たとえ就活でうまくいかなくても

2013年3月28日木曜日

生き方について思うこと

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私は2012年の4月まで、あるプロテスタント教会でスタッフとして働いていた。「教会」と聞いてどういうイメージを持たれるかわからないが、まあボランティア団体の有給スタッフと考えてもらえたら妥当かもしれない。

その教会がワケあって解散となり、私は失業者となった。幸い、一般企業でバイトもしていたので、そちらの勤務時間を増やすことで、急場をしのぐことができた。関係者の皆さんには本当に感謝である。

そういうわけで夢敗れた私だが、とりあえず就活を始めてみた。

専門資格を持っているからか、転職サイトに登録すると、いくつかオファーが届いた。オファーには「面接保障」とか「一次面接免除」とか書かれている。
一社だけ応募してみた。
失礼だが、試してみたかった。
履歴書を十数年振りに書き、面接に臨んだ。私は自分を良く見せようと面倒臭いことはしたくないので、何でも正直に話した。それを素直ととられたかバカととられたかわからないが、結果は不採用。理由はわからない。

就活生の気持ちが、少しわかったような気がした。
悪い印象を与えないよう、考えうる限りの「地雷よけ」をして書類選考や面接を受けるが、いかんせん、どこに地雷があるかわからない。たとえ自分が完璧にこなしても、自分より優れていると判断される人がいたら終わりだ。

何だか「椅子取りゲーム」のようである。しかしこのゲームで勝つには、反射神経や俊敏さは必要ない。

よくわからない「何か」が必要なのだ。

そしてその「何か」がよくわからないから、皆苦労する。

「面接は、企業とのお見合いみたいのなものだ」とよく言われるが、冗談ではない。江戸時代に始まったお見合いは「結婚前の顔合わせ」でしかなく、そもそも断るなんて選択肢はなかったのだが。

その後もオファーをいただくことがあったが、どうも応募する気になれなかった。
小一時間の面接で自分の何がわかるのか疑問だし、その中でしか判断されないのも納得いかない。
人間はいろいろな局面でいろいろな面を出すものだし、能力だって短期間で判断できるものばかりではない。できそうな人がトンデモだったり、いまいちパッとしない人が意外な力を発揮したりすることだってある。成長率だって考慮すべきだ。
それに、小一時間でその企業を判断するのも難しい。というか、できない。入社してから「こんなはずじゃ」と思っても遅い。

以上のように考えると、新しく応募しようとは、どうしても思えなかった。

もちろんこれは、現在勤め先があるから言えることだ。贅沢と言えば贅沢な悩みで、就活中の皆さんには申し訳ないと思う。

就活をしている方々は、本当にご苦労だと思う。雲をつかむような戦いを強いられ、そのくせ失敗すればダメ人間とか言われかねない。同じような服装に髪型に笑顔を作り、同じようなアドバイスを受け、同じような履歴書を持って企業に立ち向かって行かなければならない。あまりに理不尽である。

「不採用」をもらうと、自分が何の役にも立たない落ちこぼれみたいに感じるかもしれない。
しかし、そんなことはない。
人は皆個性があり、特徴があり、一人として同じ人間はいない。モノの価値は希少性にあると言うが、だったら「その人らしさ」はこの世界で唯一無二の、超希少物である。絶大な価値がある。

とは言ってもこの社会にいる限り、何らかの形で働く必要はあるし、多くは就活をしなければならない。理不尽とは言え、そのフィールドの中で最善を尽くすしかないのも事実である。

どうか就活を通して、自分はダメだとか社会がダメだとか腐るのでなく、それを通してなお自分自身を再発見したり、気づかなかった新たな道を発見したりしてほしいと思う。

かくいう私も、その最中である。

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