2014年11月30日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第48話

 1週間が過ぎ、また『メボ・ルンド聖会』のミーティングがあった。

 はじめに、例によってみなで「異言」で祈った。1時間ほどかかった。後半の方は(感情的に)だいぶ盛り上がり、御言葉の絶叫とか、アーメン三唱とか、アカペラ賛美とかがあった。ミーティングルームは初冬とはいえ窓が結露を起こす程の熱気に包まれた。祈りが終わると、換気したり水分を取ったり、みな若干のブレイクが必要であった。

「じゃ、始めようか」
 束の間の休憩のあと、溝田牧師の一声で、信徒らは即座に席についた。キマジメくんも、ジュースを飲みながらノンビリ兄弟と話しているところだったけれど、席に戻った。
「じゃ、またそれぞれの担当の進捗状況、報告して」
 という訳で、また端から順番に報告が始まった。軽食係の姉妹は、先週の反省を踏まえて、カボチャを使うメニューを全て変更していた。
 みな、自分の報告で何を言われるかと緊張しているようだった。けれど今日の溝田牧師は笑顔が多く、ウンウンと話を聞いているだけだった。
 そしてキマジメくんの番がきた。彼は作りかけのメボ・ルンド師の紹介映像と、紹介HPをスクリーンに映して見せた。紹介映像はいろいろな素材を組み合わせて、神秘的な、いかにも癒しの奇跡が起こりそうな雰囲気に仕上がっている。自分でもなかなか良い出来だと思っていた。溝田牧師も満足げにウンウン頷いている。

 実はここまで作るのに3日ほど徹夜していた。慣れない映像編集ソフトに四苦八苦しながら、また素材集めにネットを奔走しながらの3日間であった。限界がくると眠り、起きたらまた作業する、その繰り返しだった。「これも主のため」と何度自分に言い聞かせたかわからない。

「いいねえ、キマジメくん」映像が終わって溝田牧師が言う。「よくできてるよ。君、映像の才能があるね。私が見込んだ通りだったよ」
 まわりの信徒らも、口々に賞賛している。
「ありがとうございます・・・」キマジメくんがそう言い終らないうちに、牧師が続けた。
「じゃあこれ、早く完成させて、youtubeにアップして。完成したら即アップね。それで、閲覧数の目標は・・・そうだな、1週間で1000回にしよう。1週間に1000回。それくらい行かなきゃダメでしょ」
「ああ・・・はい。youtubeですね」とキマジメくん。
「そう、youtube。アップの仕方とかアピールの仕方とか、勉強しといてね。それくらいメディア担当なら当然だから」
「あ、はい・・・」
「じゃあ映像はノルマ週1000回ってことで。サトリコ姉妹、記録しといて。じゃあ次、報告して」
 溝田牧師が手早く指示を出すと、次の信徒が報告を始めた。

 報告が一通り終わると、また溝田牧師の長い話があった。この聖会の必要性とか、メボ・ルンド師が最近どんな奇跡を起こしたかとか、教会が今霊的にどういう状態でメボ・ルンド師の来日がどう関係しているかとか、以前も聞いたような話が延々と語られた。スタッフらは口々に「アーメン」とか「おおぉ」とか「ハレルヤ」とか相槌を打っていた。

 最後に溝田牧師は言った。
「じゃあ当日は、みんな病気の知り合いとか連れてきて。でも、ただの風邪とかじゃダメだよ。長く患ってる病気で、治りにくそうなヤツがいいな。そういう病気の知り合いに今から声をかけておいて、当日連れてくるように。なんたって今回は、癒しとミラクルの聖会なんだから」
 まわりのスタッフが「アーメン」とか「そうですよね」とか相槌を打つ。
 そんな中、一人のスタッフが手を挙げた。「先生。実は病気の友人がいるのですが、長く入院しています。今回の聖会のビデオを見せようとは思ってはいるのですが・・・」
「君ねえ」溝田牧師の口調が、今日はじめて変わった。「癒しについての君の信仰は、その程度なのか? また、友人に対する君の愛は、その程度なのか? 中風を患った人を、屋根を壊してまでイエス様の下に運んだ、あの4人のことを君は知らないのか?」
「えっと・・・」そのスタッフは牧師の豹変に戸惑いを隠せない。「それは知っていますが・・・」
「いいや、知っているとは言えないな」牧師は言い放つ。「もしあの4人が今ここにいて、その入院中の友人のことを知ったら、どうすると思う?」
「えっと・・・」スタッフは口ごもる。「それは・・・」
霊的に考えなさい!」業を煮やして牧師が叫ぶ。ミーティングルームは水を打ったように静まり返った。「イエス様のみもとに連れて行くために、彼らは人の家の屋根まで壊したんだよ? それを考えたら、入院中だからとか何だとか、何の関係がある? この世の常識に縛られていたら、私たちはイエス様の奇跡なんて体験できない。それじゃ信仰は死んだも同然だ!」
「はい、すみません!」
 そのスタッフは何度も謝る。目に涙を浮かべながら。
「じゃあ先生」そのとき誰かが口をはさんだ。落ち着き払った声だった。「その病人を無理矢理病院から連れ出して、教会に連れてこいってことですか?」
 一同が声の主を見る。キマジメくんも反射的に見た。やはり、タタカイ兄弟だった。
 溝田牧師が口ごもった。「どういう意味だね?」
「いや、意味もなにも、ただ確認しただけです。その、常識を超えるのがどういうことかと思って。べつに入院患者さんは正式に手続きすれば、問題なく外出できますよね。だったら、じゃあ何が常識を超えることなのかな、と思って」
「そりゃ君、霊的に常識を超えるというのは、いろいろな意味があるからね」
「はあ、では具体的にはどんな例があるのですか?」
「それは君、信仰は生きているからね、その時その時で示されることがある。過去にこうだったからとか、ああだったからとか、そういうことは通用しない。だから私たちは、常に聖霊様の導きに敏感でなければならない。しかし聖霊様にいつも聞いていれば、おのずとその意味が示されるだろう」
「はあ・・・」タタカイ兄弟はそれきり黙った。
「よし、じゃあ今日はこのへんで終わりにしよう」溝田牧師が早口で元気よく言う。「じゃあみんな来週まで、それぞれ仕事を進めるように。よろしく!」

 そこで解散となり、スタッフらは伸びをしたりお茶を飲んだり、帰ったり歓談を始めたりする。キマジメくんはさっそくyoutubeについて調べなきゃなと思いながら帰り支度をした。
 帰りがけ、溝田牧師に挨拶しようと思ったが、もういなかった。珍しく早々に帰ったようだ。代わりに一人黙って座っているタタカイ兄弟の姿が目に入った。兄弟はブツブツと、何かつぶやいているようだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年11月29日土曜日

クリスチャンの禁止事項(?)について・その2

 前回に続いて、いただいた体験談から。
 前回のまとめとして、某聖霊派教会が信徒に禁止する項目は次の通り。

・テレビ、ラジオ、ネット等のメディア(新聞、雑誌等も含む)

・一般の音楽

・マンガ、アニメ、キャラクターもの

・日本伝統のお祭り、しきたり、風習や慣習(七夕など)

・酒、タバコ等の嗜好品

・占い、おまじない、願掛け、げんかつぎ、お守り

・おとぎ話、昔話、民話、童話

・サンタクロース、クリスマスツリー

・その他もろもろ(マリアの神格化。他の宗教の匂いのするもの。たとえばマンダラ、ヨガ、中国結びの飾り等。三浦綾子。腕組みしてメッセージを聞くこと。etc...)

 まさに「あれもダメ、これもダメ」状態である。しかもそれらはほとんどが「モノ」の禁止であって、一番問題である「それを求める人間の心」が扱われていない。だからこれらの禁止は本質を欠いている。
 これはたとえば、ナイフを欲しがる子に対して「危ないから持つな」と禁止するだけで、ナイフの本質やその実際的な必要性、そして何よりそれを欲しがる子の心理を無視するようなものだ。ナイフを禁じられたその子は、単純にナイフに替わる方法を探すだろう。問題は何も解決していない。うわべを取り繕うだけで。

 ではそれに対して、彼らは何だったら許可するのだろうか。順番に見てみよう。

■某聖霊派教会で推奨されるもの(これさえあれば信仰的、敬虔、霊的、現代のパウロとか言われるかも?)

・聖書通読
 聖書通読そのものは、クリスチャンなら一度はすべきだと私は思う。聖書全体が何を言っているのか、大雑把にでも把握しておかないと、自分が信じる神様が何を言っているのかちゃんと知らない、なんてことになるからだ。
 けれど、この教会の人たちが主張する「 聖書だけ読めば何もいらない」は行き過ぎであろう。

 もちろん中には不要な書物もある。けれど、多くの一般の図書は無害というより、むしろ多くの知識を提供してくれる。また書物の集積は先人たちの知識の集積でもあり、技術的進歩にも大いに貢献している。彼らが使うスマホだってそういう進歩の産物である。
 他にも聖書の時代についての解説本とか、いろいろな聖書解釈の本とか、そういうのもクリスチャンには有用だろう。だいいちこの教会の人たちはハイディ・ベイカーの本を大絶賛しているではないか。「聖書だけ読めば何もいらない」にハッキリ矛盾している。

・ワーシップソングを聴く
 これはべつに悪いことではない。けれど問題は、「ワーシップソングだけで十分」という、やはり行き過ぎな主張にある。これは言外に、ワーシップ以外の音楽は有害だ、という主張を含んでいる。じゃあ街を歩いていて、一般のヒットソングが流れてきたらどうするのだろうか。耳を塞ぐのだろうか。

・「異言」で祈る
「異言」の祈りを長くする程いい、と彼らは言う。
 けれどそもそも、彼らが言う「異言」がおかしい。気になる方は「異言」ラベルの記事を見ていただきたい。彼らは聖書を完全無視した「異言論」を盲目的に信仰し、そのくせ「こんな異言で祈れる自分って霊的♪」とか思っている。そしてそれを非難する私のような人間は、不信仰か罪か悪魔の手先かということになる。
 また、祈りは長ければ長い程いいというのは努力の話であり、能力主義、律法主義、ついでにご利益主義でもある。頑張らなければ神に近づけない、努力しなければ神は答えてくれない、という聖書に反する教理である。

 ・禁欲、献金
 禁欲と献金が一緒に語られるのが興味深い。つまり欲しいものは我慢して、教会に捧げなさい、ということだ。
 これも、多く捧げた者は多く祝福される、という出来高制みたいな信仰になってしまっている。
 また、「捧げたものが倍以上になって返ってくる」ことを期待して捧げるとしたら、それはもう投資である。献金ではない。

・断食する
 断食が長ければ長い程、神様に近づけるという。でもこれもやっぱり能力主義だ。どれだけ我慢できるか、どれだけ通常の在り方を超越できるか、という点が重要になってしまっている。
 なんでも、同教会の牧師が40日間断食したと聞いたことがある(その真偽は不明だ)けれど、そこまでしないと語られないとしたら、神様は究極のサディストだ。人間を苦しめて喜んでいるとしか思えない。

・徹夜で祈る
 これも長く続けば続く程いいという話で、これまで同様「我慢大会」である。
 また、徹夜祈祷は金曜日の夜が特に大切だそうだ。キリストがゲツセマネで祈ったのが金曜の夜だったからか。でもその発想は、映画「13日の金曜日」と同じだ。
「ある日を特別と思うのも思わないのも自由」みたいなことを聖書は言っているから、金曜が特別大切と思うのは勝手だ。けれど、金曜だから特別に語られるとは聖書に書いていない。

・聖会の定期的に参加する
 これは仕事より重要だそうだ。聖会の参加は自由のはずだが、ここにはそういう自由はない。
 でも聖会って、世界中で相当数行われているはずだけれど、その全部に参加しろってこと? それは物理的に不可能でしょう。
 では参加すべき聖会・参加しなくていい聖会は、誰がどうやって決めるのだろうか。その根拠はどこにあるのだろうか。聖霊が語られるから? では、聖霊が参加しなくていいと語った、と言ってもいいのだろうか。

・日曜日は教会へ。その他の日も教会へ!
 じゃあいつ仕事とか家事とかしたらいいですか?

→結論
 以上の推奨項目をまとめるとこうなる。
 理想のクリスチャンは毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。「汚れた」一般社会とは、一切接点を持たない。

 そういう素敵なクリスチャン生活を送りたい方は、是非この教会へ!(もしいればの話だけれど)

 ちなみにこの教会に行くと、病気でも日曜礼拝に参加するように言われる。「礼拝に来たら癒されるから、来なさい」
 それで無理して行っても、癒されなかった。すると何と言われるか、わかるだろうか。
「あなたの信仰が足りないのです」
 合掌。

2014年11月28日金曜日

クリスチャンの禁止事項(?)について

 今回はいただいた体験談から書かせていただく。
 某聖霊派教会が信徒に禁止する項目について箇条書きにしつつ、私なりのコメントを付けてみたい。

⬛以下、クリスチャンの禁止項目(破ったら不信仰、あるいは罪、あるいは悪魔に憑りつかれる?)

・テレビ、ラジオ、ネット等のメディア(新聞、雑誌等も含む)
 確かに有害メディアはあるけれど・・・。全部ダメ? それってもはや情報規制では。
 これを厳密に守るとしたら、外出時は目隠しして耳栓して歩くことになる。というか外出できない?

・一般の音楽
 一般の音楽にはサタンの惑わしが含まれている、とのこと。そういえば、ビートルズのレコードを逆再生すると悪魔のメッセージが流れる、なんて話もあった(ビートルズが逆再生を利用したのは事実であるが)。最近で言うと「きゃりーぱみゅぱみゅ」の歌にも、そんなのがあるとかないとか。
 こういうのは「サブリミナル効果によって深層心理に直接働きかけるから、聴くだけでマインドコントロールされる」とかもっともらしく言われる。けれど、そもそもサブリミナル効果には科学的根拠がない。学研「ムー」の読み過ぎだ。
 仮にサブリミナル効果があるとしても、聴くだけで操られ、罪を犯してしまうとしたら、それは厳密には罪を犯したことにならない。本人にその意図がなく、無理矢理やらされたことになるのだから。

・マンガ、アニメ、キャラクターもの
 これらの背後にはサタンが隠れているとのこと。「この世」とは大変なところである(←皮肉)。
 というか、悪霊はどこにでも隠れている。教会にもいるし、あなたの家にもいる。聖書の言葉さえも利用してくる訳だから、聖書の中にも隠れている。そもそも、こういう主張をする人々の言葉の中に、悪霊は相当隠れている。

・日本伝統のお祭り、しきたり、風習や慣習(七夕など)
 じゃあ日本人やめますか。

・酒、タバコ等の嗜好品
 これは健康を害しない程度に加減すべきとは思うけれど、基本的に個人の自由のはず。
 ちなみに「麻薬」も当然ダメだと彼らは言うだろうけれど、たとえば医療の現場では、麻薬は末期がん患者に痛み止めとして使われている。それは激しい痛みを和らげる為であって、さすがに罪とか言う人はいない(と思う)。
 要は麻薬そのものが悪いのでなく、それを乱用する人間の心が問題なのである。そういうことを考えず、単に酒とかタバコとか麻薬とかの「モノ」だけ禁止するのは、あまり意味がない。子供のオモチャ一つとっても、人間にかかれば罪になるのだから。

・占い、おまじない、願掛け、げんかつぎ、お守り
 これはいわゆる他宗教? を信仰することに繋がるのだろうか。よくわからないけれど、聖書の神様を信じているなら、こういうのを信じる必要性がそもそもないような気がする。
 朝の情報番組なんかで「今日の運勢ナンバーワンの星座は・・・」とかいうコーナーがあるけれど、そういうのを見るのも罪深いこととされてしまう。けれど、ああいう占いを本気で信じる人は少ないだろうし、大半の人は「ああ今日はなんかいいことあるかも」くらいにしか捉えていない。だからそれを見るだけで「罪だ」とか言われても、何だかなあと思う。

