態が起こるのも仕方がないかもしれない。

 しかし私は、だからクリスチャンの若者はダメなんだと言うつもりはない。
 それよりも、彼らをダメにしている教会なりリーダーなりが、根本的な悪だと思っている。

 初めに「キリスト教社会」と一括りにしてしまったが、いささか語弊があるだろう。
 教団教派の違いというのは、同じキリスト教でも、大西洋よりも大きな溝を持っている。とても越えられない。だから「教会」と言っても様々で、そこに集う人間も様々である。

 私の経験から言うと、正常な、あるいは健全な教会には、若者はそれほど多くない。というか、年配者が中心になっていて、若者たちに何でもかんでも頼まなければ動かないという体制にはなっていない。
 そういう教会にいる若者は(本当に少ないが)、割とまともな感覚で生きている。
 先輩である年配の方々が、しっかりしているからだろうか。

 逆に若者が多い教会、あるいは若者が中心的に動いている教会は、私は本当に警戒すべきだと思っている(もちろん全部が全部ということではない)。
 そういう教会は「活動」が中心であることが多い。若者は活動的なところ、自分が活躍できるところを好むから、こういう教会に集まってくる。そして若者が若者を呼び、若者ばかりの教会になる。
 それで教会のリーダーが「次世代」とか「弟子訓練」とか言い出したらタチが悪い。年配の方々は周りが若者ばかりでただでさえ居場所がないのに、台頭する若者たちに見下げられて「不信仰」だとか「無能」だとか無言のレッテルを貼られてしまうこともあると聞く。

 年配者に敬意を払えない若者を量産している時点で、その教会の弟子訓練」は失敗している。けれど、それで終わりではない。

 活動ばかりで健全に教えられていない若者たちは、「自分たちの教会が一番優れている」とか「神の御心は私たちにこそある」とか勘違いしてしまい、ぜんぜん根拠のないエリート意識を持ち、一般社会を「この世」と呼んで殊更に嫌悪し、見下げるようになることもある。
 キリストの最重要のオーダーである愛とか謙遜とか、まったく関係ない。

 彼らが誇りを持って一生懸命やっているバンドとか、CD制作とか、ダンスとか、子ども向けの集会とか、一般からするとそれほどクオリティーの高くない代物であることが多い。もうちょっと謙虚になって見聞を広めるべきだと思うが、それを見ている教会のリーダーたちや先輩たちが「素晴らしい」と拍手してしまったら、もう止められない。

 そのまま何年かすると、彼らは自分たちの姿も周囲も正しく認識できない、独善的な自己満足集団になってしまう。ずいぶん霊的(?)に振る舞うし、人を愛すると言いけれど、身近な仲間や家族をぞんざいに扱い、神のためにと言いながら、自分の野望に全てを注ぐようになってしまう。

 が、最初に言ったように、それは彼らのせいではない。そういう風に教え誘導したリーダーたちの責任が大きいと私は思う。

 願わくは彼ら自身がそれに気づき、軌道修正してくれたらと思う。
 私がリーダーに絶対必要と思う資質は「自己点検できる」ことだと以前の記事に書いたが、「自分はこれでいいのか」「自分たちはこれでいいのか」と少しでも疑問を持ってくれたらと思う。

2013年3月30日土曜日

やりたいことを仕事にしなければならないのか

ノマド研究所の記事に、こんなフレーズがあった。

「いつからか日本の就職活動は、自分のやりたいことを探す旅になってしまった。」


もっともである。
学生時代から仕事でやりたいことを決め、それにふさわしいところに就職し、自己実現するのが人生の目標だと、いつの間にか刷り込まれているような気がする。
今日の学生はそんなプレッシャーを受け、訳もわからず、右ならえで就活を始めさせられているのではないか。

そもそも就職とは、何なのか。

江戸時代あたりまでは、もっとシンプルだったと思う。武士の子は武士に、農民の子は農民に、事実上の世襲制だったからだ。子どものうちから、農家なら畑仕事を手伝うだろうし、武家なら剣術や礼儀作法を叩き込まれる。職業訓練をばっちり仕込まれ、将来像も見えているから、何になるかで悩まない。

それが戦後の高度経済成長期、第二次産業の発展に伴い、世襲制が崩れた。家業を継ぐ人口が激減し、都市部での賃金労働者、つまりサラリーマン人口が急増した。「Always 三丁目の夕日」の冒頭に見られるような集団就職が、毎年春の風物詩となったのだ。

当時は求人過多にあり、基本的に、希望する会社に入社することができた。が、業種は工員か事務員がほとんどで、多くは上京して初めて自分の会社を見るという状況だった。
つまり条件をよく吟味して選べた訳ではない。むしろ「選ぶ」というよりは、たまたま求人票や勧誘等で「巡り合った」会社に入る、という感覚だったはずだ。

今のような、就職先を好みの条件で「検索」し、「比較」し、「応募」するという就活スタイルは、ごく最近のものと言える。

「じゃあ今の方が自由でいいんだ」という意見が出そうだが、それは早計すぎる。

結婚を例にする。
江戸時代から昭和初期まで、結婚は見合いが大半を占めていた。自分で選ぶ権利はなく(特に女性は)、親や親戚に決められた相手と結婚しなければならなかった。
それで彼らが不満だったかと言うと、そうでもない。なぜなら親も、祖父母も、先輩たちも、社会全体も、皆そうやって結婚してきたからだ。好きな相手と結婚するという概念そのものが、ほとんどなかったと言える(奈良時代まで貴族どうしの恋愛結婚は普通だったが、記録上のことでしかない)。

その見合いの習慣も戦後に崩れ、恋愛結婚が主流となった。愛し合う者どうしの結婚で、社会全体が幸せになったかと言うと、そうでもない。逆に離婚率が急増したのは統計が証明している。

「自由に選べない」状況にあるとき、人はそれに順応しようとする。

結婚も就職も選べない以上、それでやっていくしかない。つまり結婚した相手、就職した会社とうまくやっていく他ない。離婚や退職という前提はない。
それはそれで、目標がはっきりする。

現在はある程度自由に選べる分、何かの基準を設けて自分で決めなければならない。
それは自由である反面、ハードルが上がったことを意味する。

「やりたいことをやる」のは、もちろん悪いことではない。
が、仕事でやりたいことを無理に見つけなくてもいいのではないか。
仕事は仕事、やりたいことはやりたいことで、分けてもいいような気がする。

だいいち人間の好き嫌いは不安定で、いつどうなるかわからない。好きで始めた訳ではない仕事に、やり甲斐や生き甲斐を見つけることもある。逆に、好きだったものが簡単に嫌いになったりもする。

やりたいかやりたくないかで仕事を決めるのもいいが、他の尺度で決めてもいいのではないだろうか。

2013年3月29日金曜日

その仕事、本当に必要?

「4割の会社員は迷惑メールより同僚の方が邪魔な存在だと感じている」

この記事に納得するところがある。
迷惑メールの処理に毎日1時間以上かかるが、同僚との世間話にはそれ以上の時間がかかっている、ということだ。
仮に世間話を2時間と見積もると、毎日3時間、ちゃんと仕事をしていないことになる。

脱社畜ブログに「まともに働いている人は全体の2割くらいだ」という記事があるが、通ずるものがある。

では残りの5時間は全て働いているかと言うと、私にはそれも疑問である。「それは本当に必要なのか」と思うことに延々と時間を費やす人が、私の周りにもいるからだ。

もちろん仕事の種類は様々だから、一括りにはできない。
例えば病院の手術室では、10時間以上かかる手術というのもある。スタッフは交替などしない。その場合、

手術時間+前後のいろいろ=勤務時間

となる。その間メールチェックどころか、トイレさえ行けるかどうかわからない。そんな彼らは勤務時間の100%を労働に捧げていると言えるかもしれない。

しかしおそらく、それは特殊なケースだ。

私は事務仕事をしていた時期もある。
やってみて驚いたのは、その日に終えた仕事を考えてみて「え、これだけ?」と思うことが多かったことだ。
取引先と話したり、顧客と話したりで一日の大半を費やしたこともある。いろいろ書類をまとめることもあったが、決して効率的ではなかったような気がする。

そしてそれが私だけかと言うと、そうでもなく、案外みんなそうなのだ。ある神経質な同僚などは、別の社員がまとめた書類を、字が汚いだの文章が悪いだのとケチをつけて、もう一度自分で書き直している。またある同僚はエクセルでマクロを使っているが、動作が気に入らないとかで、一日中同じようなところを書き直している。
面倒な仕事がくると、忙しい振りをして他人に押し付ける人もいる(お前、一番暇だろ!)。

「その仕事、本当に必要?」
おそらく誰もがそう思っているが、誰も何も言わない。
多くの人が、そこまで極端でなくても、自分の仕事の必要性に疑問を感じているからではないだろうか。

