弟子訓練に口を出すな?

2013年3月2日土曜日

キリスト教信仰

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 2010年の4月、私の教会で神学校が始まった。
 以前にもあったが、生徒がいなくて休止していたのだ。
 2011年の4月にも入学生があり、それなりの規模になった。
 牧師はその神学校の代表であり、主任教師だった。ほとんど全ての講義を牧師が担当し、生徒たちのメンタルケアもしていた。他の牧師たちはパートタイムで、一部の神学を教えるだけだった。
 生徒たちはというと、ほとんどが私たちのチャーチスクールの卒業生だった。また同じ教会員でもあった。ほとんどの子は、私も幼い頃から知っている。
 
 つまり多くの生徒は、教会で育ち、小中学生のうちからチャーチスクールに入り、高校もそこで過ごし、さらにその後も教会で仕えていく。そしてその全てを指導するのは、牧師だ。
 彼らにとって牧師がどれほど大きな存在か、想像できるだろうか。

 牧師はそれを「弟子訓練」と呼んだ。生涯をかけた訓練だと。

 現在「弟子訓練」を巡る議論も起こっているようだ。
 私は弟子訓練そのものを否定しようとは思わない。イエス様と弟子たちは師弟関係にあり、広義には弟子訓練と位置づけられるだろうからだ。しかし現在日本の一部の教会が言っているような「弟子訓練」が聖書的なのかどうか、疑問である。その在り方は、よくよく吟味されなければならないと思っている。

 2011年3月11日、東日本大震災が起こった。
 それ以降、教会は被災地支援の活動にほぼ全精力を傾けた。神学生たちは専属のスタッフとなり、チャーチスクールの生徒たちもボランティアに駆り出された。
 支援活動としては、一定の成果を上げたと思う。日本中から届いた支援物資を、被災地に届けることもできた(決して十分な量ではなかったが)。私も初期の頃は現場にいたが、本当に大切な体験をさせてもらえたと思っている。

 その間、神学校は事実上の休止状態になった。
 牧師は「これは実践神学だ。実践のない学びでは意味がない」とよく言っていたが、当時は実践だけで学びがない状態だった。
 それでも3月から4月にかけては、被災地支援は優先されるべきだったと私も思う。一ヶ月経っても地震当日のままの状態で、途方に暮れている現地の方がたくさんいた。何かできるならすべきだと思った。
 しかし神学校をどう扱うかは、それとは別問題だったろう。彼らは学びに来ているのだ。緊急事態に一時的にカリキュラムがストップするのはやむを得ないとして、それが恒常的に続くのは問題だ。

 しかし被災地支援は、次第に姿を変えていった。
 5月には復興支援と銘打ったコンサートを開き、子ども向けのイベントも定期的に行うようになった。被災者のインタビュー映像を収録したり、例のI市の施設取得に向けて方々に出向いたりした。青年向けの大規模な大会まで計画し始めた。

 それらの行為は、そのものは悪くない。かえって良いものだろう。
 問題は、それらを全て神学生にやらせていたことだ。彼らは「被災地支援」という緊急事態の思考のまま、いつのまにか、ほとんど被災地と関係ないことに全時間を費やすようになってしまっていた。神学の講義などほとんどない。来る日も来る日も実務に追われ、夜は深夜までミーティングに参加しなければならない。休もうものなら呼び出され、怒鳴りつけられる。
 しかし誰にも、それを止められなかった。それどころか、誰もその状況を認識さえできていなかった。牧師が全てをコントロールしていたからだ。

 2011年の秋のある夜のこと。ある神学生が体調を崩していた。しかし夜のうちに、牧師と一緒に出掛けることになっていた。出発の直前、ある信徒が偶然、その神学生に会った。まだ回復していない様子だったので、「無理しないで休んだらどうか」と助言した。
 その神学生は、「先生に言ってみます」と答えた。
 その直後、その信徒に電話があった。牧師からだった。牧師は電話越しに言った。
「神学生に余計なことを言わないでくれ。私の弟子訓練に口を出すな」

 体調が悪くても連れて行くのが訓練なのだろうか。だとしたら「戸塚ヨットスクール」と同じ発想である。

 牧師は、自分の判断が唯一絶対に正しいと思っているようだった。特に弟子訓練に関して、他者の意見を聞き入れなかった。

 2011年の冬、海外から宣教師がやってきた。教会創立当初から、定期的に関わって下さっている方だ。その時だけは神学校の講義が再開された。その宣教師が英語で語り、牧師が日本語に通訳する。
 その宣教師本人から確認したことだが、その講義で「休むことは必要だ」という話をしたそうだ。しかし牧師はそれを訳すとき、「これは海外の考え方で、日本には通用しない」と付け加えたという。その宣教師は日本語を聞き取れるので、違和感を覚えたと言っていた。

 自分が良いと思うメッセージしか伝えない。それがその牧師のやり方だ。そういう指導者が統治する国があるが、どう違うのだろう。

 牧師の弟子訓練は、訓練としては徹底していて、一定の成果を見せるかもしれない。
 しかしその結果できるのは、イエス・キリストの弟子ではない。牧師の弟子だ。

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