リーダーに求められるもの

2013年3月20日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
「リーダーシップ」に関する本が近年たくさん出版されている。ネットにも関連記事が多く掲載されていて、簡単に読むことができる。
 しかしそれらの記事の数に比例して多くの種類のリーダー像があるのかというと、そうでもないようだ。方法論やアプローチは種々あれど、それらはだいたい同じような方向を目指しているように思える。

 私はM牧師の一件以来、リーダーなる人物を警戒して見るようになっている。特に自分に関係のあるリーダーならばよく観察せずにいられない。
 また、リーダーとどう関わるかも注意しなければならないと思っている。リーダーだからいつも正しい、いつも従わなければならないとはもちろん考えないし、時に反対したり制止したりする必要もあると思う。フォロワーがリーダーをチェックするべきとも思っている。

 様々な本や記事が示唆する共通のリーダー像は、私がM牧師を反面教師として描きつつあるリーダー像に近いように思う。
 すなわちリーダーの資質は、能力や才能でなく「品性」にあるということだ。

 優秀だが品性のない人物と、無能だが品性の高い人物とがいたとしたら、私は後者をリーダーとして認めたい。

 何をもって品性の有無を判断するかは、いろいろ項目があると思う。
 また「品性を養う」という言葉がある通り、品性は徐々に身につけていく種類のものだと思う。今の状態だけでなく、今後の可能性も考慮すべきだ。
 といっても年長者だから品性があり、年若いから品性がないということでもない。

 それはつまり、品性を養える人と、養えない人がいる、ということだ。
 品性を養える人は、若くても立派なリーダーになる。

 品性を養えない人の特徴は、その頑固さにある。彼らは人の話を聞けないし、人の気持ちがわからない。そしてそのことを決して認めようとしない。

「あんたは~だ」と言われて「何を!」と反論したことは誰にもあるだろう。しかしそれは子どもの頃だけで十分だ。
 品性を養う資質のある人は、そこで「そうかもしれない」と自己点検ができる人だ。「少なくともこの人はそう思っている。自分にそう思わせる何かがあるのかもしれない」と内省できる。
 これは、言われたことに何でも同意するのとは違う。
「自分のことは自分が一番よくわかっていない」という事実を理解していて、「自分はまだまだ誰かに諭してもらう必要がある」という健全さを保っている証拠だ。

 もちろん、求めるリーダー像は人それぞれだ。気持ちなんてわかってもらわなくて結構、という人はいるだろう。面倒な話はいいから指示だけしてくれ、という人もいるだろう。
 それはそれで自由だし、何も問題に感じないなら結構なことだ。

 一般社会ならそれでいいと思う。
 しかし残念ながらキリスト教団体の中に、前述の「あんたは~だ」に「何を!」とムキになって怒るリーダーたちがいる。
 彼らは聖書に基づいたリーダーシップを持つべき立場にいるが、「権力を振るってはならない」という聖書の命令をまるで理解していないようだ。
 その証拠に、彼らの口癖は「私がリーダーだから私に従え」である。

 何ができなくてもいいから、リーダーには品性だけは持っていてほしい。
 神は必ず、聖書に沿わないリーダーを裁かれるから。

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