・おとぎ話、昔話、民話、童話
 これは前述のメディアとか、映画とかアニメとか漫画とかも含まれると思う。
 確かにモラルとして見るべきでない種類のものはあるけれど、かと言って「何でもかんでもダメ」と全否定するのは行き過ぎだろう。いろいろなストーリーにふれて泣いたり笑ったり、怒ったり感動したりするのは、人間に与えられた楽しみの一つだと思う。違うだろうか。

 こういうのは、「見ると悪影響を受ける」という観点で語られることが多い。暴力的な場面を沢山観ると、実際に暴力を振るうようになってしまう、みたいな。
 けれど、たとえば中学生どうしが殺し合う映画「バトル・ロワイヤル」を観たから殺し合いが始まるかと言うと、そんなことはない。かえって「ああいう社会でなくて良かったね」と笑い合えもする。
 また、もしそういう「影響」の力が存在するとしたら、世界中の紛争地域で反戦映画を上映すれば全て解決することになる。けれど、断言してもいいけれど、そんなことは決してない

 前述の暴力映画と実際の暴力との関係で言えば、映画に影響されて暴力を振るうのではない。もともと暴力を振るいたい人が、暴力映画を好んで観るだけだ(もちろんそうでない人だって暴力映画を観るだろうけれど)。

・サンタクロース、クリスマスツリー
 こういうものは聖書の本筋から外れているから、クリスチャンは関わるべきでない、という意見。けれど、サンタもツリーもまったくの無害であろう。べつに誰もサンタに跪いて拝む訳ではないし、ツリーに神が宿っているなんて考える人はいない。単なるイベントとして、あるいはクリスマスの象徴として、楽しんでいるだけだ。
 そういう楽しい雰囲気に「聖書の本質から外れます」とか水を差す方が、よっぽどいただけないのではないだろうか。

・その他もろもろ
 マリアの神格化。
 他の宗教の匂いのするもの。たとえばマンダラ、ヨガ、中国結びの飾り等。
 三浦綾子。
 腕組みしてメッセージを聞くこと。

 こうやって見てみると、上記の聖霊派教会は「あれもダメ、これもダメ」である。じゃあいったい何ができるのだろうか? それは次回に回したい。(続く)

2014年11月27日木曜日

ホームスクーリングに関する疑問・その3

 ホームスクーリングに関する疑問の3回目。これでひとまず最終回。
 今回もホームスクーラー(クリスチャン)の気になる主張について、考えてみる。

・「親だからこそできる教育がある・・・」

 親だからこそ、その子に必要な内容・教え方・ペースで教育ができる、という意味である。これはホームスクーリングの最大の利点だと思う。いわゆる「個別対応」、あるいは「超個別対応」である。

 その子供に完全に個別に対応できるから、苦手分野はゆっくり、丁寧に、何度も復習することができる。逆に得意分野はどんどん伸ばして、いわゆる飛び級みたいに進めることもできる。
 他にも、ホームスクーリングなら時間の制限もないから、たとえば本物の自然観察に泊りがけで行くとか、早朝や夜間の天体観測に行くとか、子供の興味に合わせていくらでもアレンジできる。そのフレキシブルさは、公教育の比ではない。

 公教育の課題もここにあって、一度落ちこぼれると付いていけなくなる、というのがある。それを救済するのは、たとえば親身になって個人的に補講をしてくれる教師とか、塾とかのインフォーマルなサポートであろう。つまり、どうしても個別対応が必要になる。

 けれど、個別対応が本当に必要なのはそういう緊急事態とか特殊な事情がある場合であって、「全てにおいて個別対応」というホームスクーリングは、ちょっと事情が違う。基本的にホームスクールとは、その子だけのオーダーメイドな教育である。だからそういう子は、周りの全てが自分に合わせてくれる、という感覚を当然のことと思いやすい。

 これは小規模なチャーチスクールの子にも当てはまることだけれど、個別対応してくれる環境に慣れてしまうと、その子は多くの場合、周りの都合や事情に自分を合わせなくなってしまう
 くわえて「神様が自分を愛してくれている」「自分は尊い存在だ」というようなメッセージをいつも聞かされているから、自分自身をやたら特別視してしまう。結果、自分の希望が通るのは当たり前、周りが自分に合わせるのは当たり前、みたいに態度になってしまう。あるいはなりやすい。

 たとえば、昨夜遅くまで(自分の都合で)起きていたから、翌朝起きられない。だからその日に朝から予定があっても、自分は眠いんだから当然寝てていいでしょ、みたいなことになる。ホームスクールならそれでも通用するかもしれない。けれど一般の学校や職場ではもちろん通用しない。けれど彼らからすると、それは通用しない方がおかしい、という話になる。

 あるホームスクールの子らは定期的に集まってスポーツをしているけれど、練習風景を見ると、そういう態度が見えてくる。自分から挨拶できない、時間を守れない、コーチの話を黙って聞けない、勝手に隅で関係ないことを始める、とかだ。それはそれは自由奔放である。集団行動をしたことがないのだから、仕方がないのだけれど。

 もちろん全員がそんな感じな訳ではない。けれどその傾向は強い。ホームスクーラーのコンベンションが代々木のオリンピックセンターで毎年行われているから、興味のある方はチラッと様子を見に行ったらいいと思う。彼らの独特な雰囲気が、わかるのではないだろうか。
 一般にももちろん自己中心的過ぎる子はいるけれど、ホームスクールの子らは、言うなれば「悪びれのない自己中心」である。前述の通り、それを当然、あるいは正しいとさえ思っている。

 と、いうようなことを「親だからこそできる教育」と言っているのだけれど、上記のような「結果」を見る限り、それがうまく機能しているとは考えにくい。

「親だからこそできる教育」はもちろんあるけれど、それは勉強を教えるとか一緒に遊びに行くとかいうことよりは、どちらかと言うと、自分の背中を見せることではないかと私は思う。親の等身大の生き方を見せることが、良くも悪くも、子供に影響を与える。そしてその影響は、親が思う以上に大きいと思う。

 また、「親だからこそできる教育」が必要なのと同じくらい、「他人だからこそできる教育」も必要であろう。
 おそらくみんな、肉親でないからこそ聞ける、言える、ということがある。知り合いの子たちを見ても、「親の言うことだから聞けなくて」も、他の大人に言われるとすんなり聞ける、ということがある。「厳しさ」においてもそうで、同じ「しっかりやれ」を親から言われるのと部活の顧問から言われるのとでは、ずいぶん響き方が違う(もちろん厳しい顧問も優しい顧問もいるだろうけれど)。

 そういう風に他人から全く言われず、教えられずに育つことは、その子にとって大きな損失ではないだろうか。子供の頃の教育が、人生に大きな影響を与える。としたら、その子の人生はどうなってしまうのだろうか。

 以上、教育について思うところを書いたけれど、だからホームスクールが全て悪いとか、公教育が全て良いとか、そうは思っていない。
 ただクリスチャンが行っているホームスクールが、結果として上記のような結果になっているのは事実で、やはり彼らは考え直すべきことが多いと私は思っている。

 また3回に分けて書いてきたように、その主張にもいささか見当違いなところがある。彼らは四六時中、我が子を見ている訳だから、子供のことは自分が一番よくわかっていると思っているだろう。けれどその距離があまりに近すぎて、逆に見えなくなっていることにおそらく気づいていない。あるいはその可能性を考慮していない(だからこそそういう主張になるのだろう)。
 そういう意味では、昼間は学校に子供を預けてちょっと距離を置いた方が、案外よく見えることもあると私は思う。

おまけ)ホームスクーラーのおかしな主張のまとめ

・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」
 いえいえ、子育てそのものが激戦です。

・「ホームスクールにおわりはない」
 いえいえ、子育てには終わりはありません。

・「ティーンとの関わりが難しい。だからもっと一緒に過ごさないと」
 ティーンとは難しいものです。どれだけ一緒に過ごしても。また、理解することが解決ではありません。

・「親だからこそできる教育がある・・・」
 他人だからこそできる教育も大切です。全てを親だけで教えることはできません。

ホームスクーリングに関する疑問・その2

 ホームスクーリングに関する疑問。2回目。
 今回もホームスクーラーの気になる主張について考えてみたい。

・「ホームスクールに終わりはない」

 子供が18歳なり22歳なりでいわゆる「勉強」が終わると、そこで「ホームスクール」という形態も事実上終わる、というのは自然なことであろう。子供が就職したり留学したりでとにかく「自立」する訳だから、それまでのように親が家庭で子供のあれもこれも世話をする、という必要はなくなる。

 けれど、それでもホームスクールは終わった訳でなく、子供の今後の成長や信仰を導いていく必要が親にある、という意味合いで、「ホームスクールに終わりはない」のだろう。

 それを大変重要なポイントとして語るホームスクーラーがいるけれど、そんなの当たり前である。ホームスクールとか関係なく、親にとって子供はいくつになっても子供であって、40だろうが50だろうが、自分の子であることに変わりはない。そして自分の子である以上、いくら自立していても、親は子に「する」立場であって、「される」立場ではない。たとえ高齢で動けなくなっても、その気持ちは続くだろう(認知症とかで精神状態に変化があれば別だけれど)。
 事実、子供に面倒みられたくない、という親は統計的にも多いと聞く。
 だからホームスクールが特別に続くのではない。親子関係に終わりがないだけである。

・「ティーンとの関わりが難しい。だからもっと一緒に過ごさないと」

 子供は年齢が上がれば上がるほど、関わりが難しくなる。それはおそらく普遍的な現象で、多くの親が同様の苦労をしている。もちろんずっと仲の良い親子もいるけれど、全体から見たら稀だ。私の周りを見ても「子供が何を考えているかわからない」という人は多い(同様に、親のことがわからない、という子も多い)。

 そこで、じゃあもっと多くの時間を子供と過ごせばいい、という発想になるのはわかる。一緒に過ごせば相手のことがわかる、というのはある程度有効だからだ。けれどそれが有効なのは主に友人とか同僚とか、上司とか部下とかの「他人」に対してであろう。十数年を共に過ごしてきた親子関係でそれがどれだけ有効か、私は甚だ疑問である。

 みんな自分の親子関係に置き換えてみればわかると思うけれど、たとえば四六時中一緒にいても、意識して相手を理解しようとしても、すぐに限界がくるのではないだろうか。あるいはどうしても理解できないという壁にぶつかるのではないだろうか。またあるいは、そもそも長時間一緒にいるなんて耐えられないという人もいるかもしれない。
 親子揃ってカウンセリングを受けるとか、そういう特殊な状況でもない限り、親子が時間を共有することで相互理解を得るのは、難しいと私は思う。

 それでもホームスクーラーがティーンの子供と一緒に過ごそうとするのは、ある意味で、それが可能だからだ。
 
 ティーンにもなると、一般的に親と一緒に何かするのを嫌がるようになる。その傾向は特に女子より男子に強い。けれどホームスクールで育ってきた子は、親と過ごすことにあまり抵抗がない。それが彼らの人生だったからだ。
 だから親がしようと思えば、子といつまでも一緒に過ごせるだろう。けれどそれで両者の理解が進むとしたら、それはいったいどういう理解なのだろうか。

 この問題は、「子供の自立」と関係があると思う。
 親に何でも話す、親との間に葛藤がない、親に何でも頼ることができる、というのは素晴らしいことかもしれない。けれどそれは、家族以外の他者とそういう関係を持てないとか、自分だけで物事を決定できないとか、そういう自立に関する問題をも含んでいる。聖書に「男はその父母を離れ、妻と結び合い・・・」という言葉があるけれど、いわゆる親離れができていないような気もする。

 また、根本的なところに話を戻すけれど、そもそも子供のことを全て理解する必要があるのだろうか。それは本当に必要だろうか。
 子供の全てを把握しよう、理解しようという姿勢には、背後の過干渉とか過保護とかが隠れている。子供は伸び伸びと自由にやらせてやるべきで(もちろん一定のルール等は必要だと思うけれど)、縛り付けるべきでない。親から見てわからないこととか、理解できないことがあっても、何ら問題ない。むしろ自然なことだ。

 全くの放任主義とか放置、ネグレクトの類は問題だけれど、その逆の過保護もまた問題だ。そしてホームスクールは、容易に後者に流れてしまいやすい。
子供を理解しようとするのは親なら当然だけれど、子供も一人の人間であって、ズカズカとその心に入り込んでいい対象でないのを、忘れてはならない。

2014年11月25日火曜日

ホームスクーリングに関する疑問

 日本のホームスクーリング団体の機関誌を、時々読んでいる。
 私はもともとホームスクールという教育形態も(条件つきで)アリだと思っている。けれど最近考えが変わってきたので、思うところを書いてみたい。

 アメリカはホームスクーリングが多いらしいけれど、日本でホームスクールをやるのはいろいろ大変だ。公の認可がないから公的な補助も支援もないし、教材とか場所とかも全て親が自前で準備しなければならない。毎日教えるのも親が中心になる。あるいは教えないにしても、進捗状況は監督しなければならない。それに何をいつまでに学ぶのか、カリキュラムを組み立てなければならない。

 そういう苦労があっても、教育委員会からは「不登校扱いになります」とか「義務教育違反です」とか言われる。それにどう対処するかも親次第で、上記の団体は助言はくれても、助けてはくれない。
 だから文字通り、親が全てこなさなければならない。

 また、そこまで苦労しても、子供がどう育つかはわからない。何の保障もない。
イエス様が必ず我が子を正しく導いてくれます」という信仰は結構だけれど、彼らが期待する結果になるとは限らない。こんなはずじゃなかった、という話にもなりえる。
 いずれにせよ、日本でホームスクールが本格的に始まって十数年になるから、そろそろ彼らの「結果」が見えてくる頃だろう。

 しかしそもそも、ホームスクールを選ぶこと自体が神様の導きだったのだろうか。本当に神様が導いたのだろうか。そのあたりを再考する余裕のあるホームスクーラーがいることを願って、これを書いている。
 というのは、上記の機関誌にいつも、気になる主張が見受けられるからだ。何か間違っているような気がしてならない。そういう彼らの主張について、箇条書きにしてみたい。

・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」

 ホームスクーラーはいろいろな困難に直面する。ホームスクールすること自体の苦労もあるし、それに反対する文部科学省や教育委員会、関係者らとの「ストレスフルなやり取り」もたいへんな苦労と言える。確かに「激戦」かもしれない。彼らはホームスクールを「神からの使命」と考えているから、そういう発想にもなるだろう。

 けれど、日本が戦後何十年もかけて築き上げてきた(もちろん不足もある)教育制度をまっこうから否定し、教育をイチから(というかゼロから)作り上げようとする訳だから、そりゃ「激戦」みたいな状況にもなる。また法制度に逆らうという意味でも「激戦」であろう。
 ところで、「立てられた権威に従いなさい」という聖書の言葉を彼らがどう解釈しているのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。

 そこまで苦労してホームスクールをする理由として、「我が子の教育を学校任せにしない」と彼らは言う。けれど、べつに一般の親が全てを学校任せにしている訳ではない。一般の親はあくまで「必要な勉学」を学校にお願いしているだけだし、それは義務教育という法制度に則ることでもある。

 だいいち子供が学校で保護されるのは日中だけで、それ以外の大部分は親が保護しなければならない。また子供が学校にいようがいまいが、その子の保護義務が親にあるのは変わらない。親は子供の素行をいつも気にしているだろうし、その安否をいつも気遣っているだろう。そしてたとえば、今日の夕飯どうしようとか、明日の弁当どうしようとか、積立金の支払いどうしようとか、ちゃんと宿題やったかなとか、そういうことをいつも考えている。

 だから、子供の教育を誰か(何か)に任せっきりにしている、なんて認識している親はいないと思う。ホームスクーラーでなくても、一般的に考えて、子育ては激戦だ。子育てが楽な親などいない。それに子どもが大きくなればなる程いろいろな困難が生じるし、経済的にも大変になる。そこにホームスクールかどうかの差はない。

