知り合いの子どもが高校3年生なのだが、大学受験にことごとく失敗してしまった。
4月からどうするか、まだ決まっていない。
応援していた私としては、何と声をかけたらいいかわからない。
どうするか決まっていないといっても、どれだけ選択肢があるだろうか。進学したい以上、いわゆる「浪人」をする他ないのではないか。この一年間をどう過ごすかしか、選べない。どこの予備校にするか、いつから入るか、あるいは独学にするか、とかだ。
当たり前の話ではあるが、競争社会の現実を見せつけられた気がした。
小学校、中学校、高校と勉強してきて、その子にとっての次は大学だった。しかし勉強が足りなかったのか、何が足りなかったのか、この「次」に進めなかった。スゴロクで言う「一回休み」ならぬ「一年休み」である。かたい門が閉ざされ、門番に冷たく追い払われたような感じだ。
これが資本主義の競争原理に基づいているということは、もちろんわかる。
定員割れしていない以上、合格する子がいれば不合格になる子がいなければならない。
また大学受験だけでなく、いろいろな状況で同じことが行われている。就活でも、組織での昇進でも、コンテストでも、企業同士の争いでも。
この競争を、幼いうちからする子もいる。中学受験のため、「合格」ハチマキをした小学生たちが全員でオーッと気合を入れるニュース映像を、最近見た。
しかしよく考えてみると、私たちは幼い頃から競争している。「あの子の方が~だ」「自分の方が~だ」と些細なことで張り合った記憶が私にもある。
資本主義云々の前に、私たちは競争しなければ済まない存在なのかもしれない。
ある小学校が「優劣をつけるのは良くない」というわけで、運動会から競争種目を排除した。皆でできて、勝ち負けのつかない種目だけになった。それはそれで気持ちが悪い。
その知り合いの子どもは「浪人」することになるだろうが、自分で自分を負け組だとか落伍者だとか思ってほしくない。どうも「浪人生」というと、「ちゃんと勉強しなかったから、親にまた迷惑をかけて、まったくもう」というふうに悪く思われやすい。それを隠す人も多い。そしてそれは、「浪」という漢字が持つ負の意味の影響が大きいように思う。
しかし、彼らだって戦ったし、競争したのだ。その結果負けてしまったのであって、WBCの準決勝で負けてしまったのと同じことではないか。
一年間、じっくり考えて準備する時間が与えられたと考えたらいいのではないか。それはそれでモラトリアムという言葉で責められそうだが、不可抗力だったのも事実だ。
競争があるのは事実だけれど、だからこそどう進むか、どんなペースで進むかは人それぞれ、浪人したっていいんだ、そんな雰囲気が社会全体にあっていいと思う。
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