卒業後の子どもの信仰を不安がる理由

2013年3月8日金曜日

教育

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 日本で3月といえば、一般的に卒業の時期である。
 私が関わっていた某チャーチスクール(現在は体制が変わってチャーチスクールではない)でも最近、卒業式があった。
 この時期、卒業生の父兄が必ずといっていいほど口にするのが、「卒業しても(子どもが)信仰を維持できるか不安です」というような言葉だ。皆が皆そうではないと思うが、そう言う人が多いように思う。

 以前なら私も「うん、心配だな」と思っていた。
 しかし牧師の不祥事や教会の解散、その後の様々な葛藤を経た今、教育に関しても違う見方をするようになった。そして、今回の卒業式でも父兄から前述と同じ言葉を聞かされた時、違和感を覚えた。
 

 チャーチスクールに子どもを入れる父兄の思考は、多くが以下のようであろう。
「子どもに聖書に基づく教育を受けさせたい」
「クリスチャンに囲まれた環境で、信仰を成長させてほしい」
「同じクリスチャンの友人と付き合ってほしい」
 そしてチャーチスクールに入れた結果、おそらくは、ある程度の成果を見ることができる。毎日礼拝したり聖書を学んだりするのだから、当然だろう(その分学習レベルに問題が生じやすくなるが)。
 そこで何年か過ごし、卒業する。
 その時父兄はこのように思う。「今までクリスチャンに囲まれた環境だったから良かったが、そうでない環境に入った時、果たしてうちの子どもはどうなるのだろう」
 そして不安になる、ということだ。

 その思考の前提には「チャーチスクールなり教会なりに任せておけば安心だ」という他力本願主義がある。
 だからそこを出てしまうと、任せる相手がいなくなってしまう。そして困ってしまう。
 これは、私に言わせれば、公立の学校に子どもを任せっぱなしにするのと同じだ。チャーチスクールはもともと「子どもの教育を公立に任せっぱなしにするのはやめよう」という思想から出発したはずだから、本末転倒というものではないか。

 もう一つには、チャーチスクールが信仰を成長させる保障にはならない、という前提もある。チャーチスクール自体にも問題は多いが、たとえスクールが完全に機能したとしても、それぞれの子どもにとって良い教育になるかどうかはまったく別問題である。

 子どもの教育の最終責任は保護者にある。当たり前のことだ。
 だからどこを卒業しても、どこに進学しても、その後の子どもの歩みやら信仰やらの監督責任は、親にある(もちろん、それにどう応えるかは子ども次第だが)。
 だからチャーチスクールに入れたのだ、と言うのなら、そのスクールで子どもがどう過ごし、卒業してどう歩むかも、責任を持つべきだろう。不安がっていても仕方がない。

 現在日本のクリスチャンの子どもには、公立学校、私立学校、チャーチスクール、ホームスクールなど、いくつかの選択肢がある。そのどれが良いとか悪いとか、一括りに言うことはできないだろう。しかし確実に言えるのは、どれを選択したにせよ、大切なのは「親が子どもにどう関わるか」ということだ。

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