 子育てにおいて「激戦」とかいう言葉を使うのはいいけれど、それがホームスクールだからとか、「主の教育」だからとか、そういうせいで激戦なのではない。
 強いて言うなら、ホームスクールには、義務教育という法制度に逆らうという「激戦」がある。しかその激戦が聖書的なのかどうか、神様の導きなのかどうか、もう一度考えるべきだと私は思う。

 もう少し書きたいけれど、長くなるので続きは次回に。

2014年11月24日月曜日

教会の「被災地支援」に見る、「隣人愛」という大義名分

 去る11月22日、長野県北部で最大震度6の地震があった。負傷者39人、うち7人は重症とのこと。家屋の倒壊もあったと聞く。被災された方の1日も早い回復を願うばかりである。
 
 地震と聞くと、3年前の東日本大震災、あるいは1995年の兵庫県南部地震を思い出す人が多いと思う。私は両方とも思い出す世代だ(ちなみに95年は地下鉄サリン事件もあって大変な年だった)。
 そして地震と聞いて私がもう1つ思い出すのが、教会による被災地支援ボランティア活動だ。

 ある牧師は先の2つの大震災で、被災地支援ボランティアに行った。兵庫の方は数日間だったと記憶している。けれど東日本の方は、教会を総動員して、何ヵ月にも渡るボランティア活動を展開した。私も参加させてもらい、炊き出しとか瓦礫撤去とかさせてもらった。もちろん一教会の活動だから成果はタカが知れているけれど。

 けれど、それはそれでわずかながら意義があったと思う。キリスト教的に言うなら「隣人愛」を実践できたと思うし、いろいろな出会いもあった。またわずかとはいえ人の役に立てたことは、素直に嬉しかった。

 けれど問題はその後だ。その牧師が至るところで、その活動をアピールするようになった。それも現地の必要を訴えて協力を求める為とか、そういう全うな理由からではない。
「うちはあの震災の翌日には、もう現地入りしましたから」
「おそらくキリスト教会ではウチが一番か二番に活動を始めましたから」
「どうです、ウチはこれだけの効果を上げましたから」
 とか、そんな感じだ。自教会の礼拝ではもちろん、呼ばれた先でも、海外の牧師相手にも、そんな調子のボランティア活動自慢を繰り広げた。

 ちなみに書いておくと、「震災の翌日に現地入りした」というのはウソだ。記録があるから間違いない。震災が起きたのは3月11日(金)で、教会が現地入りしたのは13日(日)だった。それと、現地入りしたのが1番か2番だったというのは、何の確証もない。そんな感じがしただけの話だ。

 いずれにせよ、隣人愛は他人に自慢するものではない。それは崇高なキリスト教精神をかぶった偽善だ。いくら「被災地のために」なんて大義名分を掲げても、結局自分が称賛してほしくて被災者を利用しただけだろうと言われてしまう。それは愛による行為とは言えない。

 もちろん、自慢する為だけに被災地支援を何ヶ月もした訳ではないだろうから、動機はそれだけではないはずだけれど。

― ― ― ― ―

 こういう教会が行う被災地支援のもう一つの問題点は、ちょっと深刻だ。

 実際に東日本大震災で被災地支援を行った教会は相当数あるだろうけれど、いくつかの大々的に活動した教会には特に、日本中(あるいは世界中)から義援金が集まった。それもバカにできない金額だった。そしてそういう教会の周辺で、「義援金の用途が不明」とか「義援金の会計報告がない」とかいう話が出た。単に会計管理がずさんだったとか、そういう常識がなかったとか、それならまだ可愛い。けれど私の知るところによると、義援金を被災地支援でなく、故意に教会の必要とか、その関連の必要に回した、というケースがあった。

 そういう操作を指示する牧師に言わせると、「被災地支援も教会が立ち行かなければ続けられない。だから教会のために義援金を使うのは、結果的に被災地の為になる」という理屈になる。だったら、義援金を捧げたくれた人たちにそう言ってみろ、という話だ。だいいち、教会の備品を高価なものに買い替えるのは、教会が立ち行かなくなるかどうかの話とは関係ない。
 それは捧げた人の善意を完全に裏切る行為ではないか。

― ― ― ― ―

 今回の長野県北部の地震で、牧師や教会がボランティアに行ったという話はまだ聞いていない。おそらく地元の方ではそういう動きもあるのではないかと思う。ぜひ頑張ってほしい。

 ところで上記のような問題教会・牧師がボランティアに行くとしたら、要注意である。その善意と憐れみに満ちた行動の裏に何が隠れているのか、じっくり観察する必要があるだろうと思う。

子が親を愛するべきか、親が子を愛するべきか、という話

 牧師の平良愛香氏がつくった賛美に「わたしはおやを」というのがある。

「わたしは親を愛せない・愛さない。でもイエスがわたしとともに生きている」という歌詞が印象的である。

 教会に行くと、「両親を敬え」と頭ごなしに言われる。けれど、自分を虐待してきた親をどうしても許せない、愛せない。でもそんな自分でも、神様が共にいて下さる。そういう気持ちを歌にしているようだ。

「どんな親でも敬うのが聖書の命令だ」というのは、いかにもカルト化牧師が言いそうなセリフだ。彼らは聖書の字面だけ読んで、その意味を深く考えない。あるいは考えたうえで、あえて字面だけ利用する。たとえば「許しなさい」という言葉だけ使って、露見した自分の罪を許させようとする。聖書を都合よく利用する彼らの罪は決して軽くない。

 村上密先生も最近のブログ記事「父と母を敬え」で、同様の事柄を扱っている。いわく、子が敬うべきなのは「神を信じて生活している父と母」であって、そうでない父母、あるいは子を虐待するような父母を敬えとは聖書は言っていない。私も同感である。

 ところで、虐待とかいう極端なケースでなくても、「親を愛せない」という子は、最近多いように思う。

 戦前戦後を背景としたドラマや映画を観ると、子が親を尊敬し敬うというのは、割と日本人の美徳として定着していたように思える。けれど戦後、特に高度経済成長期以降、そういう美徳は急速に失われたような気がする。親が仕事に取られてしまい、子との関係が希薄になってしまった、というのが少なからず影響しているだろう。

 もちろん、全ての子が親を尊敬していない訳ではない。積極的に親を憎もうとする訳でもない。けれど、「(親が)いつも仕事で家にいないから会話がない」「親とどう接したらいいかわからない」「親が何を考えているかわからない」というような理由で、親を尊敬する根拠を見つけれらない子が増えているのではないだろうか。これは無論、母親より父親に対して顕著であろう。

 愛情にしても憎悪にしても、何らかの関係があるから生じる感情であって、関係がない状態では生まれようがない。だから現代の親子関係の問題点は、もちろん虐待等の深刻な問題もあるけれど、むしろ「無関係」「無関心」という断絶にあるように私は思う。

 だからもっと親と子が関係を持つようにしよう、というのはあまりに短絡的な提案であろう。それが簡単にできるなら、初めから問題になっていない。

 理由はどうであれ、「親を愛せない」と子どもが葛藤する姿は、見ていて不憫だ。確かに聖書には「父と母を敬え」と書いてあるけれど、そもそも、子がさほど葛藤なく親を敬えるようにしてあげるのが、両親の役目ではないだろうか。子が努力して親を愛するというより、親がまず子を愛するべきだ。子が自分を犠牲にする以前に、親が子のために自分を犠牲にすべきだ。そしてその結果として、成長した子が親をおのずと尊敬できるようになる、というのが本来だと私は思う。

 もちろん、親の犠牲がいつもダイレクトに子に伝わる訳ではないし、むしろ伝わらないことの方が多いと思う。親とは辛いものだ。けれど子を葛藤させるよりは、まず親が自ら葛藤すべきではないだろうか。

 また、子が努力して親を愛そうとするのは、人間が努力して神に近づこう、喜ばれようとするのに似ている。神の方が歩み寄ってくれているのに、そんなこと全然気づかないで、なんとか神に近づこうとする。「そんなことしなくていい」と神様が言っているのに、全然聞いていない。そんな感じだ。

 だから基本、子どもは親の気持ちがわからないのだと思う。親の気も知らず、それでいて何でもわかった気になっていて、いろいろ偉そうに言う。けれどそれは、仕方のないことだ。なぜなら子どもなのだから。親はそれを理解し、忍耐しなければならない。全然通じなくても、愛し続けなければならない。

 もっとも、昨今の幼児虐待件数の増加を見ると、そういう覚悟のない親が多いように思えてならない。だから余計に子どもが葛藤することになるのだと思う。負の連鎖が続く。

 ここで冒頭の賛美「わたしはおやを」に戻るけれど、そんな負の連鎖に明確な答えを出せないキリスト教には、あるいは現在のキリスト教界には、どんな存在意義があるのだろうか。

2014年11月22日土曜日

【雑記】神は死んでない・今度は日本噴火説・悲しい動画

・神は死んでない
 
 映画『神は死んだのか』"God's not dead"が近日公開される。
 公式HP(予告編あり)はこちら。
 
 無神論者の大学教授に対し、神の実在を証明することになったクリスチャン学生の話である。詳しいストーリーや背景は知らないけれど、是非観ようと思っている。『ノア・約束の箱舟』は全然興味なかったけれど(べつに聖書解釈とかの問題ではない)。

 もし神が実在するなら、起こった出来事は全て人間に対する賞罰として解釈されなければならない、と無神論者は言う。つまり善いことが起これば、その人は善いことをした善人であり、悪いことが起これば、それは悪いことをした悪人であるはずだ。けれど、実際には善人にも悪いことが起こり、悪人にも善いことが起こるから、矛盾している。だから神は実在しない、という訳だ。

 それはそれで一理ある。けれどその考え方には、そもそも神はコントロール可能な存在だという前提がある。「〇〇をすれば神は報いを与える」「××をすれば神は罰を与える」というルールに神様を当てはめ、まるで自動判定するコンピューターみたいに神様を扱っている。つまり、神は人間より下、という考え方である。

 けれど、神様は人間より上位の存在であり、その全てを把握することはできない、というのが私たちクリスチャンにとっての前提であろう。だから善人が酷い目に遭う理由も、悪人が報われる理由も、人間には測りかねる。そこには何の矛盾もない(そもそも矛盾かどうかを判定できない)、ということになる。

 もっとも無神論者は、人間より上位の存在というのがどうしても認められないから、無神論なのだろうけれど。

 少し話が飛ぶけれど、『ジェノサイド』(著・高野和明)というSF小説がある。簡単にネタバレすると、アフリカの奥地で「進化した人間」が生まれ、それを脅威と考えたアメリカ、CIAが抹殺を企てた。けれど「進化した人間」の知能は人間の計画を完全に越えており、人類はハナから勝てっこなかった、という話だ。

 これはもちろんフィクションだけれど、神と人間との関係を考える上で参考になる。つまり人類が英知を集結し、もっとも優秀な人材を揃えて事に当たっても、その計画は初めから手玉に取られている、ということだ。『西遊記』の孫悟空が、世界の果てまで飛んだと思ってもそこは釈迦の手の中だった、というのと同じかもしれない。

 いずれにせよ、映画『神は死んだのか』で主人公がどんな風に神の実在の証明にチャレンジするのか、観てみたい。
 
 ・今度は日本噴火説

「10月に携挙」と主張してハズした人の続報。
 かの人は東京を遠く離れ、南国に移住したとのこと。そこで今度は「本州(?)噴火説」を主張しており、「だから神様が先だって自分を避難させた」と言っているようだ。
 えっ、自分だけ助かればいいってこと? って気もするけれど、たぶん、携挙がハズれたことで自分を非難する人が多いから、「みんな死んじゃえばいい」みたいに考えているのだと思う。もちろん、勝手な憶測だけれど。
 
・悲しい動画
 
 キリスト教関連ではないけれど。
 亡くなる寸前の我が子(新生児)に、父親がギターの弾き語りをした。その動画が最近公開された。

 
 動画(youtube)
 Blackbird with Lennon: http://youtu.be/0lNBcTkssWA

 場所はアメリカ、ロサンゼルスの病院。曲はビートルズの"Blackbird"。
 母親は出産後、死亡した。
 そういう背景を知って動画を見ると、なんとも物悲しい。父親の胸中はいかに。もしその場にいたら、多分かける言葉がない。
 そしてこの動画の3日後、赤ちゃんは亡くなった。やはり、人生とは理不尽なものである、と私は思った。
 
 多分ないとは思うけれど、こういう悲しい話を利用する牧師がいないことを願う。「赤子は召されたらまっすぐに主の御もとに送られます。だから悲しむことはありません」とか。
 その説の真偽はともかく、その父親の気持ちを考えるなら、当然ながらそんな話はできないだろうと思う。

追記)
 映画『神は死んだのか』では、主人公は単位取得をかけて教授と「戦う」ようだ。「神は死んだ」と書いて提出すれば単位がもらえる、という条件に抗ったからだ。つまり信仰的妥協によって単位を得るか、妥協しないで苦難の道を進むか、みたいな話でもある。
 無論これはフィクションであって、そんな究極的選択を迫られることは(少なくとも現代日本では)滅多にない。けれどこの映画を利用して、「神のために全てを捨てて戦わなければならない」みたいな二元論を突き付ける新興宗教系プロテスタントが現れないよう、祈るばかりである。

2014年11月21日金曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・超教派集会篇・その2

 前回に続き、ペンテコステ系の超教派集会について。
 前回の項目は、

・集まるのは当然ガチガチのペンテコステ系クリスチャン
・波乱万丈な賛美
・感動的な献金の勧め

 であった。詳しくは前回の記事をお読みいただきたい。
 さて今回は、上記に続き、「学芸会みたいな出し物」。
 
・学芸会みたいな出し物
 
 これは正式には「特別賛美」とか呼ばれるものである。「出し物」と書いた時点で怒られそうな気もするけれど、他に適当な表現がない。
 
 通常の賛美が会衆が自ら歌うものであるのに対して、これは会衆が「見て、聴いて礼拝するもの」という位置づけである。
 舞台に特別賛美をする人(たち)が上がり、それぞれパフォーマンスを披露する。と言っても賛美を歌うだけでなく、ダンスとか、パントマイムとか、映像とか、楽器の演奏とか、その場で絵を描くとか、いろいろある。そういうのを見て「ハレルヤ!」「アーメン!」「主は素晴らしい・・・(溜息)」とか称賛するのが、正しい会衆の在り方となっている。
 
 べつにそういう方法の礼拝がないとは言わない。けれどこの手の集会においては、それはほとんど「学芸会」の時間になっている。
 
 実体験として印象的だったのは、もうずいぶん前の話だけど、中高生くらいの子たちだけのバンドである。大舞台での演奏はそれが初めてということで、たいへん気合が入っていた。格好つけた(?)演出で登場して、壇上で(よくわからないけれど)ノートパソコンをいじったりして、ヒルソングの元気な歌をやった。スクリーンには歌詞とともに、その子たちの練習風景が映し出された。「僕たち、こんなに頑張ってきたんです」というアピールのようだった。
 たまたま私の近くに、その教会の関係者がいた。「みんな頑張って~」「すごいすごい」「いいよいいよ」などと大声で声援を送っていた。当時は違和感を覚えただけだったけれど、今思えば、あれは「音楽発表会」だった気がする

 初めてだったからとか、まだ若いからとか、事情は理解できる。けれど、「ただ主を礼拝したいだけ」なら、なぜ内輪の練習風景を大々的に映す必要があるのだろうか。そのへんの辻褄が合ってない気がした。
 
 ところでそういう集会に長く関わっている教会は、毎年、実行委員会から「お誘い」を受けている。
「今年も特別賛美の時間枠、お願いします」
「今回は若者向けで」
「そう言えばこの前のワーシップダンス、良かったですよ」
 それで教会は、毎年恒例みたいに、本番に向けて練習を始めることになる。
 
「特別賛美枠」の常連教会はだいたい決まっていて、それだけに教会どうし、互いに意識している。
「あの教会、去年はフラッグダンス取り入れてたよね。ウチも何か新しいことやろうか」「ダンスじゃあの教会にかなわないから、ウチは映像でいこう」みたいな感じだ。もはやライバルとの競争、よりハイレベルなパフォーマンスの披露、会衆を驚かせて感動させること、に終始している。そしてそういう全てを、「主の栄光のために」の一言で覆い隠している。
 
 ちなみに上述の中高生バンドはたいへん痛々しいのだけれど、彼らだって被害者だ。周りの大人、特に指導者が何もフォローしないから、そういうことになってしまう。たいへん気の毒だ。

疑問)「見て、聴いて礼拝する」とは?
 
