■前提:クリスチャンは何を信じているのか
クリスチャンと言われる人々は、神様を信じている。神様が全世界を創り、人間を創り、今も全てを治めていると信じている。私もその一人だ。
そして、神様が私たち個人の生活に、実際的に介入して下さるとも信じている。つまり神様は今もリアルに生きていて、私の悩みも全部知っていて、見えないが何らかの形で助けて下さる、と信じているわけだ。
それがクリスチャンのクリスチャンたる所以であろう。それがなければ信仰の意味がないように思う。
しかしその信仰の在り方については、全てのクリスチャンが、よくよく注意しなければならないと私は思っている。
■私が見たおかしな信仰
あるキリスト教団体が、経営難に陥っていた。ある事情で収支が逆転してしまい、赤字が続いていたのだ。何らかの改善が急務だった。
当時、私は辞める間際だったが、その団体の経営陣の一人だった。最後の奉公と思い、いろいろ可能性を探ってみた。しかしやはり、事業規模の縮小以外にないと思った。
ピンチの時こそ拡大すべき、という経営戦略もあるようだが、その団体には適応できなさそうだった。職員と顧客の両方が深刻に不足していて、新しいことを始める余裕はなく、それどころか現状維持さえ困難だったからだ。
というわけで私は、団体の本体となるテナントを一つだけ残し、あとの賃貸物件を全て手放すという縮小案に賛成した。それでも不十分だったが、改善の第一歩として最善だと思った。
しかし経営陣の何人かは、拡大路線を主張した。
彼らの一人、新しくリーダーになったGは、「顧客が必ず増えると信じている」と言う。神様が顧客を与えて助けて下さる、だから大丈夫だ、と。
それを「信仰」ととるか、「無謀」ととるか。
結局彼らは、拡大路線を選択した。
手放すはずだった物件を借り続け、さらにお金をかけてリフォームまでし、顧客募集の広告をクリスチャン新聞に掲載した。立派なホームページも作った(実情とのギャップが大きかったが)。
彼らのそういう営業努力を横目で見ながら、私は経営陣から身を引いた。
それから二ヶ月後、結局、顧客は更に減少した。連鎖反応的にスタッフも減った。
細かい数字はわからないが、赤字額が増えたのは言うまでもない。
ここへきて、彼らはやっと縮小という道を選んだ。居所の移転も考えているらしい。それでも今後、経営が成り行かなくなる可能性は高い。
Gとはそれから話をしていない。「顧客が必ず増えると信じている」という根拠は何だったのか。
■何が間違っていたのか
私は信仰を否定しないし、神様が実際に働かれることも否定しない。
しかし「信仰」と「無謀」は明確に区別しなければならないと思っている。
ルカの福音書14章28節には、「家を建てようとする者は、完成に必要な費用を計算し、払えるかどうかをまず考える」ということが書いてある。つまり「しっかり計画してから始めなさい」という意味だ。
しかしこれは、一般社会ではごくごく常識的なことだ。わざわざ聖書から教えられるまでもない。ではなぜクリスチャンたちが、この常識を無視してしまうのか。
理由の一つは、聖書に書かれている数々の奇跡が、無謀とも思える行動の結果であることが多いからだ。例えば、たった300人で何万人もの敵に立ち向かって勝ったとか、水の上に足を踏み出したら歩けたとか。
「無謀な挑戦に神様は勝利をもたらして下さる」「不可能を可能にして下さる」というメッセージにだけ注目してしまうと、前述の「しっかり計画しなさい」を無視することにつながる。
そこに、信仰と無謀の混同が生じる。
何かをしようとする時、私たちはその動機が本当に「主のため」かどうか吟味すべきだし、最後まで完成できるかどうか、方法が正しいかどうか、よく計画すべきだ。
しかし、繰り返しになるが、これは一般社会では当たり前のことだ。今更言うことではない。それがわからないとしたら、クリスチャンは甘いとか非常識だとか言われても、それは仕方がないというものだ。
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