私自身、事務仕事に転職して初めて給料をもらった時、「こんなんでいいのだろうか」と感じてしまった(こう書くと事務仕事が悪いと言っているようだが、そういう意図はない)。

就活や転活のサイトを見ると、「やりがい」とか「自己実現」とかいう言葉が大々的に書かれている。が、いったいどれだけの人が、それらを本気で求めているだろうか。
何であれ勤務時間を職場で過ごし、それで給料をもらって良しとする。そういう人が多いような気がする。

それはそれで、べつに悪いことではない。

私は現在、諸事情あって非常勤で働いている。忙しい時間帯だけ働き、終われば早々に帰る。暇な時間はない。
勤務時間の大半は労働に捧げているので、給料をもらう時、後ろめたく感じることがない。

それが正しいとか、そうすべきだとか、そんなふうには思わない。
ただ、私はそういう働き方を選んだ、というだけのことだ。

2013年3月28日木曜日

たとえ就活でうまくいかなくても

私は2012年の4月まで、あるプロテスタント教会でスタッフとして働いていた。「教会」と聞いてどういうイメージを持たれるかわからないが、まあボランティア団体の有給スタッフと考えてもらえたら妥当かもしれない。

その教会がワケあって解散となり、私は失業者となった。幸い、一般企業でバイトもしていたので、そちらの勤務時間を増やすことで、急場をしのぐことができた。関係者の皆さんには本当に感謝である。

そういうわけで夢敗れた私だが、とりあえず就活を始めてみた。

専門資格を持っているからか、転職サイトに登録すると、いくつかオファーが届いた。オファーには「面接保障」とか「一次面接免除」とか書かれている。
一社だけ応募してみた。
失礼だが、試してみたかった。
履歴書を十数年振りに書き、面接に臨んだ。私は自分を良く見せようと面倒臭いことはしたくないので、何でも正直に話した。それを素直ととられたかバカととられたかわからないが、結果は不採用。理由はわからない。

就活生の気持ちが、少しわかったような気がした。
悪い印象を与えないよう、考えうる限りの「地雷よけ」をして書類選考や面接を受けるが、いかんせん、どこに地雷があるかわからない。たとえ自分が完璧にこなしても、自分より優れていると判断される人がいたら終わりだ。

何だか「椅子取りゲーム」のようである。しかしこのゲームで勝つには、反射神経や俊敏さは必要ない。

よくわからない「何か」が必要なのだ。

そしてその「何か」がよくわからないから、皆苦労する。

「面接は、企業とのお見合いみたいのなものだ」とよく言われるが、冗談ではない。江戸時代に始まったお見合いは「結婚前の顔合わせ」でしかなく、そもそも断るなんて選択肢はなかったのだが。

その後もオファーをいただくことがあったが、どうも応募する気になれなかった。
小一時間の面接で自分の何がわかるのか疑問だし、その中でしか判断されないのも納得いかない。
人間はいろいろな局面でいろいろな面を出すものだし、能力だって短期間で判断できるものばかりではない。できそうな人がトンデモだったり、いまいちパッとしない人が意外な力を発揮したりすることだってある。成長率だって考慮すべきだ。
それに、小一時間でその企業を判断するのも難しい。というか、できない。入社してから「こんなはずじゃ」と思っても遅い。

以上のように考えると、新しく応募しようとは、どうしても思えなかった。

もちろんこれは、現在勤め先があるから言えることだ。贅沢と言えば贅沢な悩みで、就活中の皆さんには申し訳ないと思う。

就活をしている方々は、本当にご苦労だと思う。雲をつかむような戦いを強いられ、そのくせ失敗すればダメ人間とか言われかねない。同じような服装に髪型に笑顔を作り、同じようなアドバイスを受け、同じような履歴書を持って企業に立ち向かって行かなければならない。あまりに理不尽である。

「不採用」をもらうと、自分が何の役にも立たない落ちこぼれみたいに感じるかもしれない。
しかし、そんなことはない。
人は皆個性があり、特徴があり、一人として同じ人間はいない。モノの価値は希少性にあると言うが、だったら「その人らしさ」はこの世界で唯一無二の、超希少物である。絶大な価値がある。

とは言ってもこの社会にいる限り、何らかの形で働く必要はあるし、多くは就活をしなければならない。理不尽とは言え、そのフィールドの中で最善を尽くすしかないのも事実である。

どうか就活を通して、自分はダメだとか社会がダメだとか腐るのでなく、それを通してなお自分自身を再発見したり、気づかなかった新たな道を発見したりしてほしいと思う。

かくいう私も、その最中である。

2013年3月27日水曜日

非常勤ではいけないのか

 アルバイト、パート、派遣、契約社員等の「非正規雇用」の労働者が近年増えている。
 それを問題視する向きもあるようだが、いったい何が問題なのだろうか。

「非正規雇用」と「正規雇用」の違いは、厳密には契約期間にある。前者は有期限、後者は無期限。契約自体は両者とも正式なのだが、「非正規雇用」というと何かが正式ではないような気がする。この表現自体に問題があるようにも思う。

 今日、新卒者は正規雇用を前提に就活するし、転職希望者も同じだろう。だから非正規雇用で働く人たちは、どこか「正規雇用してもらえなかった人たち」というふうに見られがちではないか。
 これは前提に、「正規雇用=まっとうな人間」という図式があるからではないか。

「正規雇用」つまり常勤職員のメリットは、終身雇用と社会保障、各種手当、賞与等にある。終身雇用なんてもう古いという意見もあるが、まだまだ日本の多くのサラリーマンが、特に問題なければ、入社した会社で定年を迎えている。
「非正規雇用」には基本的に、上記の特典はない。だからみんな常勤職員になろうとするし、それは必然的なことだ。

 常勤職員になることは、決して悪いことではない。

 しかし私がおかしいと思うのは、常勤職員でなければダメだ、という考え方である。

 常勤職員のデメリットは、その長い拘束時間と、年々増えていく責任にあると私は思う。
 最低でも週5日で40時間の勤務時間だが、多くの人は40時間では済まない。望まない残業もあるだろう。
 責任というのは、一部の男性は喜んで負うだろうが、それを負い続けるのは相当なストレスとプレッシャーである。人によってはシャレにならない事態にもなりうる。

「非正規雇用」にもいろいろあるが、例えばパート勤務の場合、月120時間以上働けば、社会保障を受けることができる。企業によっては賞与も支払われる。
 このパート勤務の最大のメリットは、勤務時間を(完全にとは言わないが)コントロールできるところにある。例えば用事がある日は午前中だけ働くとか、午後だけ働くとか、調整して一週間ほど休むとかだ(もちろん業態によって千差万別だろうが)。もちろん、多く働いたっていい。

 だからパート勤務の方がいい、ということにはならない。が、立派な選択肢の一つとして、そういう働き方があっていいはずだ。

 ポイントは会社への献身度にあると思う。
 会社に尽くしたい、実績を残したい、あるいは出世したい、高給とりになりたいという人は、なれるなら常勤になればいい。
 しかしそう願わない人がいて、なれるのなら、非常勤になってもいいはずだ。

 私の知り合いに、定年まで非常勤職員を貫いた男性がいる。彼は両親の介護をするため、一度も常勤職員になったことがないそうだ。定年を迎えた今も、塾の非常勤講師をしている。国民年金をもらえるのは、まだ数年先の話だ。
 それで後悔しているのかというと、どうもそうは見えない。それより親の介護という、子としての義務をしっかり果たした、その満足感の方が強いように見える。

 非常勤職員として、自分の時間を有効に活用したい、という人はいると思うし、それで仕事以外の目標に向かって生きていくことは、素晴らしいことだと私は思う。決してバカにされたり貶されたりすることではない。
 もちろん、常勤職員として働きながら、同様に目標を掲げることだって素晴らしいことだ。

 働き方や生き方は、人それぞれでいいと思う。それぞれが納得して、ある程度満足してそうできるなら、それが一番いいのではないだろうか。

 仕事は非常勤だっていいのだ。

2013年3月26日火曜日

スーツは会社が支給したらいいのではないか

 知らなかったが、今日は明治大学の卒業式だったようだ。
 たまたま行った御茶ノ水駅で、「ご卒業おめでとうございま~す」とフリーマガジンが配られていた。
 見ると「R25」ならぬ「R22」。

 大卒生かその年代の若者を対象に、配っているようだった。私は新卒とはかけ離れた年齢だが、ちゃっかりもらってしまった。

 面白かったのは「『ニッポンの会社員』白書」のコーナーだった。
 日本の会社を全部で100社とすると、どうやら毎年1社は倒産しているらしい。1%の確率で倒産するって、案外大きいのではないか。その倒産する会社に入ってしまう新卒者もいるだろう。

 また、日本の社会人を全部で100人とすると、20代は14人しかいないという。それに比べて40代以上は62人もいるらしい。新入社員は肩身の狭い思いをしそうだ。逆に可愛がられる可能性もあるが。