 大人の側の問題と言えば、そういう「特別賛美」の見方にもある。

 私が初めて「特別賛美」を見た時、正直言って、「見て、聴いて礼拝する」という感覚がわからなかった(今もわかっていないと思う)。
 周りの人たち、特に牧師やリーダーたちが、壇上で捧げられる賛美やダンスにウットリした様子で、手を挙げたり、「ハレルヤ」と呟いたり、泣いたりするのである。そんな中、初めての私は「そういうものか」と思うしかなかった。そしてそういう観賞行動はどうしても真似ることができなかったけれど、「こういうのは礼拝の心で見るものなんだ」と思って、そう心掛けるようにした。けれどそれは結局のところ、礼拝しているフリでしかない。

 そもそも、「見て、聴いて礼拝する」というのは、礼拝として成立するのだろうか。

 パフォーマンスのクオリティにもよるけれど、芸術観賞のような感覚で見ることなら、できると思う。たとえば昨年、「シルク・ド・ソレイユ」の日本公演があったけれど、ああいう圧倒的なパフォーマンスを鑑賞してただただ感動する、声も出ない、という感覚なら理解できる。けれどそういう感動と礼拝行為とは、直接的に繋がるのだろうか。
 あるいはもっとキリスト教に関連付けて、たとえばパイプオルガンとか、聖歌隊とか、ステンドグラスとか、由緒ある教会堂とかを観賞して感動するかもしれない。その感動自体は、礼拝行為と言えるのだろうか。

 もしそうだとしたら、礼拝には感動が必要だ、という話になってしまう。感動すれば礼拝であり、感動できなければ礼拝でない、という訳だ。けれど、感動と礼拝は関係ない。気分がいいから礼拝するのではない。私たちは感動しようがしまいが神様を礼拝する。そういう気分でなくても、落ち込んでいても、礼拝する。
 
 それに、仮に「特別賛美」を鑑賞して感動するのが礼拝行為だとしても、私のように「これで礼拝しないと」と、全然感動していないのに感動しているフリをするとしたら、それは礼拝とは言わない。

2014年11月20日木曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・超教派集会篇・その1

「キマジメくんのクリスチャン生活」第22~27話の解説。超教派集会篇。
 本文はこちらから。

→第22話
→第23話
→第24話
→第25話
→第26話
→第27話

 長いエピソードである。溝田牧師の勧めで献身を考えていたキマジメくんが、ある超教派集会に奉仕者(ボランティア)として参加し、そこでいろいろなクリスチャンの生態を見聞きする、というもの。
 超教派集会と言ってもいろいろあるだろうけれど、ここではペンテコステ系(福音派も入るかも)が関東圏で開いているものの典型例を示している(と思う)。
 以下、特徴的なものを項目を挙げて解説してみる。

・集まるのは当然ガチガチのペンテコステ系クリスチャン

 集会が始まる前、会衆席で「異言」で熱心に祈るご婦人たちがいて、キマジメくんを驚かせる。彼女らは何かを期待しているようである。それでガヤガヤしている会衆席で、一列に座って手を繋ぎ合い、一際大きな声で「異言」で叫んでいるのである。

 実はこれは筆者の実体験でもある。
 確か初めてか2回目くらいに行った超教派集会で、まったく同じ光景を目撃した。始まる前、40~50代くらいのご婦人方が、わき見も振らず「異言」で祈っていたのだ。開演のブザーが鳴るまで続いたから、けっこう長時間である。会衆席は大勢が出たり入ったり、ガヤガヤしていて、誰もそれを気にする風ではなかった。けれどそれまで「異言」にあまり触れたことのなかった私は、たいそう驚いた。もちろん肯定的な意味の驚きだったけれど。

 しかしその「異言」はここでも指摘してきた通り、「ダダダ」とか「ラララ」とかの意味不明な単語の連発であって、聖書が示す異言とはまったく違う。牧師とか有名講師とかに言われるがまま語っているだけだ。そして、それを完全に正しいと信じている。やるせない話である。

 ところでそういう「異言」の祈りは、聖書の別の規定にも反している。つまり初心者、未信者に異言を聞かせるべきでない(第一コリント14章)という規定を無視している。1000人規模の(一応)無料の超教派集会の、誰がいるともわからない会衆席で、集団になって「異言」をまくしたてるのだから、そう指摘されても仕方ないであろう。

 ペンテコステ系全般に言えることだと私は思うけれど、聖書の読み方が断片的、一面的なのだ。年間通読など頑張っている人は大勢いるけれど、彼らは何周通読しても、聖書全体が何を言っているのか、全然見えていない。だから自分のしていることが聖書の記述と明らかに矛盾していても、まるで気づかない。あるいは都合よく解釈(曲解)している。

・波乱万丈な賛美

 こういう集会の賛美リードは、だいだい有名教会の賛美チームがやる。それなりに上手で、自教会のレーベルを作ってCDを出すような教会が多い。つまりかなりプライドが高い。もちろんそんな素振りは見せないけれど。

 こういう教会や集会の賛美は波乱万丈である。はじめは「プレイズソング」を何曲か、元気よく歌い、飛び跳ねたり踊ったりする。続いて「ウェルカムタイム」とかで、近くの人と挨拶し、握手したりハグしたりする。続いてミドルテンポな賛美を歌い、司会者が上手にお祈りしたりして、「ワーシップソング」に入る。メロディアスな曲で感極まってくると、決まって泣きが入る。司会者が「悔い改めましょう」とか「献身を新たにしましょう」とか勧めると、全体で泣いたり叫んだり祈ったり、もう訳の分からない状態になる。牧師に言わせるとそれは「聖霊様の自由な導き」ということになり、熱心な信徒に言わせると「生ける神様が生き生きと働かれる時間」ということになる。

 そういう訳で歌ったり踊ったり、笑ったり泣いたり、いろいろ忙しいのがこういう集会の賛美である。しかも30分以上かかることもあるから、もう賛美だけでお腹いっぱいである。でもまだまだ序の口だ。

・感動的な献金の勧め

 この手の集会は、だいたい賛美の後に献金の時間を持つ。賛美の後で気持ちが高ぶっているから、財布のヒモが緩んでいる、と想定しているのかもしれない。

 こういう集会は基本的に入場無料、参加費無料だから、運営的には厳しいと思う。会衆には是非とも献金してほしいところだろう。そういう狙いがあってか、「献金の勧め」という時間があって、偉い(?)先生が出てきて話す。だいたい以下のような話だ。
「経済的に苦しい時、思い切って献金したらそれ以上の祝福を得た」
「会堂建築で本当にお金が必要だった時、必要額ピッタリが与えられた」
「ある集会に参加して、神様に感動して財布ごと献金してしまった。帰りの電車賃さえなかった。けれど帰り道、会うはずのない知人と偶然出会って、車で送ってもらえた」
 つまり、神様があなたの必要を満たすでしょう、だから今ここで捧げてね、という話だ。
 要はそういうことなのだけれど、熱心な人は感動の涙に濡れて、キマジメくんみたいに沢山捧げることになる。

 以下、まだ続くのだけれど、長いので次回に回したい。

2014年11月19日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第47話

 という訳で、『メボ・ルンド師の癒しとミラクルの大聖会・2014』の準備が本格的には始まった。

 その後のミーティングで、細かい担当が決められた。当日の会場セッティングや司会、賛美のコーディネート、軽食の準備、メボ・ルンド師の送迎と接待、通訳などだ。それぞれで準備を進め、溝田牧師が全体を監督する。そして週に1回、日曜礼拝の後に奉仕者全員でミーティングを持ち、それぞれの進捗状況を報告することになった。
 キマジメくんは「メディア担当」になり、ホームページの管理とか、メボ・ルンド師の紹介映像作りとか、同師の書籍の管理とか、当日の撮影とかをすることになった。けれど映像作りとか撮影とか、まったくの未経験である。キマジメくんはどうしたら良いかわからず、溝田牧師に相談することにした。

「これはチャレンジだよ、キマジメくん」牧師は言った。「人間、成長しなければならないと聖書に書いてある。創世記のはじめ、エデンの園で神がアダムとエバに言うだろ、『うめよ、ふえよ、地を満たせ』と。あれはね、成長を意味してるんだ。だから成長しないことは、御心に反するという意味で、罪なんだよ。そして成長とは、今できないことにチャレンジしていくことなんだ」
「はい」
「それでだね、キマジメくん。今回は君がメディアを担当するよう、主が導いておられるんだよ。私の意思じゃない。主のご意志なんだ。もちろん、どうしても不都合があるなら辞めてもいいんだけどね。でもそれだと、主のご意志に逆らうことになるからねぇ・・・」
「はい、やります」
 キマジメくんは即答した。主が求めておられるなら、やるべきだと思ったからだ。主は試練とともに、逃れの道も用意しておられると書いてある。耐えられない試練は与えられない。ということは、これは耐えられる試練であって、成長の機会なのだ・・・キマジメくんはそんな風に考えた。
「それでね、キマジメくん。メディアってのはセンスだよ。それも霊的なセンスだ。映像をどう作るとか、ホームページをどうデザインするとか、撮影をどうするとか、そういうのは祈っていれば与えられる、霊的感覚なんだ。これは皆には言わない秘密の真理だよ。だから君が今すべき第一の準備はね、祈りだ。主を第一にすれば、すべてのものが与えられる。聖書にそう書いてあるだろ?」
「はい、確かに」

 という訳でキマジメくんは家に帰り、祈ってみた。メボ・ルンド師の紹介映像をどう作るべきか、どんなホームページを作るべきか、どう撮影すべきか。けれど明確なものは何一つ与えられない。自分の信仰が足りないんだ、祈りが足りないんだ、と思ってキマジメくんは悔い改め、また祈った。しかし何時間たっても何も与えられない。だからまた悔い改める・・・その繰り返しで一日終わった。

 次のミーティングの時がきた。奉仕者たちが続々集まる。
 ミーティングのはじめは、やはり「異言」の祈りである。1時間近く全員で「異言」で祈ったり、互いのために祈ったりして、「霊的雰囲気」を高めていった。そして皆で「主の勝利」と叫んでから、本題に入った。
「じゃ、準備の進捗状況、順番に報告して」ソファにふんぞり返った牧師が言う。
 特に順番を指定されなかったので、端の人から順番に報告を始めた。何人かが終えて、軽食係が報告を始めた時のこと。
「これ、軽食のメニュー?」牧師が渡された紙を見て言う。
「はい」軽食係の姉妹が、やや緊張した声で答える。
「これねえ、基本いいんだけどねえ、カボチャサラダはないなあ」
「カボチャサラダ、ダメですか?」
「うーん、まあ君が知らないのも無理ないけどねえ」牧師は指でテーブルをトントン叩きながら言う。「カボチャはねえ、実は、悪魔崇拝の足掛かりになるんだよ。ほら、ハロウィンがあっただろ? あれは悪魔崇拝の典型だよ、君、まさかハロウィンパーティとかしてないだろうねえ?」
 一部でどよめきが起こる。信徒らが互いに顔を見合わせる。ある信徒が言う。
「確かに、ハロウィンみたいな禍々しい行事には、悪魔崇拝の邪悪な気配を感じますな。私なんかあの日、御霊に感じて霊の戦いをさせられましたよ。ま、打ち破りましたがね
「それは私もだよ」溝田牧師も言う。「あの日はこの地域一帯が重くなったからね。ハロウィンを祝う人が、それだけ多かったってことだな。敵の勢力で一時的であれ、大きくなったからね、打ち破るのに苦労したよ。戦い終わって、しばらく寝込んでしまったよ」
「そうだったんですか、先生ご苦労様です」何人かの信徒が言う。
「いやいや」牧師は軽く手を挙げてそれに応えた。

 という訳で、メボ・ルンド聖会の軽食コーナーからカボチャサラダが削除された。またそれ以降の全ての教会イベントから、カボチャの存在が消えた。
 また教会の近所のスーパーはそれ以降、カボチャの売り上げを若干落とすことになった。スーパー側には、その理由は知る由もない。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年11月18日火曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(若手牧師篇)

 聖霊派・福音派あたりの若手牧師(若干カルト気味)のあるある。
 若手と言っても30代~40代くらいか。"Next gereration" なんて呼ばれた人たちも、もう50代に近いかも。ちなみに「ユースパスタ―」なんて呼ばれたりもする。

・次世代のリバイバルの担い手、と言われて早10年、あるいは20年。
 このまま行くと、リバイバルは次の世代に託すハメになりそう。

・「日本の閉塞感を・・・」が口癖。
 でも、もう10年も20年も閉塞しっぱなしですけど(それ以前に、何が閉塞しているのかが曖昧)。

・「若者ミニストリー」に力を入れている。
 自分も若い方だからかな。

・自分より年輩の信徒とギクシャクしやすい。
 扱いに明らかな差がある場合も。まあ相性もあるけど。

・メッセージにパワポ、ビデオを使う。パワポは小細工がやたら凝っている。
 ちなみにメッセージの初めはひたすら笑いを取る。「アイスブレイクが必要だ」とか。

・「神様に〇〇と導かれている」≒「自分が〇〇したい」

・秒単位のスケジュール(←あくまで時々)を困ったようにアピールする。

・自教会の舞台装置に異様にお金をかける。
 内装、音響、照明、楽器、小道具に至るまで。もはやナイトクラブと化したところも。

・服装は舞台に上がる時もカジュアル。
 皮ジャンとTシャツとジーパンとか。ちょっと若すぎないか(下は参考画像)。
 よっぽどフォーマルな場でないとスーツは着ない。
 超教派の集会なんかだと、若作りしたオジサンはだいたい「若手牧師」。

・携帯電話は早くからスマホを使用している。
 けれどイマイチ使いづらいなと密に思っている。

・スマホ、タブレット、小さいノートパソコンと一通り持っている。
 けれど機能が重複してて、イマイチ使いこなせていない。ちなみに初期設定はすべて信徒に任せている。

・書斎には大画面のiMacが鎮座している。
 けれど使うのは実はネットとメールとワープロだけ。

・カメラは一眼レフ。
 でも設定は一切いじれない。シャッター押すだけ。だったら普通のコンパクトデジカメで十分なんですけど。

・信徒が携帯に電話しても出ないことが多い。折り返しもしない。
 そのくせ信徒がすぐ電話に出ないと怒る。

・信徒が携帯にメールしても返信しないことが多い。
 そのくせ信徒がすぐ返信しないと怒る。
 ちなみに信徒がいくらメールアドレスを教えても、その都度「アドレスは?」と聞いてくる。保存しとけ。

・車がトヨタのヴォクシーの場合、「牧師だからヴォクシー」とか、寒いジョークを言ってまわりを困らせる。
 ちなみにその車、どうやって買った?

