なぜ死んではいけないのか

2013年3月18日月曜日

キリスト教信仰

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『なぜ死んではいけないの? 回答編』(悩みのるつぼ)

 上記の記事を読み、考えさせられた。
「死んではいけない」というのは一見当たり前のようだが、なぜいけないのかは、確かにあまり論じられていないと思う。日本においては、論じることさえタブーのように思える。
 おそらく多くの人が、特別教えられることもなく、自殺は悪いことだと認識しているだろう。なぜかという理由を明確に言えないにしても、「悪いものは悪い」としか表現できないような、何か原則的なものを感じているのではないだろうか。

 この記事の相談者の訴えは、そんな「うまく言えないが原則的に悪いと決められているような事柄」を思い出させる。
 例えば、「なぜ盗んではいけないのか?」「なぜウソをついてはいけないのか?」「なぜ殺してはいけないのか?」
 いけないのはわかっているが、改めてなぜかと聞かれると、答えに窮する。

 それらの問に明確に答えられない私たちが、自殺を考えている人を説得しようとしても、最後は「私の命なんだから私の勝手でしょ」「誰にも迷惑かけてないでしょ」という答えの前に、太刀打ちできなくなってしまう。
 無理に答えようとすると、「生きたくても生きられない人がいるんだから」とかいう役に立たないキレイ事が出てしまうかもしれない。

 私は自殺反対派だが、その理由の一つはクリスチャンだからだ(後述)。もう一つは、恐くて自殺できそうにないからだ。
 私はインフルエンザの検査で綿棒を鼻の奥に差されるのも嫌だ。だからそれより激しい痛みを自分自身に課すなんて、とてもできないと思う。
 あるいはそれは、「死んだ方がましだ」と思える程の苦しみに、まだ遭ったことがないからかもしれないが。
 そんな私がクリスチャンとして、自殺問題に唯一言及できるのは、次の部分のみだ。

 命は自分のものなのか、あるいは自分のものでないのか。

「私の命を私がどうしようと勝手だ」という言い分はよくわかるが、その前提の部分の話になる。

 おそらく、生まれようと自ら意識して生まれてきた人は一人もいない。この自分、今の自分になろうとして生まれることは不可能だし、両親もそれをコントロールできない。日本語には「生まれた」という自動詞があるが、英語で表現すると"I was born"で("born"は他動詞)、直訳すると「私は生まれさせられた」となる。
 この表現は、命の何たるかを端的に言い当てているように思う。

 私たち人間は、ある「意思」によって生まれさせられ、生かされている、と私は信じている。
 もし自分の意思でなら、もっと違う自分を選んだのではないかと思う。違う時代、違う国、違う外見、違う性格、違う境遇・・・。しかしそうできなかったのは、偶然ではなく、誰かの「意思」なのだ。
 私はその「意思」を神と呼んでいる。神は私たち人間を愛しているので、それぞれに特徴を与え、目的を与え、人生を与えた。そしてそれを精一杯生きてほしいと、私たちに願っている。

 そう考えると、命は私たちのものではないということになる。自分のものでない以上、勝手に扱うことはできない。
 何でも預かっている物は、それを預けた人の意に沿うように扱うべきだろう。

 もちろん、私はキリスト教の押し売りをするつもりはない。
 本当に自殺したい人には、何の役にも立たない御託でしかないだろう。それを承知で書かせてもらった。
 

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