 一つ気になったのは、「スーツの正しい着こなし方」のコーナー。

 

ジャケットの襟や袖からシャツが何センチ出ていればベストだとか、ネクタイがどうだとか、「マナーコンサルタント」なる人が細かく注意している。その通りにしなければ、とんでもないマナー違反になるようだ。何とも窮屈な気がした。

 スーツを格好良く着こなして仕事をバリバリ頑張る、というのは一つの価値観としてアリだと思う。が、この格好を毎日する合理的な理由があるのだろうか。仕事をしていれば身体を動かすし汗もかく。汚れる作業だってある。アイロンとかクリーニングとかにかける労力やお金も大変だろう。

 正装としてならわかる。冠婚葬祭のマナーとしてスーツはこう着る、というのは是非守りたいと思うし、正装らしく格好良く決めたいとも思う。しかし冠婚葬祭が毎日あるわけではない。

 スーツの意義とは何なのだろうか。

 かく言う私は、仕事でスーツを着ない。代わりに職場で制服に着替えている。

 制服は必要だと思う。
 例えば私の仕事は、どうしても汚れることが多い。これが私服だったら大変なことで、毎日服を新調しなければならなくなる。消防士とかペンキ職人にも同じことが言える。コックもそうかもしれない。コックは帽子を被っているが、あの帽子がなければ髪の毛が料理に入って問題になることもあるだろう。
 そんなふうに、制服にはそれぞれ意味があることが多い。
 

 その視点でみると、スーツも制服の一種と言うことができるかもしれない。
 いわゆる「ビジネスマン」共通の制服というわけだ。警察官がその制服で認識されるように、「この人はビジネスマンです」と認識してもらえる。そしてそれを正しく着こなすことで、まっとうな人間であることが証明される、というような意味合いがあるのかもしれない。

 だとしても、やはりスーツを着る人たちはかわいそうに思える。
 なぜなら私のような「制服業」は、制服は無償で支給されるからだ。どんなに汚しても破けても、メンテナンスやクリーニングを個人で負担することは基本的にない。
 しかしスーツや付属品は、全部自腹で調達しなければならない。汚したら自分でクリーニングに出し、古くなったら新調しなければならない。制服業に比べて非常に不利である。

 一つくだらない提案だが、スーツを制服と割り切って、社員のスーツ類はすべて会社が支給したらどうだろうか。そして、みんな会社でスーツに着替えるのだ。勤務時間中だけビジネスマンをしていればいいわけだから、通勤中までスーツでいる必要性はないのではないか。

 もちろんこの「R22」を見てもわかる通り、そんな時代は当分こないだろう。
 新卒者でスーツを買う人たちは大変だろうが、ぜひ頑張ってほしいと思う。そして彼らが中堅以上になる頃には、もう少し働きやすく生きやすい社会になっていればと願うばかりである。

2013年3月25日月曜日

上司に気に入られなくてもいい

新しい職場や仕事では、上司にとって「何が成功か」をまず明確に

 この記事を読んで「まあそうだろう」と思ったものの、どこか違和感を覚えた。

 記事の趣旨はわかる。
 新しい職場ではまず、上司との関係を大切にすべきだ、ということだろうし、仕事のゴールを間違えるなよ、ということでもあろう。
 それはまったくその通りで、仕事の苦楽や充実感は、大部分が人間関係によって決まると私は常々思っている(もちろん業種によってそのウェイトは違うだろうが)。

 その意味で、上司が願う通りの成果を上げようと試みるのは、決して悪いことではない。早い段階で成功を見せることができれば、それは確かに良いことであろう。

 しかし私が気になるのは、「何が成功か」を上司が決めているという点だ。その上司次第で、ハードルの高さも種類も何でもありということになってしまうのではないか。私は二つの点で、これは危険だと思った。

 一つは、上司に気に入られようとして、結果的に「言いなり」になってしまうことだ。
 人間関係にはある程度の我慢とか譲歩とか気配りとかが必要だ。新入社員なら余計にそうだろう。が、相手が自分より立場が上だと、なかなかモノが言えなくて、その我慢や譲歩や気配りが行き過ぎてしまう場合がある。それに「気に入られよう」とする意思が加わると、何でも上司の言う通り、期待通りにしようという「奴隷」状態に陥ってしまう。

 もう一つは、早すぎる成功体験はハードルを自ら上げることになる、ということだ。
 新入社員が120%以上の力で働き続けられるのは、せいぜい半年から一年くらいだろう。真面目人間ほど、初めから無我夢中で全力疾走してしまう傾向がある。その期間中に下手に成功してしまうと、その上がったハードルを下げられなくなってしまい、いつまでも同じペースで走り続けなければならなくなる。それは、人によっては地獄になり得る。

 また「上司に気に入られるかどうか」という指標は、単純に個人の能力とかコミュニケーション力とかを反映するものではない。性格や性質の違いといった、「相性」の問題が大きく絡んでくる。 AさんもBさんも同じように優秀だけれど、Aさんだけ何となく疎まれる、ということはよくある(これには上司の人格も大きく絡んでくるだろう)。

 仕事は、誰かの期待に応えようとしてするものではない。
 結果的にそうなることはあっても、目的ではない。

 仕事をする理由は人それぞれだろう。現在不本意な職場や立場に甘んじていて、積極的な理由を持てない人もいるかもしれない。
 が、いずれにせよ働く以上、多くの人は相応の目的と意義をもって働きたいと願っているのではないか。謙虚に学ぶ姿勢はいつも持っているべきだが、そのうえで、雇用主を満足させる以外の何かを目指してもいいと思う。

 その過程で、上司に気に入られたら、それが一番いいのかもしれない。
 しかし、気に入られなくたっていいのだ。
 気に入られようと自分を偽るよりは、よっぽど自由だ。ありのままの自分で納得のいく仕事ができる方が、よっぽど価値がある。私はそう思う。

2013年3月24日日曜日

浪人したっていいんだ

 知り合いの子どもが高校3年生なのだが、大学受験にことごとく失敗してしまった。
 4月からどうするか、まだ決まっていない。
 応援していた私としては、何と声をかけたらいいかわからない。

 どうするか決まっていないといっても、どれだけ選択肢があるだろうか。進学したい以上、いわゆる「浪人」をする他ないのではないか。この一年間をどう過ごすかしか、選べない。どこの予備校にするか、いつから入るか、あるいは独学にするか、とかだ。

 当たり前の話ではあるが、競争社会の現実を見せつけられた気がした。
 小学校、中学校、高校と勉強してきて、その子にとっての次は大学だった。しかし勉強が足りなかったのか、何が足りなかったのか、この「次」に進めなかった。スゴロクで言う「一回休み」ならぬ「一年休み」である。かたい門が閉ざされ、門番に冷たく追い払われたような感じだ。

 これが資本主義の競争原理に基づいているということは、もちろんわかる。
 定員割れしていない以上、合格する子がいれば不合格になる子がいなければならない。
 また大学受験だけでなく、いろいろな状況で同じことが行われている。就活でも、組織での昇進でも、コンテストでも、企業同士の争いでも。

 この競争を、幼いうちからする子もいる。中学受験のため、「合格」ハチマキをした小学生たちが全員でオーッと気合を入れるニュース映像を、最近見た。
 しかしよく考えてみると、私たちは幼い頃から競争している。「あの子の方が~だ」「自分の方が~だ」と些細なことで張り合った記憶が私にもある。
 資本主義云々の前に、私たちは競争しなければ済まない存在なのかもしれない。

 ある小学校が「優劣をつけるのは良くない」というわけで、運動会から競争種目を排除した。皆でできて、勝ち負けのつかない種目だけになった。それはそれで気持ちが悪い。

 その知り合いの子どもは「浪人」することになるだろうが、自分で自分を負け組だとか落伍者だとか思ってほしくない。どうも「浪人生」というと、「ちゃんと勉強しなかったから、親にまた迷惑をかけて、まったくもう」というふうに悪く思われやすい。それを隠す人も多い。そしてそれは、「浪」という漢字が持つ負の意味の影響が大きいように思う。
 しかし、彼らだって戦ったし、競争したのだ。その結果負けてしまったのであって、WBCの準決勝で負けてしまったのと同じことではないか。

 一年間、じっくり考えて準備する時間が与えられたと考えたらいいのではないか。それはそれでモラトリアムという言葉で責められそうだが、不可抗力だったのも事実だ。

 競争があるのは事実だけれど、だからこそどう進むか、どんなペースで進むかは人それぞれ、浪人したっていいんだ、そんな雰囲気が社会全体にあっていいと思う。

Cloud Atlas

どの時代も人は支配する者と支配される者に分けられる。
そして後者は、解放のために戦う。
 

邦題「クラウド アトラス」(2012年・アメリカ)