・超教派の集会では、あまり目立とうとしないで様子を見ている。
 けれど呼ばれるとイキイキ登壇して、長々と話す。

・サッカーとかテニスとかの趣味があり、その話になると長い。
 ちなみに教会でサッカー大会とか開くのは、実は自分がしたいから。でも体力が続かないのであまりできない。

・海外の何かにすぐ飛びつく。海外とのつながりを強調する。
 ここで英語ができる・できないの差が出る。英語ができない牧師は、できる牧師に頭が上がらない。海外のゲストを紹介してもらえるから。

・横文字が好きで、チャーチ、バイブル、ジーザス、スピリット、コンファームとか、会話の中にやたら入れてくる。

・名刺は非定型のサイズ(横長とか二つ折りとか)で、透明だったり金ピカだったり、やけに凝ったデザインだったりする。
 ちなみに牧師どうしで名刺交換する時、密に見栄の張り合いになっている。結果、みんな奇抜な名刺になっていく(合掌)。

2014年11月17日月曜日

聖書の成功哲学は、信仰生活とは違う、という話

 聖書を「成功哲学の書物」とする読み方があるようだ。

『聖書で学ぶ成功哲学』という書籍がある。ビジネスに聖書的原理を利用すれば成功(繁栄)できる、というようなことが書いてある。クリスチャンの信仰書でなく、あくまで一般のビジネスマン向けに書かれている。いわゆる啓発本だ。

 聖書の原則、たとえば「与える」とか「仕える」とか、「まだ見ぬうちに信じる」とかいうのは、一見、ビジネスで儲けようという姿勢とは関係ないように思える。けれど、他のビジネス啓発本を見ても、「人を喜ばせる」とか「相手の必要を満たす」とか、けっこう聖書的なことが書かれている。クリスチャンが読んだら、容易に聖書を連想するだろう。

 たぶん、ビジネスで一定の結果を出している人は、経験的に聖書的原理に気づいているのではないかと思う。もちろんそれが聖書に書かれているとは知らずに。そしてそれは、聖書が成功哲学の書物でもあることを証明していると言える。

 聖書の原則に従うことで、一般の人でも良いものを得られるというのは、クリスチャンにとって誇らしいことだろう。聖書が真理であり、神様が本物であると証明されるからだ。だから聖書の成功哲学を利用してビジネスを成功させよう、という試み自体は、全然悪くない。

 けれど昨今、クリスチャンがクリスチャン向けに「成功哲学セミナー」みたいなのを開くことがある。内容は同じで、聖書の原則に従って「人生の成功」を勝ち取ろう、繁栄しよう、みたいな感じだ。それも必ずしもビジネスの話ではない。

 信者だろうが未信者だろうが、ビジネスに聖書的原則を応用するのは構わない。むしろビジネスは成功させてナンボなのだから、使えるものは何でも使って、努力して儲けるべきだろう。その姿勢は、今日の資本主義社会においては何ら責められるものではない。

 けれど上記のセミナーの問題は、クリスチャンは人生に成功してこそ聖書的だ、という点にある。成功して経済的繁栄をつかみ、名声をつかみ、高い地位をつかむことが聖書的であり、信仰であって、そうできないのは不信仰だ、という話になってしまう。要は「繁栄の神学」である。

 私たちはもちろん豊かな暮らしがしたいし、良いものを受けたい。誰もがそう願うだろう。けれどキリスト教信仰は、必ずしも繁栄を約束していない。旧約聖書は十戒を守る者に「恵みを千代にまで施す」と書いているけれど、新約聖書は私たちが「キリストの苦しみにあずかる」とも書いている。

 だから「繁栄の神学」を信奉することは、聖書の片面しか読んでいないことになる。それを人に教えるのは、わざと知識を欠けさせることになる。黙示録22章19節は、「(聖書の言葉を)少しでも取り除く者は~受ける分を取り除かれる」と警告している。彼らはその警告さえ耳に入っていない。

結論)
 聖書の成功哲学に従って生きること  聖書に従って生きること

2014年11月15日土曜日

クリスチャンの若者をどう育てるか、という話・その2

 クリスチャンの若者をどう育てるか、という話の2回目。
「十代の十代による集会」に関連して書いているけれど、その続き。
 
若者たちに機会を」というコンセプトのもと、ある事柄を全て子供たちだけでやらせるみる、というのは、試みとしては良い。けれど傲慢になるなどの危険性が大きいから、ちゃんと子供たちの様子を見極めてフォローしなければならない、というのが前回の内容。
 
 今回は、もう少し細かいことを書いてみたい。
 
 たとえば、賛美奉仕を全部子供たちだけにやらせてみよう、という試みがある。
 もちろん責任者は大人だけれど、子供たちだけのバンドを作り、司会も選曲も構成も、全て子供たちに任せる。準備の段階は大人が助言するけれど、本番は子供たちだけで進める。
 
 それで実際にやらせてみると、まあ最初はいろいろ失敗したり、不手際があったりする。会衆の前で不適切な発言をしてしまい、実は誰かを不快にさせていた、なんてこともある。けれど、それは「やらせてみよう」というチャレンジ(悪く言うと実験)であって、皆それを理解している訳だから、問題ない。子供なのだから仕方がない。
 
 大事なのは、そういう「経験」を通して子供たちがそれぞれ「学ぶ」ことであろう。「若者たちに機会を」というコンセプトは、それが目的のはずだから。
 
 それはそれで教育効果はあると思う。けれど、そもそもそれを「礼拝」と呼ぶのはどうなのだろうか。
 神への真心からの礼拝、聖書的に言う「霊とまことによる礼拝」は、そういう子どもたちだけの実験的、教育的、チャレンジ的試みと、両立するのだろうか。
 私が「十代の十代による礼拝」と書かないで、「十代の十代による集会」と表現している理由は、そこにある。
 
 たとえばギター奏楽を任された子が、終始ギターの演奏や構成のことにだけ集中していて、礼拝中、ただ「演奏しているだけ」な状態かもしれない。そんな風に全員が、「やること」にだけ集中しているかもしれない。それでも彼らは先輩たちの姿を模範にしているはずだから、傍から見たら、ちゃんと礼拝しているように見える。会衆には、彼らの心のうちは見えない。
 
 あるいは、奉仕者がどうであれ、それに参加する一人一人が礼拝に向かえばそれでいい、という考え方もあるかもしれない。確かにそうできる人はいると思う。けれどそれは、「ウチの礼拝はいろいろ粗相があるでしょうけど、そこは個々で礼拝に集中して下さい」と表明するのと同じではないか。「教会」の体をなしているなら、集った人が安心して、落ち着いて礼拝できるように配慮すべきだ。それは最低限の務めだと思う。
 
「十代の十代による集会」は私も沢山参加したけれど、子供たちは皆緊張している。事前に散々練習して、直前までリハーサルして、台詞を忘れないように、流れを間違えないようにと、ドキドキしながら本番に臨む。そして確かに「素晴らしい純粋な礼拝」をする。けれど、(言葉が悪いけれど)それはいわば学芸会みたいなものだ。「若者たちの礼拝」でなく、「礼拝している若者たちを演出している」のである。
 
 そういう集会の後、大人たちが子供らに何と言うか、聞けばわかる。「良かったよ」「すごかったよ」「メッセージ恵まれたよ」とかほとんどの大人が言う。つまり子供たちがどれだけ頑張ったか、どんなにプレッシャーに耐えたか、どれだけ練習してきたか、という子供たちに対する称賛であって、神様なんてどこにもいない(もちろん「神様」という言葉は出てくる)。
 
 そこには多分に、「子供は無邪気に純粋に礼拝している」という大人の側の勝手な推測がある。彼らの多くは、たとえばギターがどれだけ難しく複雑な楽器か知らない。ちょっと練習すれば簡単に弾けるだろうくらいに思っている(もちろん全員ではない)。
 
 子供たちの礼拝に向けた努力とか、純粋な心とかを私は否定しない。それはそれでホンモノであろう。けれど、それだけでは説明できない子供たちの複雑な事情を無視して、「子供たちも大人と同じように礼拝できる。いや、大人以上に純粋にできる」と言うのは正確ではない。
 だから上記のような「子供たちに機会を」というコンセプトで、たまにイベント的にやるのはいいけれど、レギュラーで子供たちに礼拝を任せるのは良くないと私は思う。レギュラーの礼拝はいわば「仕事」であって、もはや「教育」ではない。そして子供のうちは、「仕事」より「教育」を優先すべきだ。
 
 ロクに教えられず、ちゃんと学んでない若者たちが、礼拝を任せられる。彼らなりに努力して、「良い礼拝」を見せる。大人たちが称賛する。「これは素晴らしい」ということでレギュラーで礼拝するようになると、最初は謙虚だった若者たちが、次第に傲慢になっていく。そしてそのまま大人になってしまうと、「パフォーマンスは高いけれど聖書を半端にしか知らない集団」になってしまう。そうなるともう手が付けられない。聖書を都合よく曲解し、「これが御心だ」で他人を都合よく動かす、おかしな宗教になってしまう。
 
 だから結論は前回と同じだけれど、若者には教育が必要だ。実践とか経験とかももちろん大切だけれど、正しい知識がないと、いずれどこかで間違えてしまう。
 人生の長さはそれぞれわからないけれど、子供のうちは特に成長発達の途中なのだから、いろいろな教育や準備に時間を当ててもバチは当たらない。実践は大人になってから、ゆっくりやっていけばいい。結局はそれが子供たちを守ることになる、と私は思う。

2014年11月14日金曜日

クリスチャンの若者をどう育てるか、という話

 都内の教会で、中高生向けの集会があった。

 中高生向けの集会自体は、星の数ほどあるだろう。けれどここの斬新さは、単に「中高生向け」なのでなく、中高生が運営し、中高生がリードし、中高生がメッセージを語る、というスタイルにあるという。つまり「十代の十代による集会(礼拝?)というコンセプトだ。「中高生にもできることがあるから、なにも大人になるまで待つ必要はない」という考え方があるようだ。そしてその考え方を補強するため、エレミヤの例が使われている。
「まだ若い、と言うな」

 高齢な牧師がいつまでも現役でいて、若い人に機会を与えない、という話はよく聞く。自分がやらねばダメだ、若い者には任せられない、みたいな使命感に燃えて老体に鞭打つ牧師先生も立派だけれど、いつかはどうしても後任に引き継がねばならない訳だから、引き際を考えるのは重要であろう。そういう意味で、「若者にチャンスを」という上記の試みは、意味があるように思える。

 けれど、こういう「十代の十代による・・・」みたいな活動を「新しい試み」と捉えるのは、ちょっと違う。確かに規模は大きいかもしれないけれど、同様の試みは、あちこちでずっとされてきた。そして良いも悪いも含めて、いろいろな結果を生んできた。だから上記の活動を見て「日本の(キリスト教界の)未来も明るい」とか考えるのは、やや時期尚早である。

 べつにそういう活動を否定する気はない。若い人には頑張ってほしいと私も思う。けれど以前も書いた通り、キリスト教会が始める何かは、長いスパンで見なければ、その本質はなかなか判断できない。単発で終わるのは論外だけれど、1年や2年は人の努力や勢いで調子よく続けられる。信仰でなくてもできる。問題は、勢いがなくなった時、困難になった時、飽きた時、やる意味を感じられなくなった時、に訪れる。
 そしてその時、簡単に頓挫してしまうようなら、その活動は初めからホンモノでなかったとわかる。

 しかしこれは、なにも若者たちだけの話ではない。クリスチャン、教会、関連団体の全てに当てはまる。「信仰」を掲げて始めるのだったら、その活動は徹頭徹尾、信仰で貫かなければならない。それができないなら、単に「やりたかっただけ」と評されてしまう。それが嫌なら、初めから「信仰」とか「御心」とか言わない方がいい。厳しいようだけれど。

 で、「十代の十代による集会」だけれど、基本的には悪くないと思う。ただ、いろいろと危険が多いのは否定できない。
 若者がもっとも陥りやすい落とし穴は、傲慢であろう。ちょっと目立ったから、ちょっと活躍したから、ちょっと役に立ったからと、過剰に自信を持ってしまうことが多い。自信を持つのはいいけれど、持ち過ぎは良くない。それを放置すると、「大人どもより自分らの方が良くできる」みたいな錯覚に陥り、目上に対する尊敬とか、敬意とかを簡単に投げ捨ててしまう。
 けれど彼らは頭がいいので、そんな態度は表立って見せない。誰に対してどんな態度を取るべきか、大半の若者たちはよくわかっている。そしてそういうことを知らない大人は「なんて素晴らしい若者たちだ」と手放しで称賛してしまう。しかしそういう考えなしの称賛は、若者たちの為にならない。

 もちろん、本当によくできた若者たちもいる。ただ、若さとそういう危険性とは、表裏一体の関係と言ってもいいくらい密接だ。

 また、「若者たちにチャンスを」という意味でエレミヤの例を挙げるなら、1章の、まだ何も始まっていない箇所だけ挙げるのはフェアでない。その後エレミヤがどんな歩みをし、どんな困難を受けて苦しんだかも語らなければならない。たぶんエレミヤの生涯を知ったら、「エレミヤみたいに若くても主に仕えます」とはなかなか言えない。言うことはできても、誰が最後まで実行するだろうか。
 なのに、「これから主に仕えていくんだ」という「輝かしい希望」だけぶら下げて若者たちを釣るとしたら、それはハッキリ言って詐欺と同じだ。羊頭狗肉とはこのことであろう。

 それと、「若者たちの活躍」という話になると、たとえば幕末の志士たちを取り上げて、「若者たちが日本の未来を創ったのだ。だから君たちも!」みたいに言う教会リーダーたちがいる。それで若者たちは盛り上がってしまうのだけれど、志士たちが実際にどう生きたか(どう死んだか)はあまり知らない。だから「献身」したら華々しい人生が待っている、と思い込んでしまう。

 べつに若者たちを悪く言うつもりはない。彼らが次代の担っていくのは間違いない。しかしだからこそ、その教育には細心の注意が必要だと私は思う。「若者たちにチャンスを」というコンセプト自体は良い。けれど大切なのは、チャンスを与えることより、その後どうフォローするかだ。

 だからこの「十代の十代による集会」の結果は、彼らが1年後、5年後、10年後、どんな人物に成長するかにかかっている。今回の集会がどれだけ盛り上がったか、何人集まったか、どんなインパクトがあったか、なんて全然関係ない。そんなことは皆すぐ忘れてしまう。それは歴史がハッキリと証明している。

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・献身篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第18話の解説。献身篇。
 本文はこちらから。


 これは、大学1年生のキマジメくんが、教会に「献身」するために大学を中退するかどうかで悩む話である。結局中退してしまうことから、彼は当初から「献身」するつもりだったと思われる。ただ一般常識を捨て切れなくて、悩んでいたのだろう。

 ちなみにここで言う「一般常識」とは、未成年が両親の了承を得ないで中退していいのかとか、大学生をしながらでも献身できるんじゃないかとか、そういう至極まっとうな考え方のことである。

「献身」そのものは、決して悪いものではない。
 たとえば「献身」して牧師や宣教師になる人がいないと、基本的に教会は維持できない(もちろん無牧教会もあるけれど)。また教会の運営には当然実務が必要で、たとえば事務とか、会計とか、電話応対とか、それなりに人手が必要になる。そういうのは「献身」したスタッフが担うのが通常だから、教会がある限り、誰かが「献身」することになる。

 けれどキマジメくんの教会を見てみると、先のミーティングの場面からわかる通り、すでに複数の「献身」したスタッフがいる。牧師には秘書まで付いている。教会員は100人に満たない規模だから、相対的にスタッフの数は多い。つまり、キマジメくんがフルタイムのスタッフにならなければならないほど、人材が深刻に不足している訳ではない。

 昨今、こういう聖霊派・福音派の教会が増えている。

 高校(主にチャーチスクール)を卒業する生徒たちに、「神様に生涯お仕えすることが最高の人生なのだ」と牧師が勧め、卒業後も生徒を教会活動に繋ぎとめておこうとしたり、手元で働かせようとしたりする。その為に教会が自前の「神学校」を作ったり、牧師の「直属の弟子」という身分を与えたり、事業を立ち上げてそこのスタッフにしたりと、あの手この手のおいしい条件(?)を提示して、生徒を勧誘する。

 生徒の方は、長年お世話になっている牧師の言うことだし、純粋に神様に仕えたいとも思っているから、(特に親の反対がなければ)「献身」の道を選ぶことが多い。

 その結果どうなるかというと、牧師が教会の活動を増やすので、スタッフたちは忙しくなり、薄給で長時間労働に従事することになる。そしてそのうち「神に仕えている」ことに過剰なプライドを持ち、自分たちの「働き」が最高だとか、他の教会はダメだとか、そういうことを明に暗に言うようになる。

