日本のクリスチャンの若者がダメな理由

2013年3月31日日曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
BBAの放言 ご同情申し上げます

 この記事はキリスト教社会の悲惨な結婚事情を、端的に現していると思う。
 同じクリスチャンと結婚するのが理想だとわかっているけれど、ぶっちゃけ、ロクな人間がいない、ということである。わずかにいても早々に持って行かれてしまう、と。
 日本のクリスチャン人口は1%未満らしいから、それも必然的なことかもしれない。

 以前の記事で「就活」を「椅子取りゲーム」と評したことがあるが、クリスチャンが理想的な結婚をするための椅子取りゲームは、さらに苛烈を極めるのではないだろうか。

 またまた以前の記事で、クリスチャンとノンクリスチャンの結婚についても書いたが、そういう事態が起こるのも仕方がないかもしれない。

 しかし私は、だからクリスチャンの若者はダメなんだと言うつもりはない。
 それよりも、彼らをダメにしている教会なりリーダーなりが、根本的な悪だと思っている。

 初めに「キリスト教社会」と一括りにしてしまったが、いささか語弊があるだろう。
 教団教派の違いというのは、同じキリスト教でも、大西洋よりも大きな溝を持っている。とても越えられない。だから「教会」と言っても様々で、そこに集う人間も様々である。

 私の経験から言うと、正常な、あるいは健全な教会には、若者はそれほど多くない。というか、年配者が中心になっていて、若者たちに何でもかんでも頼まなければ動かないという体制にはなっていない。
 そういう教会にいる若者は(本当に少ないが)、割とまともな感覚で生きている。
 先輩である年配の方々が、しっかりしているからだろうか。

 逆に若者が多い教会、あるいは若者が中心的に動いている教会は、私は本当に警戒すべきだと思っている(もちろん全部が全部ということではない)。
 そういう教会は「活動」が中心であることが多い。若者は活動的なところ、自分が活躍できるところを好むから、こういう教会に集まってくる。そして若者が若者を呼び、若者ばかりの教会になる。
 それで教会のリーダーが「次世代」とか「弟子訓練」とか言い出したらタチが悪い。年配の方々は周りが若者ばかりでただでさえ居場所がないのに、台頭する若者たちに見下げられて「不信仰」だとか「無能」だとか無言のレッテルを貼られてしまうこともあると聞く。

 年配者に敬意を払えない若者を量産している時点で、その教会の弟子訓練」は失敗している。けれど、それで終わりではない。

 活動ばかりで健全に教えられていない若者たちは、「自分たちの教会が一番優れている」とか「神の御心は私たちにこそある」とか勘違いしてしまい、ぜんぜん根拠のないエリート意識を持ち、一般社会を「この世」と呼んで殊更に嫌悪し、見下げるようになることもある。
 キリストの最重要のオーダーである愛とか謙遜とか、まったく関係ない。

 彼らが誇りを持って一生懸命やっているバンドとか、CD制作とか、ダンスとか、子ども向けの集会とか、一般からするとそれほどクオリティーの高くない代物であることが多い。もうちょっと謙虚になって見聞を広めるべきだと思うが、それを見ている教会のリーダーたちや先輩たちが「素晴らしい」と拍手してしまったら、もう止められない。

 そのまま何年かすると、彼らは自分たちの姿も周囲も正しく認識できない、独善的な自己満足集団になってしまう。ずいぶん霊的(?)に振る舞うし、人を愛すると言いけれど、身近な仲間や家族をぞんざいに扱い、神のためにと言いながら、自分の野望に全てを注ぐようになってしまう。

 が、最初に言ったように、それは彼らのせいではない。そういう風に教え誘導したリーダーたちの責任が大きいと私は思う。

 願わくは彼ら自身がそれに気づき、軌道修正してくれたらと思う。
 私がリーダーに絶対必要と思う資質は「自己点検できる」ことだと以前の記事に書いたが、「自分はこれでいいのか」「自分たちはこれでいいのか」と少しでも疑問を持ってくれたらと思う。

QooQ