「この世から脱出」しなければならないのか

2013年3月14日木曜日

キリスト教問題

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 ホームスクーラーやチャーチスクーラーの集まりや、彼らの機関誌などの中に、「この世から脱出」というような表現を目にすることがある。「汚れた世俗から我が子を救い出し、安全な我が家や教会で、子どもたちに聖書教育を施そう」という意味だと私は認識している。

 その気持ちはわかるし、彼らの多大な努力や犠牲に、私は敬意を持っている。
 私自身もチャーチスクールで長年教師をやらせてもらったし、私の子どもがチャーチスクールで過ごした年月も短くない。そこには一定の価値があったと思っている。

 そのうえで書くが、「この世から脱出」という表現の背景には、「この世=悪」「公教育=悪」という図式があるように思えてならない。
 その根拠に、彼らの中には「公立学校に入れたら子どもがいじめに遭う」「子どもが堕落する」と信じ切っている人々がいる。まるで普通の学校は、十代の可愛い顔をした狼たちで一杯で、いつも攻撃する対象を探し求めているかのようだ。

 公立学校に行ってみたらわかる。ほとんどの子は礼儀正しく、親切で、若さに応じた常識をわきまえている。ハナから悪いことをしようなんて思っていない。
 もちろん問題児はいるし、いじめだってある。
 しかしその一部の為に、他の全てを「悪」と決めつけるのは乱暴な話だ。

 公教育にはメリットもたくさんある。
 文部科学省の保護があるから、小学校から助成を受けられる。高校は基本的に無償だし、高卒という学歴を持つことができる(高卒認定試験合格者には◯◯高校卒業という学歴はない)。大勢の同級生がいれば、ウマの合う子も合わない子もいて、宿敵ができれば親友もできる。

 公立学校のそういう旨味は、最大限利用すべきだと私は思っている。
 それに、人間関係で苦労するだろうが、ホームスクール、チャーチスクールの狭い環境の中で苦労が少ないよりは、全然良いと思っている。

 と言っても、私はホームスクール、チャーチスクールを否定しようとも思わない。
 ある子にとってはそれらが必要だ。いろいろな事情で、集団の中で学習できない子や、頑張っても付いていけない子がいる。特別に注目されなければならない子もいる。そういう子たちは公立ではやっていけないことが多い。

 要は、親にとって何が良いかでなく、その子にとって何が良いかだろう。
だから「この世は悪い」「公教育は汚れている」と上から目線で決めつけてのホームスクールやチャーチスクールであってほしくない。「自分たちの方が優れている」というスタンスは、傲慢以外の何ものでもない。

 それに、子どもは遅かれ早かれ、その「この世」へ出て行くのだ。ホームスクーラーがどれだけ子どもを囲っても、大学や大学院や職場を、自分たちだけで提供することはできない。
「それまでに子どもを立派な信仰の持ち主に育て上げればいい」と言うなら、それで結構だ。是非、自分たちの努力の結果を試してみてほしい。
 その結果の責任も当然負われるのだろうから。


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