 超教派の大きな集会なんかに行ってみると、彼らのエゴがよく見える。舞台に立って「素晴らしい」賛美やダンスや証を披露して、謙遜なフリして「主に栄光を帰します」とか言うけれど、そのくせ他の教会の「出し物」を上目線で眺めている。「ダンスはあの教会が一番だな」「賛美はウチが一番じゃね」「今度あの教会みたいに映像使ってみよう」「あの司会、ダメでしょ」とか、パフォーマンスの話と序列の話に終始する(もちろん全員が全員という訳ではない)。

 余談だけれど、川口リリアなどのホールでそういう集会がある時は、舞台裏を覗くと面白いかもしれない。ステージ袖は原則部外者立ち入り禁止だけれど、人の出入りが多いうえ、何のチェックもないから、誰が部外者かなんてわからない。関係者のフリして堂々と入っていけるし、ずっといてもいい。すると時々面白い(?)話が聞けるかもしれない。近隣で興味のある方はどうぞ。

 とにかくそんな風に、牧師が「教会という就職先」に新卒信徒を導き入れる、なんてことが最近多い。
 それのどこが悪いかというと、基本的には悪くないだろう。
 もちろん問題がない訳でなく、上記のような不遜な若者クリスチャンを作り出してしまったり、いつも書いているような信仰上の問題(体験主義とか能力主義とか、神秘主義とか感覚頼みとか)が延々と継承されたりする。

 それはそれでハッキリ間違っていると思う。
 けれど、少なくとも彼らは真面目にそれを信じている訳で、いくら言ったところで簡単には変わらない。それに薄給とか長時間労働とか、ボーナスがないとか国民年金しか入れないとか、(おそらく)退職金もないとか、そういうことをきちんと納得してやっているのなら、それを他人が止める法はないだろう。そして教会がちゃんと存続し、約束の給料を毎月スタッフに払えているなら、それはそれで続いていく。そしてそういう生活を長年続けているなら、スタッフは今さら辞めるという訳にはいかない。

 だからそういう若年献身者がいる教会は、いろいろ信仰上の誤りがあるとしても、ちゃんと存続してほしい、と私は裏腹に思っている。なぜならその教会が何かの理由で頓挫してしまったら、彼ら献身者らは、生きる場所を失ってしまうからだ。

 子供の頃から教会で過ごし、教会とともに成長し、そのまま教会で働くようになった人たちは、もはや教会外では生きられない。もちろん物理的には生きていけるし、生きていく他ないけれど、それはアイデンティティを失った人生である。それまで、教会の中では何者かであった人が、急に一般社会に投げ出されて、何者でもない、誰からも認められない、通用しない存在になってしまう。いや、実は初めからそうだったのだけれど、そのことに気づいてしまう。その時は本当に悲惨である。

 たとえば長年教会スタッフをしていた人が、その教会を失ってしまったとする。それでも生活のために仕事をしなければならない。けれど就職しようとした時、ほとんど何もできない自分自身に気づく。普通に働くことは慣れればできるかもしれないけれど、教会であれほど活躍していたのに、いざ普通に働こうとしたら、全然活躍できない。
 その大きすぎるギャップに苦しむことだろう。

 だから信仰的に誤りがあるとしても、そこで長年生きてしまった人にとっては、それが最後まで続くのが幸せなのではないだろうか、と私は思う。明らかな信仰的虐待とか、金銭の搾取とか、そういう大きな問題に遭わず、それなりに充実した教会生活を送れて定年を迎えられるなら、それがいいのかもしれない。

 あるいは、間違っていることは間違っている、とハッキリ突きつけられて、一度ドン底まで落ちた方がいい、という意見もあるかもしれない。確かにその方が正しいかもしれない。

 けれどドン底まで落ちて、一時的にでもアイデンティティを失ってしまっても、そこからまた人生を前向きにやり直せる人が、どれくらいいるだろうか。皆が皆、そうできるだろうか。

 そう考えると、おかしな「異言」を語ったり、「御心」を勝手に思い込んだり、「霊的」を自称したりするクリスチャンであっても、人様に大きな迷惑をかけないなら、そういう信仰ゴッコを続けて生きるのが、もしかしたら「神様の憐れみ」なのかもしれない。

キマジメくんの今後の献身生活を想像しながら、そんなことを考えてみた。

2014年11月12日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第46話

 さて、教会は伝道集会の準備を始めた。タタカイ兄弟の一件など、何もなかったかのようだ。溝田牧師はタタカイ兄弟に普通に話しかけるし、兄弟も自然に受け答えする。キマジメくんはどう捉えたらいいものか混乱したけれど、すぐに伝道集会の準備が忙しくなって、それどころではなくなった。

 今度の集会は、「癒し」を前面に掲げたものだった。アメリカから有名な「癒しのミニスター」が来日するそうで、そのスケジュールに合わせて開くことになっていた。集会名は、講師の名前を入れて「メボ・ルンドの癒しの聖会」となった。キマジメくんはさっそくポスターを作り、牧師に見せた。

「うん、いいね」
 牧師は開口一番そう言った。一発でOKが出るのはなかなか珍しい。今回はスムースに行きそうだな、とキマジメくんが思った矢先、牧師が付け加えた。
「あ、でも、たぶんメボ・ルンド先生は来年も来られるみたいだから・・・。そうだ、『メボ・ルンドの癒しの聖会・2014』にしようかな。急に変えて申し訳ないけど」
「あ、はい。じゃあ2014を付ければいいですね」
「うん、そうだね」
 文字を付け加えるだけなら時間はかからない。キマジメくんはその場でパソコンをいじり、修正したものを牧師に見せた。
「ああ、いいね」と溝田牧師。「あ・・・、でも、今回は大きな集会になるからな・・・。人も沢山集まるだろうし・・・。そうだ、『メボ・ルンドの癒しの大聖会・2014』でどうだろう」
「あ、『大』を付けるんですね、はい」
 キマジメくんはまた修正して、見せた。
「うーん、いいんだけどねえ」牧師は眉間にシワを寄せる。「なんかこう、インパクトがないよねえ」
「インパクト、ですか」
「うん、インパクトは大事だよ、キマジメくん。ポスターを見て、行ってみようかなと思う人が一人でも増えたら、それだけ救われる魂いが増えるということだからね。そんな重要なことはないよ」
「あ、はい、それは確かに」
「だからインパクトがねえ・・・、そうだ、『メボ・ルンドの癒しと奇跡の大聖会・2014』でどうだろう」
「あ、いいと思います」
 キマジメくんは言われた通り修正する。
「うん、だいぶ違うね。インパクトもある。どう思う?」
「いいと思います」
 正直、そのあたりはキマジメくんにはどうでも良く思えた。「じゃあこれで印刷に・・・」
「あ、ちょっと待って」と溝田牧師。「メボ・ルンドって、呼びつけじゃマズイよねえ。『メボ・ルンド師』って敬称を入れようか」
「じゃあ、『メボ・ルンド師の癒しと奇跡の大聖会・2014』ですね?」
「うん、そうだね、それでいこう」
 キマジメくんは最後の修正を終え、牧師に見せた。
 牧師はまだ眉間にシワを寄せている。「キマジメくん、悪いんだけど、最後の修正、お願いしてもいい?」
「あ、はい。何でしょう」
「その『奇跡』ってところさ、『ミラクル』に変えようか。ほんとゴメンね」
 という訳で、集会名は『メボ・ルンド師の癒しとミラクルの大聖会・2014』となった。

 次の日曜日、教会の至るところにそのポスターが貼り出された。礼拝中のアナウンスでも、その集会の広報の為に時間が割かれた。
「今回、アメリカで癒しの器として用いられている、メボ・ルンド先生を当教会にお迎えすることになりました。ハレルヤ!」
 溝田牧師は明るい声で言う。「この集会では、すごい癒しの業が起こると信じます。ですから皆さん、お知り合いの中で、特に病にある方を誘ってきて下さい。そしてこの集会で、癒しを体験してもらいましょう。そして癒された人々が主を信じ受け入れるなら、神の国はますます拡大します。ハレルヤ!」
 会衆も口々に「ハレルヤ」「アーメン」と言う。
「では最後に、この集会の祝福のために祈りましょう。この、メボ・ルンド師の癒しの聖会・・・じゃなくて、メボ・ルンドの癒しと奇跡の・・・・あ、これも違う。えと、何だっけ、集会名? ま、『メボ・ルンド聖会』って略してもいいですね。じゃあ祈りましょう!」

 えぇっ? とキマジメくんは思った。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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【雑記】携挙騒動のその後・癒しについて

・去る10月まで「もうすぐ携挙」と主張していた人のその後
 
 結局携挙の「き」の字も起きなくて、その「預言」は完全に外れたことになった。てことはニセ預言者確定? と思いきや、本人いわく「神様が思い直された」「信仰を試すためだったと神様に語られた」ということで、完全なる責任回避。というかもう「逆ギレ」のレベルで、「私が個人的に語られたことを私がどう書こうと勝手でしょ」みたいな話になっている。
 
 村上密先生が最近のブログ記事で、この件に言及している。それによると、上記の言い分は「主を嘘つきだと言っている」ことになる。私も全く同感だ。「自分は神様に語られたことを書いただけ。神様がいろいろ振り回しているんだ」
 書きたいように書いておいて、最後は神様に責任をなすり付ける。非常に悪質ではないだろうか。このままでは許されないと私は思う。
 
 ちなみに村上先生は「嘘を信じた方が悪いのではない」と言っていて、騙された人々を擁護している。私も基本的に同意見だけれど、信じた人に全く責任がない、とも思えない。騙された人々が被害者であるのは間違いないけれど、何かしら反省すべき点もある、とも思う。
 厳しいかもしれないけれど、何かしら反省がないと、また同じような目に遭ってしまう。
 
 で、当のニセ預言者は携挙の話なんて全くなかったみたいに、のうのうと信仰ゴッコを続けている。ブログの更新はこのところ滞っているようだけれど。
 
・「癒し」について
 
 聖書に書かれているような奇跡的な「癒し」が今日も起こるのかどうか、という議論があると思う。そして聖霊派とかペンテコステ派とかには「起こる」と信じる人が多いようだ。彼らの間では「瞬間的な癒し」の数々が「証」として語られている。
 
 けれど私が知る限り、その「証」は文字通り、語り伝えられるだけで、一切の検証なしに信じられている。疑うのは不信仰、ということだろう。それでいいのかと私などは思うのだけれど、彼らはそれでいいらしい。
 
 その「証」の真偽は、外部の人間には確かめようがない。だからあえてここでは取り上げない。
 けれどそういう人たちが「癒し」について言っていることには若干疑問がある。
 彼らは「癒し」に「いくつかの種類がある」と言う。一つは「瞬間的な癒し」、もう一つは「徐々に治っていく癒し」、もう一つは「治らないという癒し
 
 けれどこの「徐々に治っていく」というのは、病気がしかるべき時間を経て治った、というだけの気がする。慢性疾患とか重篤な病気(ガンとか)でなければ、大抵の病気は、時間とともに治っていくのだけれど。
 
 ある牧師が日曜礼拝の朝に発熱して、風邪だったらしいけれど、礼拝中も自分の「癒し」のために祈っていた。けれど何も起こらなくて、終わったら早々に帰宅した。数日したらすっかり治っていて、「主が癒された」と言っていた。いやいや、風邪なら数日もあれば治るでしょうよ。
 また「治らないという癒し」というのは、祈ったのに癒されなかった時に使う詭弁のような気がする。
 
 ある牧師はこう言う。
「病気がなくても不平不満ばかり言う人がいます。でも病気があるからこそ気づくことがあり、感謝できることもあります。その場合、病気が治らないことも癒しなのです」
 しかしこれは、病気の「癒し」の話でなく、精神論の話であろう。
 
 またある時、末期ガンの信徒がいて、余命わずかな状態だった。もう意識もほとんどなく、しゃべることもできない。その病床へ、「癒し」を信じる牧師が祈りに行った。
 ずいぶん長い間「異言」の祈りをして、「癒し」を宣言しまくった。けれど、何も起こらなかった。その信徒は数日後に息を引き取った。
 その牧師いわく、「召されることが御心だったのだ」
 
 なんだか腑に落ちない言い分である。「必ず癒される」と言っていたのは、いったい何だったのだろうか。

2014年11月10日月曜日

ベルリンの壁崩壊から25年。その陰で手柄を主張する不遜なクリスチャン。

 ベルリンの壁崩壊から、もう25年たった。ちょうど25周年目の11月9日、現地では記念イベントが行われたそうだ。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141109/k10013058611000.html
 
 東西冷戦の象徴であり、文字通りドイツを分断していた壁が取り払われたのは、間違いなく歴史的快挙だと思う。国民の歓喜はいかばかりだったか。もし日本が東西に分かれていたらと考えてみれば、その歓喜の様も少し想像できそうだ。
 それにしても、その崩壊の始まりが東ドイツ政府による誤報だったというから、驚きだ。絶対に変えられない、動かないと思われていたものが一つの間違いで動いた訳だから、世の中何が起こるかわからない。
 
 ちなみに崩壊後の東西交流の様子を、映画「グッバイ、レーニン!」で観ることができる。笑えて、ちょっとホロリとさせられる、家族愛の作品である。興味のある方はどうぞ。
 
 ところで、「ベルリンの壁崩壊に一役買ったクリスチャン」の話を聞いたことがある。
 ある海外の「神の器」が、崩壊前のベルリンの壁の前に立ち、涙ながらに祈った、という。何日間だったか忘れたけれど、しばらく続けたところ、程なくして壁が取り壊された、とのこと。「つまりベルリンの壁崩壊は〇〇先生の祈りによるのです!」と取り巻きが断言していて、会衆は感動の渦。
「とりなしの祈りは世界を動かす!」という訳だ。
 
 この主張の真偽を論じる必要はないだろう。あまりに馬鹿げている。ただ一つ指摘しておくと、壁の崩壊は「〇〇先生の祈りによる」のではない。それを言うなら「神による」だ。〇〇先生はただ祈っただけで、何も自慢できるところはない。泣きながら祈ったとか、何日も祈ったとか、だから何なんですか。それならドイツ国民の方が何万倍も泣いたはずだし、何億倍も祈ったはずだ。
 
 こういう「とりなしの祈りの効果」を主張しだしたら、何とでも言えてしまう
「とりなしの祈りによってベルリンの壁が崩壊した」とも言えるし、「第二次世界大戦を終結させた」とも言えるし、「原爆が東京に落ちるのを回避した」とも言える。他にも、ありとあらゆることが言えてしまう。そしてそれを厳密に否定する根拠はない。だから教会内でまことしやかに言われたら、信徒は本当のことだと信じてしまう。
 
 そういえば、朝鮮半島統一のため、韓国の北端で祈った、という日本人牧師がいる。両国の長年の分断を思って涙し、「主の心」で祈ったそうだ。
 だから将来、韓国と北朝鮮が統一を果たした時には、かの牧師が「私がとりなしたからね」などと言いそうだ。
 
 そういう不遜で無礼な一部のクリスチャンは放っておくとして、ベルリン崩壊25周年に、おめでとうと言いたい。これからも平和が続くよう、心から願っている。

2014年11月9日日曜日

「それが御心だ」で人生が操作されてしまう危険性について

 キリスト教信仰によって、人生が操作されることがある。

 この「操作」が神によってなら問題ない。けれどしばしば人間によって行われる。
「あなたは〇〇になる、と主が語られている」

 この一言で、たとえば音楽業界に向かわせられる人がいる。
「あなたには賛美の賜物がある。ゴスペルシンガーの道を主が備えておられる」
 以前コメントでもいただいたけれど、それを信じて本気でシンガーになろうとして、結局なれず、就職のタイミングも逃してしまった、というケースはけっこう多い。それでも人生は続く訳で、挫折感や不甲斐なさを抱えながら、それでも健気に礼拝で賛美奉仕をしていたりする。

 ある学生は、「芸能人になって芸能人伝道するよう主が導かれている」と牧師に言われて本気にしてしまった。牧師の指導で、メイクやら衣装やらにお金をかけるようになった。けれど肝心の実技レッスンまで受ける余裕はなかった。結局教会の集会で歌ったり、素人レベルのプロモーションビデオを作って教会で流したりするだけで、何の実も結ばなかった。

