ノマド研究所の記事に、こんなフレーズがあった。
「いつからか日本の就職活動は、自分のやりたいことを探す旅になってしまった。」
もっともである。
学生時代から仕事でやりたいことを決め、それにふさわしいところに就職し、自己実現するのが人生の目標だと、いつの間にか刷り込まれているような気がする。
今日の学生はそんなプレッシャーを受け、訳もわからず、右ならえで就活を始めさせられているのではないか。
そもそも就職とは、何なのか。
江戸時代あたりまでは、もっとシンプルだったと思う。武士の子は武士に、農民の子は農民に、事実上の世襲制だったからだ。子どものうちから、農家なら畑仕事を手伝うだろうし、武家なら剣術や礼儀作法を叩き込まれる。職業訓練をばっちり仕込まれ、将来像も見えているから、何になるかで悩まない。
それが戦後の高度経済成長期、第二次産業の発展に伴い、世襲制が崩れた。家業を継ぐ人口が激減し、都市部での賃金労働者、つまりサラリーマン人口が急増した。「Always 三丁目の夕日」の冒頭に見られるような集団就職が、毎年春の風物詩となったのだ。
当時は求人過多にあり、基本的に、希望する会社に入社することができた。が、業種は工員か事務員がほとんどで、多くは上京して初めて自分の会社を見るという状況だった。
つまり条件をよく吟味して選べた訳ではない。むしろ「選ぶ」というよりは、たまたま求人票や勧誘等で「巡り合った」会社に入る、という感覚だったはずだ。
今のような、就職先を好みの条件で「検索」し、「比較」し、「応募」するという就活スタイルは、ごく最近のものと言える。
「じゃあ今の方が自由でいいんだ」という意見が出そうだが、それは早計すぎる。
結婚を例にする。
江戸時代から昭和初期まで、結婚は見合いが大半を占めていた。自分で選ぶ権利はなく(特に女性は)、親や親戚に決められた相手と結婚しなければならなかった。
それで彼らが不満だったかと言うと、そうでもない。なぜなら親も、祖父母も、先輩たちも、社会全体も、皆そうやって結婚してきたからだ。好きな相手と結婚するという概念そのものが、ほとんどなかったと言える(奈良時代まで貴族どうしの恋愛結婚は普通だったが、記録上のことでしかない)。
その見合いの習慣も戦後に崩れ、恋愛結婚が主流となった。愛し合う者どうしの結婚で、社会全体が幸せになったかと言うと、そうでもない。逆に離婚率が急増したのは統計が証明している。
「自由に選べない」状況にあるとき、人はそれに順応しようとする。
結婚も就職も選べない以上、それでやっていくしかない。つまり結婚した相手、就職した会社とうまくやっていく他ない。離婚や退職という前提はない。
それはそれで、目標がはっきりする。
現在はある程度自由に選べる分、何かの基準を設けて自分で決めなければならない。
それは自由である反面、ハードルが上がったことを意味する。
「やりたいことをやる」のは、もちろん悪いことではない。
が、仕事でやりたいことを無理に見つけなくてもいいのではないか。
仕事は仕事、やりたいことはやりたいことで、分けてもいいような気がする。
だいいち人間の好き嫌いは不安定で、いつどうなるかわからない。好きで始めた訳ではない仕事に、やり甲斐や生き甲斐を見つけることもある。逆に、好きだったものが簡単に嫌いになったりもする。
やりたいかやりたくないかで仕事を決めるのもいいが、他の尺度で決めてもいいのではないだろうか。
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