「長時間祈れ」というスピリチュアル・ハラスメント

2014年11月5日水曜日

スピリチュアル・ハラスメント

t f B! P L
 長時間祈ることを強調するクリスチャンや教会がある。
 
 彼らは長い時間、一心不乱に祈ることに価値を置き、「霊的」とする。長時間集中して祈ることが、神に「語られるかどうか」の決め手だとする。そして普通に「ああして下さい」「こうして下さい」と祈っていては時間が持たないから、「異言」と称する意味不明の発音で延々と祈る。短くて30分、普通に1時間、長くて2時間かそれ以上。それができると「信仰のレベル」が高い言われる。できなければ、もちろんその逆だ。
 
 いきなり全否定になるけれど、神に語られるかどうかは、祈った時間と関係ない。信仰的かどうか、敬虔かどうかも関係ない。品行方正かどうかも関係ない。神は聖書という方法で全人類に常に語りかけている。聖書の入手しやすさの格差はあれど、神の基本スタンスはそうだ。だから神は、とんでもない罪人(と私たちが勝手に思う)人物にも語る。聖書にも、神に個人的に語られた罪人の例が沢山ある。
 
 だいいち、「きよめられた」人にしか語れないとしたら、神とは何と不自由な存在だろうか。好きなときに自由に語れないとしたら、神は史上例を見ないコミュ障ということになる。どこが全能なのだろうか。
 だから、2時間以上祈る人にしか深く語らない、なんてことは尚更ない。そう教えられている人がいるなら、聖書を学び直すことをお勧めする。
 
 それに、2時間も祈るのは、もはや苦行である。能力の話であり、律法主義である。努力で神に近づこうとしているに過ぎない。
 
 それにしても本当に2時間、脇見もふらず、集中して祈り続けることができるのだろうか。
 人間の集中力は、持ってせいぜい30分程度と言われる。死に物狂いでやっても、集中力はどうしても時間と共に落ちていく。誰もがそうだろう。よっぽど好きなことなら集中力も多少伸びるだろうけれど、それでも毎日2時間というのはない。
 それなのに「集中して長時間祈らないと神の御心はわからない」と事実上強要するのは、いわば「スピリチュアル・ハラスメント」であろう。
 
 じゃあそう言う連中自身が2時間ぶっ続けで集中できているかと言うと、もちろんそんなはずはない。彼らも「iPhoneのポップアップに気を取られてしまった」とか、「頭痛がひどくなって祈れなくなった」とか言っている。
 じゃあ集中できてないんじゃん、という話になるのだけれど、彼らにかかると「それは悪魔の妨害だ」という話にすり替る。
 自分だけは例外で、特別だ、という訳だ。つまり自分に負えない重荷を、他人に負わせようとしている。かつての律法学者たちと同じだ。
 
 けれど、たとえばiPhoneの話で言えば、ポップアップが気になるのは祈っている時もそばに置いているからであって、それはそもそも祈りに集中する態度とは言えない。スマホを聖書代わりにしているからとか、メモ代わりにしているからとかいう言い訳をされそうだけれど、スマホとは通信装置であり、電波を遮断しない限り、いつ連絡が入るかわからない。そういう状態を放置しているなら、やはり「祈りに集中したい」というのはウソになる。
 
 おそらく誰もが、神に個人的に語られる機会があるなら語られたいだろう。けれどその方法として「長時間、心を尽くして、疑わないで祈り続けなさい」というのは見当違いな苦行を課すことで、間違っている。しかもその結果「語られた」としても、それは苦行の報酬としての「思い込み」でしかなく、結局のところ神様とは関係ない。
 時間を無駄に費やす前に、そういう誤りに気づく人は幸いだ。私はそう思う。

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