 またある学生は、「あなたが〇〇の学生になっているのが見える」と進路を誘導された。学校名まで指定された。本人はそうすべきかどうか散々葛藤した。けれど、結局自分が望む学校に入って事なきを得た。

 こういう進路操作、人生操作は「それが御心だ」が根拠になっていてタチが悪い。若く純粋な学生ほどそれを疑わない。疑えない。むしろ「神様のために」と一途に頑張ってしまう。

 また、たとえば「芸能人になれ」みたいなハードルは、本人がいくら努力してもどうにもならないところがある。苦労することも多い。けれど「御心なんだからできるはずだ。諦めるのは不信仰だ」などと言われて、退路を断たれてしまう。
「諦めない限り失敗したことにならない」という普通なら励まされる格言も、この場合は本人を追い詰めることになる。

 こういう人生操作をする牧師やリーダーらの動機は、大きく2つに分かれると思う。

 1つは、単に自分の「霊性の高さ」をアピールしたい、という動機だ。
「主が〇〇と語っておられる」を連発することで、「あの先生は神の代弁者だ」みたいな評価を得ようとする。この場合、「芸能人になれ」みたいな無茶な誘導はしない。あくまで相手の「適性」を考えて、できそうなことを言う。たとえば医学部を志望していて、実際に入れそうな学生に向かって、「医者になって〇〇をするよう主が導かれている」みたいなことを言う。何故か。言った通りに実現すれば、自分の言葉が神からのものだと証明されるからだ。
 けれどこれは、想定内の未来について言っているだけで、誰にでもできる。

 もう1つは、自分の願望(野望)を実現したい、という動機だ。
 たとえば芸能人伝道をする教会として有名になりたいとか、目立ちたいとか、富と名声を得たいとか、そういう動機だ。この場合、信徒はリーダーの野望実現のために利用し尽くされる。かなり無茶なことも「主のために」させられる。もちろん本人は神様に仕えているつもりだけれど。リーダーはすべてを神様のせいにして、結果的に自分の思惑通りになるよう仕向けている。

 繰り返すが、こういう操作は「それが御心だ」が根拠になっていてタチが悪い。
 特に若い人は、神の僕のフリをした偽善者に騙されないよう、よくよく注意すべきだ。未成年なら保護者がしっかり守るべきだ。もっとも、その保護者も騙されている、なんてこともあるけれど。

 いずれにせよ、誰に何を言われたにせよ、どんな状況だったにせよ、自分の選択の結果は自分が負わなければならない。「牧師がこう言ったから」「自分は正しいと思ったから」とか言っても何も取り戻せない。そういうことをよくよくわきまえて、私たちは日々、何かを選択していくのである。

2014年11月8日土曜日

「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメント・その3

「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメントについて、3回目。

 彼らの長時間の祈りの内訳は、前回書いた通りである。教会によって多少の変形はあるだろうけれど、基本的に「異言」なる意味不明な単語の連発であり、それに「祈りのプロセス」という「意味づけ」をしているだけだ。

 この「意味付け」というのも、考えればおかしな話だ。
「異言」の意味は、神のみが知る。「知性では実を結ばない」とある通り、人間にはその意味を理解することができない。だから意味付けすることもできない。なのに「この異言はこのプロセスを意味する」などと、意味づけしてしまうのである。

「それは異言の解き明かしの賜物があるからだ」と彼らは反論するだろう。けれど解き明かし(翻訳)は、一つの単語に対して一つの訳語でなければならない。ダニエル書に登場する「神の指が書いた文字」も、誰にも読めない、わからない単語だったけれど、その意味は一つだった。

 なのに彼らの「異言」はだいたいいつも同じ単語で、せいぜい二つか三つのバリエーションがあるくらいなのに、その「意味」となると、無限に広がってしまう。たとえば「バラバラ」が「スウェーデンのための祈り」と解き明かされ、同じ「バラバラ」が「終末の為の備え」と解き明かされる。違うのは抑揚や激しさ、音量だけだ。同じ単語なのに、無限の意味がある。それは言語として明らかにおかしい。

 もちろん複数の意味を持つ単語はある。中国語だと、発音で意味を変える単語もある。しかしだからと言って、二つか三つの単語ですべての表現をカバーする、という言語などあり得ない
 だからハッキリ書くけれど、彼らの「異言」も「解き明かし」もホンモノではない。ニセモノだ。
 そんな気がする、そうであるはずだ、そうであってほしい、という気持ちの表れでしかない。

 また余談が長くなってしまった。ここから本題。

・「長時間の祈り」によって何が起こるか
 
 彼らは長時間、集中して祈ることで、主に親しく語られる、と言う。長時間祈って打ち破らなければ聞けない御心がある、と言う。
 それが単なる能力主義、律法主義であることは前回までにも書いた。
 今回は、彼らが何故長時間にこだわるか、考えてみたい。

 音楽療法の分野では、単音を延々と聞かせることで脳波を低周波に保ち、心身をリラックス状態(あるいは催眠状態)にする、というのが理論的に証明されている。これは座禅を組んだお坊さんが、お経を唱えることで瞑想状態に入るのに似ている。ヨガでマントラを唱えるのも同じだ。だから怪しいプロテスタントの怪しい「異言」も、同様の効果が得られると考えられる。

 だから自ら「異言」で祈り、周囲からもいろんな単調な「異言」が聞こえてくる状況で、それが長く続くと、夢を見ているような状態になり得る。すると何かが見えたり聞こえたりもするだろう。あるいは誰かが言った何かがキッカケとなって、関連したイメージが膨らむかもしれない。あるいは本当に夢を見ている、ということもあるだろう。

 そういう精神状態になることを無視して、長時間祈れば「神に語られる」と言うのは単なる神秘主義だ。
 
 またもう一つの影響として、集団ヒステリーが考えられる。
 これはまだ原因が解明されていないけれど、たとえばある集団内で誰かが泣き出すと、その感情が伝播して全員が泣き出す、という現象だ。
 怪しいプロテスタントでも、誰かが(祈られて)痙攣して倒れると、同じようにバッタバッタ倒れていく、という現象がある。泣くのもそうだし、笑うのもそうだ。あるいは「主が〇〇と語られた」と誰かが言うと、全員が「そうだ、〇〇だ」「私も今〇〇と語られた」なんて言いだす。

 長時間の祈りの中で、いわゆる夢見状態になって、集団ヒステリー状態になる。それは残念ながら科学的には解明されていないけれど、それを体験してきた私には、とても説得力がある。
 今そういうのに夢中になっている人も、冷静になって自己の内面を考えてみれば、その可能性を否定できないはずだ。

 もちろん、神様は語られるし、答えて下さる。私はすべてを否定したいのではない。
 けれど私がこうやって問題提起ばかりしているのは、そういうことをするクリスチャンが、不道徳な問題ばかり起こすのを見てきたからだ。

 言うことがどんなに素晴らしくても、本人の人格が伴っていない。それはクリスチャンとしてホンモノでない証拠だ。つまりニセモノだ。

 私たちが長時間祈らなくても、神様は語って下さる。既に語っておられる。私たちが努力して神様に近づかなくても、神様の方から近づいて下さる。私たちが救いようのない存在でも、神様は救って下さる。それが福音のはずだ。
 教会に行くと、「良きサマリヤ人」のたとえを引用されて、「私たちは良きサマリヤ人であるべきだ」と語られる。けれど、私たちはもともと、そして今も、強盗に襲われた旅人の方なのだ。もちろん親切な隣人でありたい。けれど、そうできない自分自身を認めることから始めないと、結局のところ、私たちも偽善者でしかない。そうではないだろうか。

2014年11月6日木曜日

「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメント・その2

「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメントについて。2回目。

 ところで「スピリチュアル・ハラスメント」という言葉は私が勝手に書いてみただけで、要は今まで「信仰の虐待」と表現してきた事柄を指している。実際にこういう言葉があるのかな、と思って少し調べてみたら、けっこう使われている。キリスト教に限らず、いろいろな分野でそういうことが起こってるようだ。気をつけないといけない。

 余談だけれど、カルト的教会から苦労して離れた人が、今度はちゃんとした教会を探そうと思いつつ、結局また同じような教会を選んでしまう、ということがある。もちろん本人は注意しているし、信仰について真剣に考えている。なのに何故だろうか。よくわからないけれど、その教会なり牧師なりの本質はちょっと関わっただけではわからない、というのはあると思う。

・「長時間祈れ」の長時間の内訳

 本題。
「長時間、集中して祈らないと〇〇できない」と主張する牧師がいる。言い方はいろいろあって、「身を引き締めて祈らなければ・・・」とか、「心を尽くして祈らなければ・・・」とか、まあ聖書っぽい言葉を使う。一応牧師だから当然か。

 けれど前回も書いた通り、「〇〇して下さい」と祈っていたらとても2時間持たない。そこで、「異言」が彼らの武器(?)となる。「異言が語れるようになったら、何時間でも祈れるようになりました。ハレルヤ!」とかいう訳で、意味不明の単語を2時間連発し続ける。途中で静まったり、激しくなったり、単語が変わったりと、多少の変化はあるけれど。

「異言」については過去に書いたので、興味のある方は「異言」ラベルで見てほしい。
 ここで簡単に書くと、「異言」は自分が話したことのない、理解できない外国語を流暢に話す現象として聖書に登場する。それも練習なし、準備なしでいきなり話し出している(使徒2章)。だから現代の「異言」使用者が言うような、「初めは人の真似をすればいい」とか「だんだん種類が増えていく」とかいう種類のものではない。しかも聖書の異言が「完璧な外国語」であるのに対して、彼らのは全く意味不明な単語の連発である。
 そういうのを「異言」と信じ込んでいる人には、使徒2章をよーく目を開いて読んでみて、先輩たちから言われたことと、聖書が単純に言っていることとの違いを、よく比較してもらいたい。誰にでもすぐわかる、明白で決定的な違いが、簡単にわかるはずだ。

 で、「長時間祈れ」牧師によると、祈りにはプロセスがあるという。

 彼らは祈り出すと、すぐに悪魔の攻撃を受ける、という。だから初めは「霊的に重たい」「非常に圧迫される」「頭痛など身体に攻撃を受ける」などと言う。
 だから初めの方は、「悪魔との戦い」に祈りが費やされるそうだ。

 しかしその重苦しいプロセスを抜けると、いわゆる「打ち破り」が起こり、一気に楽になるという。
 そして「主を讃える祈り」に入る。本当に賛美し出したりもする。
 続いて「主を尋ね求める祈り」に入る。「主は熱心に探す者に現れる」と彼らは言う。だから一心不乱に、主に何かを語られるまで、祈り続ける。すると「主は必ず語って下さる」とのこと。

 そして最後に、「語られる」段階に入る。「主がモーセに顔と顔とを合わせて語ったように、いやそれ以上の親密さで、主が語られる」そうだ。このプロセスに入ると、彼らは恍惚とした表情で、「おお主よ」とか、「うーん」とか、気持ち悪い声を上げる(一部の牧師によると、それは「霊的エクスタシー」とか言うそうだ。勝手に感じてろ)。

 とにかくそれらのプロセスを「異言」で通るので、(かけようと思えば)1時間でも2時間でも、かけられる。
 そしてそういう祈りができる人が、「霊的権威者」なのだという。

 けれど、かなり早い段階のところで否定するけれど、祈りは「悪魔との戦い」ではない。神への語りかけだ。「祈ると悪魔が攻撃してくる。それを打ち破って、神との会話の道を開かなければならない」というは、ストーリーとしてはわかりやすいけれど、そんなこと聖書のどこにも書いていない。だいいち「頑張って祈らなければ神と会話できない」というは、前回書いた通り、能力主義であり、律法主義だ。

 彼らはよく、

「私たちの神との関係はreligion(宗教)ではない。relation(人間関係)だ」

などと言う。なかなか気の利いた言葉だと(彼らは)思っているようだ。
 けれど彼らの「努力して神に近づく」行為は、まさに「宗教」だ。「人間関係」ではない。努力して祈れば、献金すれば、奉仕すれば、その結果として神と親しい関係になれる、というのが彼らの主張であって、つまり「関係」を振りかざした「宗教」でしかない。
「長時間祈れ」など、その好例であろう。

2014年11月5日水曜日

「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメント

 長時間祈ることを強調するクリスチャンや教会がある。
 
 彼らは長い時間、一心不乱に祈ることに価値を置き、「霊的」とする。長時間集中して祈ることが、神に「語られるかどうか」の決め手だとする。そして普通に「ああして下さい」「こうして下さい」と祈っていては時間が持たないから、「異言」と称する意味不明の発音で延々と祈る。短くて30分、普通に1時間、長くて2時間かそれ以上。それができると「信仰のレベル」が高い言われる。できなければ、もちろんその逆だ。
 
 いきなり全否定になるけれど、神に語られるかどうかは、祈った時間と関係ない。信仰的かどうか、敬虔かどうかも関係ない。品行方正かどうかも関係ない。神は聖書という方法で全人類に常に語りかけている。聖書の入手しやすさの格差はあれど、神の基本スタンスはそうだ。だから神は、とんでもない罪人(と私たちが勝手に思う)人物にも語る。聖書にも、神に個人的に語られた罪人の例が沢山ある。
 
 だいいち、「きよめられた」人にしか語れないとしたら、神とは何と不自由な存在だろうか。好きなときに自由に語れないとしたら、神は史上例を見ないコミュ障ということになる。どこが全能なのだろうか。
 だから、2時間以上祈る人にしか深く語らない、なんてことは尚更ない。そう教えられている人がいるなら、聖書を学び直すことをお勧めする。
 
 それに、2時間も祈るのは、もはや苦行である。能力の話であり、律法主義である。努力で神に近づこうとしているに過ぎない。
 
 それにしても本当に2時間、脇見もふらず、集中して祈り続けることができるのだろうか。
 人間の集中力は、持ってせいぜい30分程度と言われる。死に物狂いでやっても、集中力はどうしても時間と共に落ちていく。誰もがそうだろう。よっぽど好きなことなら集中力も多少伸びるだろうけれど、それでも毎日2時間というのはない。
 それなのに「集中して長時間祈らないと神の御心はわからない」と事実上強要するのは、いわば「スピリチュアル・ハラスメント」であろう。
 
 じゃあそう言う連中自身が2時間ぶっ続けで集中できているかと言うと、もちろんそんなはずはない。彼らも「iPhoneのポップアップに気を取られてしまった」とか、「頭痛がひどくなって祈れなくなった」とか言っている。
 じゃあ集中できてないんじゃん、という話になるのだけれど、彼らにかかると「それは悪魔の妨害だ」という話にすり替る。
 自分だけは例外で、特別だ、という訳だ。つまり自分に負えない重荷を、他人に負わせようとしている。かつての律法学者たちと同じだ。
 
 けれど、たとえばiPhoneの話で言えば、ポップアップが気になるのは祈っている時もそばに置いているからであって、それはそもそも祈りに集中する態度とは言えない。スマホを聖書代わりにしているからとか、メモ代わりにしているからとかいう言い訳をされそうだけれど、スマホとは通信装置であり、電波を遮断しない限り、いつ連絡が入るかわからない。そういう状態を放置しているなら、やはり「祈りに集中したい」というのはウソになる。
 
 おそらく誰もが、神に個人的に語られる機会があるなら語られたいだろう。けれどその方法として「長時間、心を尽くして、疑わないで祈り続けなさい」というのは見当違いな苦行を課すことで、間違っている。しかもその結果「語られた」としても、それは苦行の報酬としての「思い込み」でしかなく、結局のところ神様とは関係ない。
 時間を無駄に費やす前に、そういう誤りに気づく人は幸いだ。私はそう思う。

2014年11月4日火曜日

【雑記】One world trade center オープン・同性愛について補足

・One world trade center がオープンした件
 
 アメリカ、ニューヨークで One world trade center がオープンした。場所は忘れもしない2011年9月11日、世界貿易ビルのツインタワーがテロで破壊された跡地である。13年の歳月を経て、いわば再建された訳だ。さっそくビジネスが始まっているようである。
 