■概要

 6つの時代のそれぞれの出来事を、同時進行で描くSFドラマ。
 それぞれの主人公は身体のどこかに彗星形のアザを持っており、それぞれが「支配からの解放」を試みる。その繰り返しの根底には、ニーチェの「永劫回帰」の思想がある。

※仏教的「輪廻転生」とは異なる思想であり、同じ役者がそれぞれの時代に別人として登場するが、生まれ変わりを示唆しているわけではない。

■あらすじ(ネタバレあり)

①アダム・ユーイングの太平洋航海記
 1849年、奴隷売買の契約を終えた弁護士のユーイングは、アメリカへの船旅についている。
 その途上、密航していた黒人奴隷オーティアを助ける羽目になるが、その過程で友情が芽生え、奴隷制度に疑問を持つようになる。船上での病気や殺害の危機を乗り越え、妻ティルダの待つアメリカ南部へ帰還。ユーイング夫妻は、奴隷解放運動に身を投じる決意をする。

②セデルゲムからの手紙
 1936年、駆け出しの作曲家フロジャーは、ユーイングの航海日記を愛読している。彼は著名な作曲家エアズのもとで六重奏「クラウド アトラス」を書き始めるが、その権利をエアズに奪われてしまう。何としても曲を完成させたいフロジャーは、エアズを殺害。追手から逃れつつ、曲を完成させる。 同性の恋人シックススミスに手紙ですべてを託し、彼は銃口をくわえ引き金を引く。

③ルイサ・レイ最初の事件
 その37年後、物理学者となったシックススミスは、フックスが経営する石油企業の陰謀を告発しようとしていた。が、ジャーナリストのルイサ・レイに接触する前に暗殺されてしまう。
 シックススミスの遺品からフロジャーの手紙を見つけたルイサは、六重奏「クラウド アトラス」にたどり着く。
 ルイサはフックスが石油利権を守るため、大規模な原発事故を起こそうと画策していることを突き止める。暗殺者の手から辛うじて逃れ、彼女はその告発に成功する。

④ティモシー・カべンデッシュのおぞましい試練
 2012年のロンドン。老編集者のティモシーは仕事でトラブルに遭い、兄に助けを求める。が、ティモシーに恨みを持つ兄の策略により、老人介護施設に監禁されてしまう。仲間とともに施設を脱出したティモシーは、若い頃離れ離れになった恋人アーシュラとの再会を果たす。

⑤ソンミ451のオリゾン
 2144年、全体主義国家に支配されたネオソウル。ファブリカント(クローン人間)のソンミ451は、カフェの給仕として酷使されていた。彼女は禁止されているティモシー・カベンデッシュの自伝映画を仲間に見せられ、外界に興味を持ち始める。ソンミを革命の広告塔にしたい革命軍の司令官チェンは、彼女に接触、脱出させる。国家の残酷な正体を知ったソンミは、敗戦を知りつつ革命に身を投じ、世界中にメッセージを送る。

⑥ノルーシャの渡しとその後のすべて
 文明崩壊後。地球は放射能に汚染され、残された人類は滅亡の一途をたどっている。ある島で女神ソンミを信仰しているザックリーは、人食い族に怯えながら未開の暮らしをしていた。ある日、科学文明を維持するコミニティーからメロニムがやって来て、ザックリーに山のガイドを頼む。実はその山の頂上には、外惑星への通信施設があった。外惑星へ移住した人類に助けを求める以外、地球人類が生き残る術はなかった。

冒頭と結末
 老後のザックリーが登場。時空を超えた物語を語る(①から⑥まで全て話したと思われるが、なぜ彼がそれらを知っているか不明)。
 結末、ザックリーがいるのが地球でない別の惑星であることがわかる。彼らは外惑星への移住に成功したのだった。

■壮大・圧巻

 よくぞ作り上げたものである。いろいろ批判もあるようだが、私はたいへん満足できた。3時間弱の上映時間もあっという間だった。一つの映画で19世紀から22世紀とそれ以降を描きつつ、一つのテーマ「支配からの解放」で一貫させているのは圧巻の一言。
 ただ、6つのエピソードが並列されているのはいいのだが、細切れになり過ぎているように感じた。一つ一つを、もう少しじっくり見られたほうが良かったような気もする。DVD等でリリースされる時には、ぜひ、6つのエピソードを順番に見てみたいのだが、叶わないだろうか。
 予告編で"Everything is conected"(すべてが繋がっている)というキーワードが提示されているが、それほどの繋がりは感じなかった。何度か見なければわからないのかもしれないが。
 また、俳優たちが凝ったメイクでいろいろな役を演じるのはすごいのだが、その必然性が感じられなかった。べつに生まれ変わっているわけでもないし。

■これは仕掛け? 偶然?

 まだ観終ったばかりだが、一つ発見。
 トム・ハンクスとハル・ベリーは6つの時代すべてに登場するが、彼らの役柄を単純に「善・悪・中立」で分けると次のようになる。

トム・ハンクス
①グース医師(悪)
②ホテルの支配人(中立)
③アイザック博士(善)
④ダーモット(悪)
⑤映画中のティモシー・カベンデッシュ(中立)
⑥ザックリー(善)

ハル・ベリー
①マオリ族の女性(中立)
②ジョカスタ・エアズ(悪)
③ルイサ・レイ(善)
④出版パーティの女性客(中立)
⑤闇医者オビッド(悪?)
⑥メロニム(善)

 それぞれ同じ順番で繰り返している。偶然と言えばそれまでだろうが、意味がありそうでもある。

■注意

 ⑤ソンミ451のエピソードと⑥ザックリーのエピソードの残酷描写がなかなかえぐい。私はもともと低血圧症で、「ハンニバル」の終盤で低血圧を起こしたことがある。今回も低血圧を起こしてしまった。満員の劇場だったので大変だった(笑)。隣で見ていた息子は平気だったので、私だけの問題かもしれない。

2013年3月23日土曜日

幸福は得るものでなく、気づくと持っているものだ

なぜ目標にまっすぐ向かわない人のほうが目標を達成できるのか?

 この記事の「幸福」に関する記述が面白い。
 幸福とは、それそのものを追い求めても得ることができない。しかし他の何かの目標に集中している時、その人は幸福なのだ、と。

 確かに、幸福は得ようと思って得られるものではないかもしれない。

 例えば金持ちになれば、結婚すれば、家を建てれば、昇進すれば、今より幸福になれる気がする。しかしそれらの「れば」が叶うと、また別の「れば」が出てくるのはないか。金持ちというのも曖昧で、資産がいくらあればいいのかわからない。庶民の感覚で言えば一億円もあれば十分な気がするが、きっと一億円手にしたら、もう一億円欲しくなる。結婚などは、結婚した後の方が重要だということを既婚者なら皆知っている。

 幸福とは到達点ではなく、いつの間にか経過しているものではないだろうか。

 実は私は、ある障害を抱えている。そのせいで長年苦しみ、葛藤し、涙してきた。なんとか克服したいともがいてきたが、克服などハナから不可能である。
 では私の人生の全てが不幸だったかというと、そうでもない。
 障害を忘れて楽しんだこともたくさんあるし、幸せを感じたこともたくさんある。「あ、今って幸せじゃん」と不意に気づくこともある。

 自分の障害に対する見方も、子どもの頃に比べてずいぶん変わった。子どもの頃は「何とか克服しなければならない」という強迫観念にとらわれていた。しかし少しずつ、「あるがままを受け入れるしかないし、その方が楽だ」と思えるようになってきた。
 ずいぶん苦しんだし、今も続いているけれど、この心境の変化は私にとって救いだ。

 この変化は私にとって、筆者の言う「回り道のアプローチ」と同じようなものだったと思う。

 苦しむことを推奨するつもりはない。精神論や根性論を私は好まない。
 しかし避けられない苦しみを通してのみ、開ける視界というものがあるのも確かだ。

 そこを通る人は、もっと多くの幸福を感じられるようになるのではないかと私は思う。

2013年3月22日金曜日

社会人も100点でなくていい

「学生は80点とっても褒められるが、社会人は100点とって当たり前だ」
 営業職の人と話すと、よくそんなセリフを聞く。一理あると思うが、どうもしっくりこない。
 学生時代どれだけ頑張っても100点とれなかった人が、就職したら100点とれるようになるとも思えない。

 ここで言う100点とは、「完璧な仕事」を意味するらしい。この「完璧」というのが気になる。

 書類を作る、製品を作る、商談をまとめる、管理する、何かを改善する等、仕事の種類は無数にある。が、それらの仕事は何をもって完璧とされるのだろうか。

 もちろん簡単な書類作成とかなら、完璧かどうか可視化しやすい。締切までに、過不足なく内容をまとめ、誤字脱字もなく、指定の形式で提出できれば、それは100点かもしれない。

