あるキリスト教団体のスタッフが、結婚することになった。
その時、周囲のクリスチャンたちで、ちょっとした議論になった。発端は、その結婚相手がノンクリスチャン(未信者)だとわかったことだった。つまり信者と未信者の結婚の是非について、討論が行われたわけだ。
私はそのスタッフを個人的に知っていて、結婚相手が未信者であることも知っていた。が、あれこれ言う気はなかった。信仰を分かち合えない夫婦関係は大変だろうが、本人たちがそれでいいのなら、反対しても仕方ないからだ。それに大人なのだから、自分たちで決めるべきだし、その責任も取るべきだと思う。
(私自身は、同じ信仰を持つ者どうしで結婚するのがベストだと思っている。)
しかしそう納得できない人たちもいた。前述のクリスチャンたちだ。彼らが気にしていたのは、「キリスト教団体のスタッフなのに」という点だ。一般の信者ならともかく、キリスト教を標榜する団体の一員がそんなことでどうする、と。
それに対する反対意見、つまり結婚賛成派もいたので、議論になった。賛成派は、「結婚相手がそのうち信者になるかもしれないから認めるべきだ」と主張した。
何時間にも及ぶ議論に発展し、その後もメールのやり取りがしばらく続いた。が、両者の主張は一歩も譲らず、平行線のままだった。その後私は関わっていないが、おそらく平行線のままだろう。
信者と未信者との結婚について、聖書は「容認」していると私は解釈している。
確かに「つり合わないくびき」という聖書箇所を使って、未信者との結婚を禁ずる教会もあるようだ。その言い分もわかる。私も配偶者が未信者だったらきっと大変だったろうと思う。
しかし一方で、未信者どうしの夫婦の片方が、ある時信者になる、という可能性もある。そうなれば信者と未信者のカップル誕生である(前述の教会は、彼らを離婚させるのだろうか)。
聖書もそれを想定して、次のように言っている。
「ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 」(コリント人への第一の手紙 7:12 JA1955)
未信者が信者の信仰を尊重しているなら、夫婦でいて良いという意味だ。
というわけで、私は至ってシンプルに聖書を解釈し、信者と未信者の結婚も「あり」だと思っている。
ただし、それがクリスチャン団体のスタッフとか、牧師とかだと、確かに話が違うようにも思う。例えば牧師が「未信者と結婚します」と言い出したら問題視されるだろう。聖書はそれを「容認」しているのであって「推奨」しているのではなく、彼ら教職者は一般信徒より高い基準で聖書を実践しなければならないと思うからだ。
それはそれとして、議論の中で一つ、非常に気になることがあった。賛成派のある牧師がメールで打った言葉だ。
「私は全力で(結婚相手に)伝道し、信仰告白に導きます」
その言葉の真意が何なのか、機会があればお聞きしたい。私には「私が頑張れば入信させることができる」と言っているようにしか思えなかった。
聖書はこう言っている。
「妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。」 (コリント人への第一の手紙 7:16 JA1955)
未信者である結婚相手が信者になるかどうかはわからない(保障されていない)、という意味だ。
つまり前述の牧師の「私が頑張れば入信させられる」という主張は、聖書に反していることになる。
その牧師が単なる努力目標として掲げたのなら、まだ話はわかる。しかし「私がやれば大丈夫だ」とでも思っているとしたら、それは傲慢というものだろう。「教師は格別厳しい裁きを受ける」と聖書は言っているのだから、特に牧師はよくよく注意して物を言わなければならないだろう。
そんな周囲の議論はさておき、そのスタッフは無事に結婚式を挙げた。
相手の未信者の方は体育会系のノリで、披露宴の中で何度も「一気飲み」を披露していた。クリスチャンとしてはタブーの行為だが、その人にはもちろん関係ない。
私はその一気飲みの様子よりも、それを見ていた列席のクリスチャンたちの表情の方が気になってしまった。どんな気持ちなのか推し量ることはできなかったが。
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