 
 そこは、ずいぶん長い間「グランド・ゼロ」と呼ばれ、否応なくテロを想起させる場所だった。そこに新しくビルが建ち、また人々の営みが始まるというのは、ある意味で「回復」を意味するのだと思う。
 もちろん、テロの犠牲になった方々やその遺族が、それで癒されるという訳ではないけれど。
 
 ところで One world という名前に、不吉な印象を受けるクリスチャンがいるように思う。
「レフト・ビハインド」あたりの終末小説に影響を受け、あたかもそれが現実に起こるものと混同している一部の人たちは、統一宗教とか統一通貨とか統一政府とか、そういう「世界規模で管理される事態」をやけに強調する。だから One world という名称は、そういう事態を彼らに喚起させるだろう(実際、上述の「レフト・ビハインド」には One world faith という統一宗教が登場する)。
 そして、「患難時代が近づいている。これは悪魔がその下準備を着々と進めている証拠だ」みたいな話になる気がする。
 
 また、この高層ビルは当初 Freedom tower という名称だったけれど、2009年に改称され、One world となった。そのへんの経緯にも、彼らは「悪魔の介入だ」みたいな邪推を加えてきそうだ。
 
 けれど私が悪魔なら、そんなわかりやすい「下準備」はしない。絶対に騙せる、悟られない、失敗しない方法をじっくり考えるだろう。少なくとも、安易に悪魔的なものを連想させる名称にはしない。
 
 もちろん、本当に終末が近づいているかもしれないし、世界統一的な組織が現れるかもしれない。世界中どこに行ってもクリスチャンが迫害される時代が、近いうちにくるかもしれない。
 そういう状況で、惑わされずにいられるのは、どんなクリスチャンだろうか。
 少なくとも、ありもしない陰謀論を展開し、架空の敵を作り出し、「霊の領域」という曖昧なフィールドで「勝った」と主張する連中でないのは、間違いない。
 
・同性愛について追記
 
 前回ジェンダーの話を書いたけれど、その中で、同性愛について触れ、「同性愛は罪ではない」と書いた。それについて補足。
 
 同性愛嗜好は基本的に先天性であり、変更不能だ。一部のクリスチャンは「幼少期の心の傷によって同性愛になってしまった」という「後天的矯正説」を主張するけれど、それは証明不能な、
後付の理由でしかない。何らかの「わかりやすい原因」を求めているだけで、そこには「同性愛は悪いもの」という偏見が隠れている。
 
 また、もし後天的なものだと仮定しても、変更不能であることに変わりはない。原因を特定できないのだから、治しようがない。一部のクリスチャンは、「聖霊様の洞察によって原因を探り出し、イエスの御名によって癒すのです」とか言うけれど、だったらやってみろ
 
 変更不能である以上、それは責める種類のものではない。たとえば異性愛者が異性愛であることを責められたら、どう感じるだろうか。たとえば女性を性の対象とする男性が、「お前、なぜ女を恋人にするんだ!」とか言われたら、どう思うだろうか。「そんなの仕方ないじゃん」と言うしかないのではないだろうか。
 
 またキリスト教的に見ても、もし「同性愛=罪」であるなら、同性愛嗜好の人は決して救われず、地獄に堕ちることになってしまう。あるいは救われるため、自分の性向を生涯隠し続けなければならなくなる。
 地上で同性愛であることを責められ、死後も地獄で責められるとしたら、彼らには何の希望もない。生きるも地獄、死ぬも地獄である。そしてキリスト教はそれに対して何もできない、ということになってしまう。

2014年11月3日月曜日

ジェンダーの話題に教会はついて行けるのか

 このところ、ジェンダーに関する記事を見る機会が多くなっている。

 http://blogos.com/article/97847/

 ジェンダーの話題に関心が高まっているのか、私がたまたま見るだけなのか、よくわからない。けれどリンク記事を読むと、LGBTの方々の苦悩は、実体験としてわからなくても、決して小さくないと想像できる。だから世間の関心が高まるのは、良いことなのではないかと思う。もちろん、その関心が今後どうなっていくかはわからないけれど。

「男らしくしろ」「女らしくしろ」というのは、私が子どもの頃は平気で言われる言葉だった。そして社会全体が、それを良しとしていたように思う。
 男性は「男らしく」あることが当然で、女性は「女らしく」あることが当然で、そこから逸脱する者は容赦なく責められる。「それでも男(女)か!」みたいに言われて、自分の自然なありようを否定される。

 社会がそういう風だと、言われた方は「自分が悪い」「自分がおかしい」「自分が間違っている」と思ってしまう。大勢からNOを突き付けられる状況で、YESを貫くのは大変だ。相当タフでないとできない。

 かくいう私は小学校の頃、いわゆる「男子的な遊び」に興味がなく、野球のルールなんか全然知らなかったり、座って絵を描くのが好きだったりで、「それでも男か」と男子からも女子からもバカにされることが多かった。
 また(ジェンダーとは関係ないけれど)左利きなのを「おかしい」「右で書けなきゃ恥ずかしい」「ギッチョだ」と責められることも多かった。
 リンク記事の方のことを考えたら「その程度か」という話だろうけれど、自分のありようを真向から否定されて、私は私でけっこう辛かった。そして私も、「自分がおかしいんだ」と考えるようになった。

 そういう背景もあってのことだろうけれど、私はジェンダー・ハラスメントなどあってはならないと思う。というか、あらゆる種類のハラスメントがあってはならないと思う。
 そういう「いじめ」をする輩は、他者を理解しようとする力がおそろしく欠落している。自分も一度、そういう目に遭ってみたらいいだろう。

 ジェンダー問題のごく一部分だけれど、「同性愛」について、このブログでも何度か書いてきた。同性愛に関する私の意見を簡単に書くとこうなる。同性愛嗜好は、異性愛嗜好と同じく変更不能な性向であって、責めるとか問題視するとかいう種類の話ではない。同性愛を否定するなら、同様に異性愛をも否定しなければならない。異性愛そのものが罪でないように、同性愛そのものも罪でない。

 ひるがえってキリスト教界を見てみると、(教派によるだろうけれど)「同性愛=罪」みたいな単純すぎる図式がいまだに蔓延しているように思う。「同性愛」と聞くだけで、彼らは「それは罪だよ」「過去の傷によるものだよ」「それは癒されなければならないな」などと平気で言う。人の気持ちをまったく考えていない。あるいは、考えが途中で止まってしまっている。
 もちろん、全ての教会がそうなのではないだろうけれど。

 ジェンダー問題に関心が高まり、人権擁護の声が高まる昨今、キリスト教会がそんな旧態依然のままでは、「この世に良い影響を与える」などできる訳がない。「聖書の真理に古いも新しいもない」とか反論されそうだけれど、その「聖書の真理」とやらが手前勝手な思い込みでないと、どうして証明できるだろうか。
 あるがままのその人を愛せないくせに、よく「キリストの愛」とか言えるものだ。盲目にもほどがある。

2014年11月2日日曜日

「継続」することの大切さ

「継続」することの大切さを思う。

 始めたはいいものの、結局なんだかんだで続けられない、ということがある。
 たとえば毎日日記をつけようとか、ダイエットをがんばろうとか、英会話を始めようとかいう決心が長続きしなかった、という経験は、誰にもあるのではないだろうか。

 そういう趣味レベルの決心は、断念したって特に問題ない。むしろよくあることだ。
 けれど、たとえばそれが学校や仕事となると、いささか問題であろう。せっかく入学したのに早々に退学してしまったとか、就職したのにすぐ辞めてしまったとか、そういう話は身近にもけっこう聞く。それぞれ事情があるのだろうけれど、もったいない気がしてならない。そもそも何故始めたのだろうか、と思ってしまう。

 もちろん、入ってみたらブラック企業みたいな職場だった、という予測不能な事態は起こり得る。そういうところでも何がなんでも働き続けるべきだ、とは私は思わない。むしろ早々に撤退した方がダメージが少ないし、次に行きやすい。そういうケースはある。
 またブラック企業だけでなく、それはイロイロな分野にも言える。自分にとってストレス過ぎる環境を我慢してしまうと、結果的にロクなことにならない。早々に離れて自分を守るべきだ。ただしそれが「甘え」となって何事からも逃げてばかり、というのも良くないけれど。

 ただそういう極端なケースのことでなく、一般的な話として、「続けること」の大切さを私は常々意識している。

 始めることに比べて、続けることには多くのエネルギーがいる。体力もいるし、忍耐とか、妥協とか、失望感を乗り越える意思とか、そういう精神力もいる。そのほとんどが、自分自身との戦いと言ってもいい。
 かくいう私も当ブログの「ほぼ毎日更新」を目指して、1年半になる。全然まだまだだし、大変なこともあるけれど、続けられて良かったと今は思っている。

 続けることでしか得られない可能性の広がりとか、見えてこない地平とか、そいういうものは確かにある。おそらく楽器の演奏とかダンスとか、伝統芸とか専門職とか、そういう熟練度がモノを言う職人の世界の方々には、リアルに実感できる話ではないかと思う。
 そこに至るには、やはり「継続」以外にない。

 そういう視点でキリスト教界を見てみると、いろいろと残念なことがある。
「地域に仕えます。それが御心だから」と言って教会が始めた福祉事業が早々に頓挫したり、利用者を裏切ることになったり、結局「金儲けがしたかったんでしょ」と言われても仕方ない有様になったりする。
 また、「私たちはこれで神様を賛美していきます」と言ってデビューした「クリスチャンバンド」が、アルバム一枚で消えてしまったり、そんなこと何もなかったみたいに礼拝で賛美していたり、結局「目立ちたかっただけでしょ」と言われても仕方ない有様になったりする。
 他にも、「神様のために」「〇〇のために」「示されたから」「導かれたから」「道が開かれたから」と言って始めたものの、いつの間にか立ち消えている「働き」が、沢山ある。

 前述の日記や英会話が続かないのは、全然問題ない。けれどそういうクリスチャンらの途中退場は、「御心だから」と言っている分タチが悪い。御心ならなぜ辞めた? そう聞くと、「わからないけれど、それも御心だから仕方ない」みたいな答えが返ってくることがある。
 御心だから始めた、御心だから辞めた、という訳だ。なるほど、都合がいい。自分はあくまで「従順な僕」で、神様の方が気まぐれなんだ、と言いたい訳だ。
 はっきり書くけれど、その態度は神様を利用し、貶めている。「従順」なんてとんでもない。

 クリスチャンや教会が何か言い出したり、始めたりした時は、長いスパンで見ることをお勧めする。初めは何でも勢いがいいものだ。その勢いが尽き、いろいろトラブルがあり、続けるのが困難になった時にこそ、はじめの決心の真価が問われる。

 本当に神様を愛し、神様の為にこれをどうしてもしたい、しなければならない、と思っている人は、トラブルがあっても辞めない一人になっても辞めない困難になっても「道が閉ざされた」なんて言わない。それが本当の「働き」だと、私は思う。

追記)
「道が閉ざされた」というような事態がまったくない、ということではない。ただ、それを辞める方便として使うのはムシが良すぎる。

2014年11月1日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第45話

「タタカイ兄弟!」
 溝田牧師が怒鳴る。「戻りたまえ!」
 空気が凍りつき、スタッフらは暴風に耐えて立つ木のように固まる。レストラン中の視線がこのテーブルに集まるのを、キマジメくんは後頭部に感じた。
 それでもタタカイ兄弟は歩くのをやめない。振り向きもしない。
「タタカイ兄弟!」ともう一度牧師が叫んだ。けれど兄弟はそのままレジを抜け、ドアを開けて出て行った。チャリンチャリン、という鈴の音だけを残して。
 しばし無言。スタッフは誰も何も言わない。動きもしない。牧師は長い溜息を一つついて、やけに静かに言った。「・・・まあ、彼はまだ若いからな」
 そしてクククと笑った。スタッフは一緒に笑うべきなのかどうかわからない、と言いたげな表情で口元を引きつらせた。

 それから一行は、言葉少なく教会に戻った。そして朝から続くミーティングを終わらせるべく、ようやく本題に入った。伝道集会で何をするか、担当をどうするか、予算をいくら付けるか、そして次回のミーティングをいつにするか、等。ものの30分で終わった。けれど時間はすでに午後5時。朝からこれをやっていれば、どれだけ効率が良かったか、とキマジメくんはチラリと考えた。しかしすぐにその考えを否定した。きっと祈りの時間や牧師の話を聞く時間を持ったから、実際的な話がスムースに進んだのだ、と考え直すことにした。

 ミーティングが終わった帰り道、そういえばタタカイ兄弟はどうしたのだろうと考えた。結局あれから姿を見ていない。帰ってしまったのだろうか。牧師にあれだけのことを言ったのだから、きっとただでは済まない、とキマジメくんは思った。
 シンジツ兄弟のことを思い出した。彼は悪魔の影響を受け、牧師に批判的なことを言ったそうだ。そして自分の罪を認められず、教会を去って行ったという。
 今回のタタカイ兄弟も、それと同じような気がした。彼もこのまま去ってしまうのだろうか。
 しかしタタカイ兄弟とは接点がなく、ほとんど話したことがないから、キマジメくんには何の感慨もなかった。そしてそういう自分を、なんて薄情な人間だろうと思った。同じ教会の兄弟なのに、何とも思わないなんてことがあっていいのだろうか。心を痛めて悲しむのが、クリスチャンとしてあるべき姿ではないだろうか。
「主よ、許して下さい」
 キマジメくんは心の中で悔い改めの祈りをした。

 しかし、キマジメくんが予想したようにはならなかった。水曜の祈り会(プレイヤーナイトと教会では呼んでいる)にも、木曜の「ダビデの幕屋」の礼拝にも、金曜の男性の集まり(メンズミーティングと呼んでいる)にも、土曜の礼拝準備にも、日曜の礼拝にも、タタカイ兄弟はやって来た。そして牧師とも普通に話し、特段変わった様子を見せなかった。キマジメくんとも自然に挨拶した。
 何がなんだかわからなかった。シンジツ兄弟の時と、何が違うのだろうか。
 あるいはもしかしたら、あの後、タタカイ兄弟は牧師に謝罪したのかもしれない。そして和解したのかもしれない。それならまだ理解できるけれど。

 その日曜は、溝田牧師が別の教会に呼ばれて不在だった。礼拝は副牧師たちが執り行い、いつもより早く終わった。キマジメくんは特別することもなかったので、帰ろうと思った(正直、疲れていたので早く眠りたかった)。けれどノンビリ兄弟と久しぶりに話す機会があり、一緒にランチをとることになった。二人は近所のラーメン屋に入った。

「久しぶりだね、キマジメくん」
 はじめはノンビリ兄弟と他愛ない話をしていたキマジメくんだけれど、タタカイ兄弟について何か情報を得られるかもしれない、と思った。ノンビリ兄弟はずいぶん長くこの教会にいると聞いている。何か皆が知らないことを知っているかもしれない。
「ノンビリ兄弟、じつは・・・」
 キマジメくんは月曜のミーティングでの出来事を話してみた。そしてタタカイ兄弟が何もなかったように教会に集っていることが疑問だと、言ってみた。
「へえ、そんなことがあったんだ」ノンビリ兄弟は感心したように言う。「さすがタタカイ兄弟だね。実は彼、〇〇教会の牧師の息子なんだよ」
「え?」
「そう。牧師の息子。で、彼も将来は牧師になりたいらしい。で、今はウチの教会に、いわゆる修行に来ているんだよ。もう何年にもなるんだけどね。〇〇教会の牧師は溝田先生と同期だっていうから、先生も、タタカイ兄弟には特に思い入れがあるんじゃないかな」
 キマジメくんは妙に合点がいった。なるほど、確かにシンジツ兄弟とは違う。一信徒と、同期の仲間の息子とでは、同じように扱えという方が無理かもしれない。
 何となく、不公平な気がした。けれど神に特別に仕える牧師の立場は、やはり一般人とは違うのだろう、とキマジメくんは思うことにした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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