 しかし例えば、心停止した患者の蘇生を試みる場合、救急救命のスタッフ全員が最善を尽くし、一切ミスがなかったとしても、蘇生できないことがある。その場合「仕事は完璧でした」と言えるだろうか。たとえば心臓マッサージのペースが少し違っていたら救命できたかもしれないし、電気ショックの電圧やタイミングが違っていたら救命できたかもしれない。
「そんな偶然性まで計算できない」と言うだろうが、点数をつけるなら0点だ。少なくとも遺族にとってはそうだ。

 これを先ほどの書類作成の例に当てはめてみる。
 例えばそれが企画書だとする。書類は完璧にできた。しかしその企画は通らなかった。すると、その仕事は結局0点になるのではないか。

 この「社会人なら100点とって当たり前」を使う人々は、何をもって100点と判断するのだろうか。

 私の周囲にこれを言う人間がいないから何とも言えないが、どうも主観的なもののように思える。それも仕事内容というより、気配りやら礼儀やらができていない部下をいじめたいだけのようにも思える。
「社会人ならこれくらいできて当然」という基準が自分の中にあって、それを完璧に満たせば100点というふうに、部下に一方的に自分の基準を押し付けているだけではないだろうか。

 仕事には成功も失敗もあるだろうし、成功にも質や量があるだろうし、失敗にも次につながる失敗もあるだろうから、そもそも「100点の仕事」という概念は成り立たないと思う。

 つまり「100点とって当たり前」の100点というのは、その上司にとって100点というだけのことだ。そんな採点なんか必要ないし、当てにもならない。

 自分が働く価値を見出してさえいるなら、それに誠実に取り組んでいけばいい。

「辞めるか辞めないか」

 この記事を読んでみて、そんなことを思ってみた。
 もちろんこの投稿者の方には、何の役にも立たないだろうが。

2013年3月20日水曜日

一日に何度も礼拝しなければならないのか

 日本のプロテスタント教会の多くが、毎週日曜に礼拝をしている。
 教会によっては午前と午後で2回礼拝したり、あるいは3回礼拝したり、諸事情あるだろう。

 私の教会は、多い時期で1日3回礼拝していた。私はスタッフだったので、当然のように全ての礼拝に出席していた。だから日曜日は、家族そろって朝から晩まで教会にいた。

 私の教会は昨年8月に解散になった。その後しばらくの放浪期間を経て、今は伝統的なプロテスタント教会に通っている。そこも午前と午後で1回ずつ礼拝している。私は週によって午前に出席したり、午後に出席したり、いろいろだ。
 
 そこに何週間か通い、気になったのは、午前と午後の両方に出席している人が多いということだ。確認したが、強制的ではないという(当たり前だ)。
 それで、自分の今までの姿を思い出させられた。そういえば自分も同じだったと。

 私の教会で日に3度礼拝があった時、正直言うと、私は全ての礼拝に出席したいとは思っていなかった。
 ではなぜ出席したのか。考えるといくつか理由がある。
①不信仰に思われたくなかった。
②M牧師に何と言われるか心配だった。
③「敬虔なスタッフ」のイメージを崩したくなかった。
④コミュニティが出来上がっていて、外れることがためらわれた。

 神様と全然関係ない理由である。
 恥ずかしながら、事実である。

 聖書は礼拝について、日曜日に捧げなさいとは言っていない。
「安息日を聖としなさい」という言葉があるが、ユダヤ人の安息日は土曜日である。日曜日はイエス・キリストの復活の日で、それを記念して礼拝するようになったという歴史がある。
 また、週に一回とも言っていない。「使徒の働き」には毎日礼拝していたという記述がある。また、ユダヤ人の慣習として日に何度か定時に礼拝していたようでもある。

 ここで注意したいのは、聖書は礼拝の曜日も、場所も、回数も、形式も一切指定していないということだ。つまり、礼拝は自由に捧げていいものなのだ。

 前述の、一日中教会にいて何度も礼拝するから特別に敬虔なのでもないし、一度しか礼拝しないから不信仰なのでもない。神様はそのことで優劣を付けない。優劣を付けたがるのは人間だけだ。

 自分が教会に礼拝しに行く理由は、いつも吟味しなければならないと思う。
「出席しなければ〜と思われる」という思いがあるとしたら、それは神様を喜ばせるものではないから。

リーダーに求められるもの

「リーダーシップ」に関する本が近年たくさん出版されている。ネットにも関連記事が多く掲載されていて、簡単に読むことができる。
 しかしそれらの記事の数に比例して多くの種類のリーダー像があるのかというと、そうでもないようだ。方法論やアプローチは種々あれど、それらはだいたい同じような方向を目指しているように思える。

 私はM牧師の一件以来、リーダーなる人物を警戒して見るようになっている。特に自分に関係のあるリーダーならばよく観察せずにいられない。
 また、リーダーとどう関わるかも注意しなければならないと思っている。リーダーだからいつも正しい、いつも従わなければならないとはもちろん考えないし、時に反対したり制止したりする必要もあると思う。フォロワーがリーダーをチェックするべきとも思っている。

 様々な本や記事が示唆する共通のリーダー像は、私がM牧師を反面教師として描きつつあるリーダー像に近いように思う。
 すなわちリーダーの資質は、能力や才能でなく「品性」にあるということだ。

 優秀だが品性のない人物と、無能だが品性の高い人物とがいたとしたら、私は後者をリーダーとして認めたい。

 何をもって品性の有無を判断するかは、いろいろ項目があると思う。
 また「品性を養う」という言葉がある通り、品性は徐々に身につけていく種類のものだと思う。今の状態だけでなく、今後の可能性も考慮すべきだ。
 といっても年長者だから品性があり、年若いから品性がないということでもない。

 それはつまり、品性を養える人と、養えない人がいる、ということだ。
 品性を養える人は、若くても立派なリーダーになる。

 品性を養えない人の特徴は、その頑固さにある。彼らは人の話を聞けないし、人の気持ちがわからない。そしてそのことを決して認めようとしない。

「あんたは~だ」と言われて「何を!」と反論したことは誰にもあるだろう。しかしそれは子どもの頃だけで十分だ。
 品性を養う資質のある人は、そこで「そうかもしれない」と自己点検ができる人だ。「少なくともこの人はそう思っている。自分にそう思わせる何かがあるのかもしれない」と内省できる。
 これは、言われたことに何でも同意するのとは違う。
「自分のことは自分が一番よくわかっていない」という事実を理解していて、「自分はまだまだ誰かに諭してもらう必要がある」という健全さを保っている証拠だ。

 もちろん、求めるリーダー像は人それぞれだ。気持ちなんてわかってもらわなくて結構、という人はいるだろう。面倒な話はいいから指示だけしてくれ、という人もいるだろう。
 それはそれで自由だし、何も問題に感じないなら結構なことだ。

 一般社会ならそれでいいと思う。
 しかし残念ながらキリスト教団体の中に、前述の「あんたは~だ」に「何を!」とムキになって怒るリーダーたちがいる。
 彼らは聖書に基づいたリーダーシップを持つべき立場にいるが、「権力を振るってはならない」という聖書の命令をまるで理解していないようだ。
 その証拠に、彼らの口癖は「私がリーダーだから私に従え」である。

 何ができなくてもいいから、リーダーには品性だけは持っていてほしい。
 神は必ず、聖書に沿わないリーダーを裁かれるから。

2013年3月19日火曜日

いつまで子どもを囲い続けるのか

ホームスクールを支援する団体が、いくつかある。

その中のある団体は、主に中高生の学習をサポートをしている。中学高校は勉強内容が高度になるため、ホームスクールといっても両親が教えるには限度がある。だから週に何度か、塾のような形でその団体がサポートするのだ(単純に塾に行かせればいいと思うのだが、やはりホームスクールに携わっているクリスチャンに教えてほしいらしい)。

そんな彼らのところに来る子たちの一部は、一般の大学に進学しようと頑張っているという。
ホームスクールで育った子たちが、一般の大学で活躍するのは良いことだと思う。彼らが立派に育った姿を見せることが、ホームスクールの存在意義を証明する一番の方法でもあるからだ。

しかし、その団体のスタッフの話を聞いて驚いたことがある。
大学を作ることを考えている、というのだ。もちろん、普通の大学ではない。ホームスクーラーが安心して進学できる、クリスチャンのための大学という意味だ。

日本でホームスクール、チャーチスクールが広がり始めたのは十数年前。当時小学生だった彼らの子たちはちょうど高校生、大学生になっている。
小学生のうちは大きな問題もなくホームスクールができたかもしれない。しかし中学、高校になっても家や教会の中で過ごさせ、今度は大学生活も自分たちの囲いの中で過ごさせようというのだ。

いつまで、子どもたちを囲い続けるのだろうか。

大学を用意したら、今度は就職先まで用意するのだろうか。

もしそうだとしたら、その子たちはいつ、親や教会から自立できるのだろう。
「この世は汚れている」と教えられ続け、一般社会の良さも悪さも何も知らないまま大人になってしまったら、もはや社会に出て行けなくなってしまうのではないだろうか。

それを聖書教育と言うのは違うと私は思う。
健全な聖書教育には「宣教」の要素が不可欠だ。この世の中に広く出て行って、聖書のメッセージを正しく伝えるのがクリスチャンの使命だからだ。それをできなくさせる教育は、少なくとも聖書教育とは言わない。

かつてオウム真理教は「サティアン」と称する訓練施設を作り、そこで信者の大人も子どもも宗教教育に漬からせていたという。それと同じ原理をここに感じてしまうのは、私だけだろうか。

「可愛い子には旅をさせよ」とはよく言ったものだ。子を心配する親の気持ちはよくわかるが、子を信頼し、野に放してみるのも親の務めだと思う。
子は想像以上にたくましいし、ほとんどの親は、彼らより永くは生きられないのだから。

2013年3月18日月曜日

なぜ死んではいけないのか

『なぜ死んではいけないの? 回答編』(悩みのるつぼ)

 上記の記事を読み、考えさせられた。
「死んではいけない」というのは一見当たり前のようだが、なぜいけないのかは、確かにあまり論じられていないと思う。日本においては、論じることさえタブーのように思える。
 おそらく多くの人が、特別教えられることもなく、自殺は悪いことだと認識しているだろう。なぜかという理由を明確に言えないにしても、「悪いものは悪い」としか表現できないような、何か原則的なものを感じているのではないだろうか。

 この記事の相談者の訴えは、そんな「うまく言えないが原則的に悪いと決められているような事柄」を思い出させる。
 例えば、「なぜ盗んではいけないのか?」「なぜウソをついてはいけないのか?」「なぜ殺してはいけないのか?」
 いけないのはわかっているが、改めてなぜかと聞かれると、答えに窮する。

 それらの問に明確に答えられない私たちが、自殺を考えている人を説得しようとしても、最後は「私の命なんだから私の勝手でしょ」「誰にも迷惑かけてないでしょ」という答えの前に、太刀打ちできなくなってしまう。
 無理に答えようとすると、「生きたくても生きられない人がいるんだから」とかいう役に立たないキレイ事が出てしまうかもしれない。

 私は自殺反対派だが、その理由の一つはクリスチャンだからだ(後述)。もう一つは、恐くて自殺できそうにないからだ。
 私はインフルエンザの検査で綿棒を鼻の奥に差されるのも嫌だ。だからそれより激しい痛みを自分自身に課すなんて、とてもできないと思う。
 あるいはそれは、「死んだ方がましだ」と思える程の苦しみに、まだ遭ったことがないからかもしれないが。
 そんな私がクリスチャンとして、自殺問題に唯一言及できるのは、次の部分のみだ。

 命は自分のものなのか、あるいは自分のものでないのか。

「私の命を私がどうしようと勝手だ」という言い分はよくわかるが、その前提の部分の話になる。

 おそらく、生まれようと自ら意識して生まれてきた人は一人もいない。この自分、今の自分になろうとして生まれることは不可能だし、両親もそれをコントロールできない。日本語には「生まれた」という自動詞があるが、英語で表現すると"I was born"で("born"は他動詞)、直訳すると「私は生まれさせられた」となる。
 この表現は、命の何たるかを端的に言い当てているように思う。

 私たち人間は、ある「意思」によって生まれさせられ、生かされている、と私は信じている。
 もし自分の意思でなら、もっと違う自分を選んだのではないかと思う。違う時代、違う国、違う外見、違う性格、違う境遇・・・。しかしそうできなかったのは、偶然ではなく、誰かの「意思」なのだ。
 私はその「意思」を神と呼んでいる。神は私たち人間を愛しているので、それぞれに特徴を与え、目的を与え、人生を与えた。そしてそれを精一杯生きてほしいと、私たちに願っている。

 そう考えると、命は私たちのものではないということになる。自分のものでない以上、勝手に扱うことはできない。
 何でも預かっている物は、それを預けた人の意に沿うように扱うべきだろう。

 もちろん、私はキリスト教の押し売りをするつもりはない。
 本当に自殺したい人には、何の役にも立たない御託でしかないだろう。それを承知で書かせてもらった。
 

2013年3月15日金曜日

何を根拠に信じるのか

■前提:クリスチャンは何を信じているのか
 クリスチャンと言われる人々は、神様を信じている。神様が全世界を創り、人間を創り、今も全てを治めていると信じている。私もその一人だ。
 そして、神様が私たち個人の生活に、実際的に介入して下さるとも信じている。つまり神様は今もリアルに生きていて、私の悩みも全部知っていて、見えないが何らかの形で助けて下さる、と信じているわけだ。
 それがクリスチャンのクリスチャンたる所以であろう。それがなければ信仰の意味がないように思う。

 しかしその信仰の在り方については、全てのクリスチャンが、よくよく注意しなければならないと私は思っている。

■私が見たおかしな信仰
 あるキリスト教団体が、経営難に陥っていた。ある事情で収支が逆転してしまい、赤字が続いていたのだ。何らかの改善が急務だった。

 当時、私は辞める間際だったが、その団体の経営陣の一人だった。最後の奉公と思い、いろいろ可能性を探ってみた。しかしやはり、事業規模の縮小以外にないと思った。
 ピンチの時こそ拡大すべき、という経営戦略もあるようだが、その団体には適応できなさそうだった。職員と顧客の両方が深刻に不足していて、新しいことを始める余裕はなく、それどころか現状維持さえ困難だったからだ。

 というわけで私は、団体の本体となるテナントを一つだけ残し、あとの賃貸物件を全て手放すという縮小案に賛成した。それでも不十分だったが、改善の第一歩として最善だと思った。

 しかし経営陣の何人かは、拡大路線を主張した。
 彼らの一人、新しくリーダーになったGは、「顧客が必ず増えると信じている」と言う。神様が顧客を与えて助けて下さる、だから大丈夫だ、と。

 それを「信仰」ととるか、「無謀」ととるか。

 結局彼らは、拡大路線を選択した。
 手放すはずだった物件を借り続け、さらにお金をかけてリフォームまでし、顧客募集の広告をクリスチャン新聞に掲載した。立派なホームページも作った(実情とのギャップが大きかったが)。
 彼らのそういう営業努力を横目で見ながら、私は経営陣から身を引いた。
 
 それから二ヶ月後、結局、顧客は更に減少した。連鎖反応的にスタッフも減った。
 細かい数字はわからないが、赤字額が増えたのは言うまでもない。

 ここへきて、彼らはやっと縮小という道を選んだ。居所の移転も考えているらしい。それでも今後、経営が成り行かなくなる可能性は高い。

 Gとはそれから話をしていない。「顧客が必ず増えると信じている」という根拠は何だったのか。
 

■何が間違っていたのか
 私は信仰を否定しないし、神様が実際に働かれることも否定しない。
 しかし「信仰」と「無謀」は明確に区別しなければならないと思っている。
 ルカの福音書14章28節には、「家を建てようとする者は、完成に必要な費用を計算し、払えるかどうかをまず考える」ということが書いてある。つまり「しっかり計画してから始めなさい」という意味だ。
 しかしこれは、一般社会ではごくごく常識的なことだ。わざわざ聖書から教えられるまでもない。ではなぜクリスチャンたちが、この常識を無視してしまうのか。

 理由の一つは、聖書に書かれている数々の奇跡が、無謀とも思える行動の結果であることが多いからだ。例えば、たった300人で何万人もの敵に立ち向かって勝ったとか、水の上に足を踏み出したら歩けたとか。
「無謀な挑戦に神様は勝利をもたらして下さる」「不可能を可能にして下さる」というメッセージにだけ注目してしまうと、前述の「しっかり計画しなさい」を無視することにつながる。

 そこに、信仰と無謀の混同が生じる。

 何かをしようとする時、私たちはその動機が本当に「主のため」かどうか吟味すべきだし、最後まで完成できるかどうか、方法が正しいかどうか、よく計画すべきだ。

 しかし、繰り返しになるが、これは一般社会では当たり前のことだ。今更言うことではない。それがわからないとしたら、クリスチャンは甘いとか非常識だとか言われても、それは仕方がないというものだ。

2013年3月14日木曜日

「この世から脱出」しなければならないのか

 ホームスクーラーやチャーチスクーラーの集まりや、彼らの機関誌などの中に、「この世から脱出」というような表現を目にすることがある。「汚れた世俗から我が子を救い出し、安全な我が家や教会で、子どもたちに聖書教育を施そう」という意味だと私は認識している。

 その気持ちはわかるし、彼らの多大な努力や犠牲に、私は敬意を持っている。
 私自身もチャーチスクールで長年教師をやらせてもらったし、私の子どもがチャーチスクールで過ごした年月も短くない。そこには一定の価値があったと思っている。

 そのうえで書くが、「この世から脱出」という表現の背景には、「この世=悪」「公教育=悪」という図式があるように思えてならない。
 その根拠に、彼らの中には「公立学校に入れたら子どもがいじめに遭う」「子どもが堕落する」と信じ切っている人々がいる。まるで普通の学校は、十代の可愛い顔をした狼たちで一杯で、いつも攻撃する対象を探し求めているかのようだ。

 公立学校に行ってみたらわかる。ほとんどの子は礼儀正しく、親切で、若さに応じた常識をわきまえている。ハナから悪いことをしようなんて思っていない。
 もちろん問題児はいるし、いじめだってある。
 しかしその一部の為に、他の全てを「悪」と決めつけるのは乱暴な話だ。

 公教育にはメリットもたくさんある。
 文部科学省の保護があるから、小学校から助成を受けられる。高校は基本的に無償だし、高卒という学歴を持つことができる(高卒認定試験合格者には◯◯高校卒業という学歴はない)。大勢の同級生がいれば、ウマの合う子も合わない子もいて、宿敵ができれば親友もできる。

 公立学校のそういう旨味は、最大限利用すべきだと私は思っている。
 それに、人間関係で苦労するだろうが、ホームスクール、チャーチスクールの狭い環境の中で苦労が少ないよりは、全然良いと思っている。

 と言っても、私はホームスクール、チャーチスクールを否定しようとも思わない。
 ある子にとってはそれらが必要だ。いろいろな事情で、集団の中で学習できない子や、頑張っても付いていけない子がいる。特別に注目されなければならない子もいる。そういう子たちは公立ではやっていけないことが多い。

 要は、親にとって何が良いかでなく、その子にとって何が良いかだろう。
だから「この世は悪い」「公教育は汚れている」と上から目線で決めつけてのホームスクールやチャーチスクールであってほしくない。「自分たちの方が優れている」というスタンスは、傲慢以外の何ものでもない。

 それに、子どもは遅かれ早かれ、その「この世」へ出て行くのだ。ホームスクーラーがどれだけ子どもを囲っても、大学や大学院や職場を、自分たちだけで提供することはできない。
「それまでに子どもを立派な信仰の持ち主に育て上げればいい」と言うなら、それで結構だ。是非、自分たちの努力の結果を試してみてほしい。
 その結果の責任も当然負われるのだろうから。


2013年3月9日土曜日

全力で伝道すれば救われる?

 あるキリスト教団体のスタッフが、結婚することになった。
 その時、周囲のクリスチャンたちで、ちょっとした議論になった。発端は、その結婚相手がノンクリスチャン(未信者)だとわかったことだった。つまり信者と未信者の結婚の是非について、討論が行われたわけだ。

 私はそのスタッフを個人的に知っていて、結婚相手が未信者であることも知っていた。が、あれこれ言う気はなかった。信仰を分かち合えない夫婦関係は大変だろうが、本人たちがそれでいいのなら、反対しても仕方ないからだ。それに大人なのだから、自分たちで決めるべきだし、その責任も取るべきだと思う。
(私自身は、同じ信仰を持つ者どうしで結婚するのがベストだと思っている。)

 しかしそう納得できない人たちもいた。前述のクリスチャンたちだ。彼らが気にしていたのは、「キリスト教団体のスタッフなのに」という点だ。一般の信者ならともかく、キリスト教を標榜する団体の一員がそんなことでどうする、と。

 それに対する反対意見、つまり結婚賛成派もいたので、議論になった。賛成派は、「結婚相手がそのうち信者になるかもしれないから認めるべきだ」と主張した。
 
 何時間にも及ぶ議論に発展し、その後もメールのやり取りがしばらく続いた。が、両者の主張は一歩も譲らず、平行線のままだった。その後私は関わっていないが、おそらく平行線のままだろう。

 信者と未信者との結婚について、聖書は「容認」していると私は解釈している。
 確かに「つり合わないくびき」という聖書箇所を使って、未信者との結婚を禁ずる教会もあるようだ。その言い分もわかる。私も配偶者が未信者だったらきっと大変だったろうと思う。
 しかし一方で、未信者どうしの夫婦の片方が、ある時信者になる、という可能性もある。そうなれば信者と未信者のカップル誕生である(前述の教会は、彼らを離婚させるのだろうか)。
 聖書もそれを想定して、次のように言っている。

「ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 」(コリント人への第一の手紙 7:12 JA1955)

 未信者が信者の信仰を尊重しているなら、夫婦でいて良いという意味だ。
 というわけで、私は至ってシンプルに聖書を解釈し、信者と未信者の結婚も「あり」だと思っている。
 ただし、それがクリスチャン団体のスタッフとか、牧師とかだと、確かに話が違うようにも思う。例えば牧師が「未信者と結婚します」と言い出したら問題視されるだろう。聖書はそれを「容認」しているのであって「推奨」しているのではなく、彼ら教職者は一般信徒より高い基準で聖書を実践しなければならないと思うからだ。

 それはそれとして、議論の中で一つ、非常に気になることがあった。賛成派のある牧師がメールで打った言葉だ。

「私は全力で(結婚相手に)伝道し、信仰告白に導きます」

 その言葉の真意が何なのか、機会があればお聞きしたい。私には「私が頑張れば入信させることができる」と言っているようにしか思えなかった。

 聖書はこう言っている。
「妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。」 (コリント人への第一の手紙 7:16 JA1955)

 未信者である結婚相手が信者になるかどうかはわからない(保障されていない)、という意味だ。
 つまり前述の牧師の「私が頑張れば入信させられる」という主張は、聖書に反していることになる。

 その牧師が単なる努力目標として掲げたのなら、まだ話はわかる。しかし「私がやれば大丈夫だ」とでも思っているとしたら、それは傲慢というものだろう。「教師は格別厳しい裁きを受ける」と聖書は言っているのだから、特に牧師はよくよく注意して物を言わなければならないだろう。

 そんな周囲の議論はさておき、そのスタッフは無事に結婚式を挙げた。
 相手の未信者の方は体育会系のノリで、披露宴の中で何度も「一気飲み」を披露していた。クリスチャンとしてはタブーの行為だが、その人にはもちろん関係ない。
 私はその一気飲みの様子よりも、それを見ていた列席のクリスチャンたちの表情の方が気になってしまった。どんな気持ちなのか推し量ることはできなかったが。

2013年3月8日金曜日

卒業後の子どもの信仰を不安がる理由

 日本で3月といえば、一般的に卒業の時期である。
 私が関わっていた某チャーチスクール(現在は体制が変わってチャーチスクールではない)でも最近、卒業式があった。
 この時期、卒業生の父兄が必ずといっていいほど口にするのが、「卒業しても(子どもが)信仰を維持できるか不安です」というような言葉だ。皆が皆そうではないと思うが、そう言う人が多いように思う。

 以前なら私も「うん、心配だな」と思っていた。
 しかし牧師の不祥事や教会の解散、その後の様々な葛藤を経た今、教育に関しても違う見方をするようになった。そして、今回の卒業式でも父兄から前述と同じ言葉を聞かされた時、違和感を覚えた。
 

 チャーチスクールに子どもを入れる父兄の思考は、多くが以下のようであろう。
「子どもに聖書に基づく教育を受けさせたい」
「クリスチャンに囲まれた環境で、信仰を成長させてほしい」
「同じクリスチャンの友人と付き合ってほしい」
 そしてチャーチスクールに入れた結果、おそらくは、ある程度の成果を見ることができる。毎日礼拝したり聖書を学んだりするのだから、当然だろう(その分学習レベルに問題が生じやすくなるが)。
 そこで何年か過ごし、卒業する。
 その時父兄はこのように思う。「今までクリスチャンに囲まれた環境だったから良かったが、そうでない環境に入った時、果たしてうちの子どもはどうなるのだろう」
 そして不安になる、ということだ。

 その思考の前提には「チャーチスクールなり教会なりに任せておけば安心だ」という他力本願主義がある。
 だからそこを出てしまうと、任せる相手がいなくなってしまう。そして困ってしまう。
 これは、私に言わせれば、公立の学校に子どもを任せっぱなしにするのと同じだ。チャーチスクールはもともと「子どもの教育を公立に任せっぱなしにするのはやめよう」という思想から出発したはずだから、本末転倒というものではないか。

 もう一つには、チャーチスクールが信仰を成長させる保障にはならない、という前提もある。チャーチスクール自体にも問題は多いが、たとえスクールが完全に機能したとしても、それぞれの子どもにとって良い教育になるかどうかはまったく別問題である。

 子どもの教育の最終責任は保護者にある。当たり前のことだ。
 だからどこを卒業しても、どこに進学しても、その後の子どもの歩みやら信仰やらの監督責任は、親にある(もちろん、それにどう応えるかは子ども次第だが)。
 だからチャーチスクールに入れたのだ、と言うのなら、そのスクールで子どもがどう過ごし、卒業してどう歩むかも、責任を持つべきだろう。不安がっていても仕方がない。

 現在日本のクリスチャンの子どもには、公立学校、私立学校、チャーチスクール、ホームスクールなど、いくつかの選択肢がある。そのどれが良いとか悪いとか、一括りに言うことはできないだろう。しかし確実に言えるのは、どれを選択したにせよ、大切なのは「親が子どもにどう関わるか」ということだ。

2013年3月2日土曜日

The Bourne Legacy

邦題「ボーン・レガシー」(2012年アメリカ)

■概要
 ジェイソン・ボーンを主人公にした「ボーン・アイデンティティ」シリーズの第4作に当たるが、主人公をジェレミー・レナー演じるアーロン・クロスに変えた作品。企画当初はマット・デイモン演じるジェイソン・ボーンが主演だったが、諸事情により降板となった。今後ボーンの復帰もあり得るので、本作は「ボーン・アルティメイタム」と同時進行のストーリーになっている。

■あらすじ
 ジェイソン・ボーンとCIA内部調査局のパメラ・ランディが「トレッド・ストーン計画」を告発しようと活動している背後で、国家調査研究所は告発の拡大を防ごうと暗躍していた。CIAが「トレッド・ストーン計画」の他に進めていた「アウトカム計画」の被験者を、暗殺し始めたのだ。
 アラスカで訓練中だった被験者のアーロン・クロスは難を逃れるが、認識能力の維持には定時の服薬が必要だった。
 同じころ、被験者の管理をしているモルランタ社でも関係者の殺害が始まっていた。研究員のマルタは九死に一生を得るが、自宅でも刺客に襲われる。彼女を助けたのは、薬を求めて彼女を追ってきたアーロンだった。
 アーロンはマルタから、薬がなくてもウィルス感染で認識能力を半永久的に獲得できると知る。それにはフィリピンの工場に行く必要があった。彼らは追手の追跡を逃れつつ、マニラに向かう。

■二番煎じ、三番煎じ
「ボーン」シリーズの定石は、外国で逃避行を続ける主人公が知恵と力で組織に立ち向かい、刺客に打ち勝ち、黒幕にギャフンと言わせる、というものだ。前3作で同じことを3回やって飽きられなかったのは、主人公の記憶が徐々によみがえり、作品ごとに新事実が明かされる、という設定にしたからだ。
 しかし本作では、記憶ネタはない。キャラが一新されたのは確かに変化だが、それだけで定石通りにやってしまった。つまり主人公の逃避行、組織との攻防、刺客との戦い、である。新しい刺客を立てるために「ラークス計画」なるものも登場する。どんだけ計画あるんだよ、と言いたくなった。

■エンターテイメントとしては
 
 アクション映画として楽しむことはできるかもしれない。序盤の無人機との戦いのあたりは良い。しかしほとんどのアクションは見飽きた感のあるものばかりだった。マニラの狭い壁面をアーロンが飛び降りる、CMでも有名なシーンは確かにすごいが、あのシーンくらいだ。唯一の見せ場をCMでやってしまってはダメだろうと思った。
 ラークス計画の刺客は、最近映画で見るルイ・オザワという人だ。日本と台湾のハーフらしい。「プレデターズ」の日本マフィア役の時と同じような出で立ちで登場していた。出番は意外に少なかったが。

■その他
 アーロン・クロスはジェイソン・ボーンより優れた工作員とされているようだが、正直、ボーンの方が知的だし、強いように見える(本作ではボーンは写真でのみ登場)。

 マルタ役は見たことあるなと思っていたが、「ハムナプトラ」のエヴリン役のレイチェル・ワイズだった。

 オリジナルシリーズのマット・ディモンと監督のポール・グリーングラスには是非復帰してもらいたい。
 本作とは関係ないが、このシリーズで特に面白いのは、2作目「スプレマシー」の結末が3作目「アルティメイタム」の中盤であるというトリックだ。2作目のハッピーエンドの平和なシーンが、3作目では作戦中の緊迫したシーンなのである。

弟子訓練に口を出すな?

 2010年の4月、私の教会で神学校が始まった。
 以前にもあったが、生徒がいなくて休止していたのだ。
 2011年の4月にも入学生があり、それなりの規模になった。
 牧師はその神学校の代表であり、主任教師だった。ほとんど全ての講義を牧師が担当し、生徒たちのメンタルケアもしていた。他の牧師たちはパートタイムで、一部の神学を教えるだけだった。
 生徒たちはというと、ほとんどが私たちのチャーチスクールの卒業生だった。また同じ教会員でもあった。ほとんどの子は、私も幼い頃から知っている。
 
 つまり多くの生徒は、教会で育ち、小中学生のうちからチャーチスクールに入り、高校もそこで過ごし、さらにその後も教会で仕えていく。そしてその全てを指導するのは、牧師だ。
 彼らにとって牧師がどれほど大きな存在か、想像できるだろうか。

 牧師はそれを「弟子訓練」と呼んだ。生涯をかけた訓練だと。

 現在「弟子訓練」を巡る議論も起こっているようだ。
 私は弟子訓練そのものを否定しようとは思わない。イエス様と弟子たちは師弟関係にあり、広義には弟子訓練と位置づけられるだろうからだ。しかし現在日本の一部の教会が言っているような「弟子訓練」が聖書的なのかどうか、疑問である。その在り方は、よくよく吟味されなければならないと思っている。

 2011年3月11日、東日本大震災が起こった。
 それ以降、教会は被災地支援の活動にほぼ全精力を傾けた。神学生たちは専属のスタッフとなり、チャーチスクールの生徒たちもボランティアに駆り出された。
 支援活動としては、一定の成果を上げたと思う。日本中から届いた支援物資を、被災地に届けることもできた(決して十分な量ではなかったが)。私も初期の頃は現場にいたが、本当に大切な体験をさせてもらえたと思っている。

 その間、神学校は事実上の休止状態になった。
 牧師は「これは実践神学だ。実践のない学びでは意味がない」とよく言っていたが、当時は実践だけで学びがない状態だった。
 それでも3月から4月にかけては、被災地支援は優先されるべきだったと私も思う。一ヶ月経っても地震当日のままの状態で、途方に暮れている現地の方がたくさんいた。何かできるならすべきだと思った。
 しかし神学校をどう扱うかは、それとは別問題だったろう。彼らは学びに来ているのだ。緊急事態に一時的にカリキュラムがストップするのはやむを得ないとして、それが恒常的に続くのは問題だ。

 しかし被災地支援は、次第に姿を変えていった。
 5月には復興支援と銘打ったコンサートを開き、子ども向けのイベントも定期的に行うようになった。被災者のインタビュー映像を収録したり、例のI市の施設取得に向けて方々に出向いたりした。青年向けの大規模な大会まで計画し始めた。

 それらの行為は、そのものは悪くない。かえって良いものだろう。
 問題は、それらを全て神学生にやらせていたことだ。彼らは「被災地支援」という緊急事態の思考のまま、いつのまにか、ほとんど被災地と関係ないことに全時間を費やすようになってしまっていた。神学の講義などほとんどない。来る日も来る日も実務に追われ、夜は深夜までミーティングに参加しなければならない。休もうものなら呼び出され、怒鳴りつけられる。
 しかし誰にも、それを止められなかった。それどころか、誰もその状況を認識さえできていなかった。牧師が全てをコントロールしていたからだ。

 2011年の秋のある夜のこと。ある神学生が体調を崩していた。しかし夜のうちに、牧師と一緒に出掛けることになっていた。出発の直前、ある信徒が偶然、その神学生に会った。まだ回復していない様子だったので、「無理しないで休んだらどうか」と助言した。
 その神学生は、「先生に言ってみます」と答えた。
 その直後、その信徒に電話があった。牧師からだった。牧師は電話越しに言った。
「神学生に余計なことを言わないでくれ。私の弟子訓練に口を出すな」

 体調が悪くても連れて行くのが訓練なのだろうか。だとしたら「戸塚ヨットスクール」と同じ発想である。

 牧師は、自分の判断が唯一絶対に正しいと思っているようだった。特に弟子訓練に関して、他者の意見を聞き入れなかった。

 2011年の冬、海外から宣教師がやってきた。教会創立当初から、定期的に関わって下さっている方だ。その時だけは神学校の講義が再開された。その宣教師が英語で語り、牧師が日本語に通訳する。
 その宣教師本人から確認したことだが、その講義で「休むことは必要だ」という話をしたそうだ。しかし牧師はそれを訳すとき、「これは海外の考え方で、日本には通用しない」と付け加えたという。その宣教師は日本語を聞き取れるので、違和感を覚えたと言っていた。

 自分が良いと思うメッセージしか伝えない。それがその牧師のやり方だ。そういう指導者が統治する国があるが、どう違うのだろう。

 牧師の弟子訓練は、訓練としては徹底していて、一定の成果を見せるかもしれない。
 しかしその結果できるのは、イエス・キリストの弟子ではない。牧師の弟子だ。