2014年11月22日土曜日

【雑記】神は死んでない・今度は日本噴火説・悲しい動画

・神は死んでない
 
 映画『神は死んだのか』"God's not dead"が近日公開される。
 公式HP(予告編あり)はこちら。
 
 無神論者の大学教授に対し、神の実在を証明することになったクリスチャン学生の話である。詳しいストーリーや背景は知らないけれど、是非観ようと思っている。『ノア・約束の箱舟』は全然興味なかったけれど(べつに聖書解釈とかの問題ではない)。

 もし神が実在するなら、起こった出来事は全て人間に対する賞罰として解釈されなければならない、と無神論者は言う。つまり善いことが起これば、その人は善いことをした善人であり、悪いことが起これば、それは悪いことをした悪人であるはずだ。けれど、実際には善人にも悪いことが起こり、悪人にも善いことが起こるから、矛盾している。だから神は実在しない、という訳だ。

 それはそれで一理ある。けれどその考え方には、そもそも神はコントロール可能な存在だという前提がある。「〇〇をすれば神は報いを与える」「××をすれば神は罰を与える」というルールに神様を当てはめ、まるで自動判定するコンピューターみたいに神様を扱っている。つまり、神は人間より下、という考え方である。

 けれど、神様は人間より上位の存在であり、その全てを把握することはできない、というのが私たちクリスチャンにとっての前提であろう。だから善人が酷い目に遭う理由も、悪人が報われる理由も、人間には測りかねる。そこには何の矛盾もない(そもそも矛盾かどうかを判定できない)、ということになる。

 もっとも無神論者は、人間より上位の存在というのがどうしても認められないから、無神論なのだろうけれど。

 少し話が飛ぶけれど、『ジェノサイド』(著・高野和明)というSF小説がある。簡単にネタバレすると、アフリカの奥地で「進化した人間」が生まれ、それを脅威と考えたアメリカ、CIAが抹殺を企てた。けれど「進化した人間」の知能は人間の計画を完全に越えており、人類はハナから勝てっこなかった、という話だ。

 これはもちろんフィクションだけれど、神と人間との関係を考える上で参考になる。つまり人類が英知を集結し、もっとも優秀な人材を揃えて事に当たっても、その計画は初めから手玉に取られている、ということだ。『西遊記』の孫悟空が、世界の果てまで飛んだと思ってもそこは釈迦の手の中だった、というのと同じかもしれない。

 いずれにせよ、映画『神は死んだのか』で主人公がどんな風に神の実在の証明にチャレンジするのか、観てみたい。
 
 ・今度は日本噴火説

「10月に携挙」と主張してハズした人の続報。
 かの人は東京を遠く離れ、南国に移住したとのこと。そこで今度は「本州(?)噴火説」を主張しており、「だから神様が先だって自分を避難させた」と言っているようだ。
 えっ、自分だけ助かればいいってこと? って気もするけれど、たぶん、携挙がハズれたことで自分を非難する人が多いから、「みんな死んじゃえばいい」みたいに考えているのだと思う。もちろん、勝手な憶測だけれど。
 
・悲しい動画
 
 キリスト教関連ではないけれど。
 亡くなる寸前の我が子(新生児)に、父親がギターの弾き語りをした。その動画が最近公開された。

 
 動画(youtube)
 Blackbird with Lennon: http://youtu.be/0lNBcTkssWA

 場所はアメリカ、ロサンゼルスの病院。曲はビートルズの"Blackbird"。
 母親は出産後、死亡した。
 そういう背景を知って動画を見ると、なんとも物悲しい。父親の胸中はいかに。もしその場にいたら、多分かける言葉がない。
 そしてこの動画の3日後、赤ちゃんは亡くなった。やはり、人生とは理不尽なものである、と私は思った。
 
 多分ないとは思うけれど、こういう悲しい話を利用する牧師がいないことを願う。「赤子は召されたらまっすぐに主の御もとに送られます。だから悲しむことはありません」とか。
 その説の真偽はともかく、その父親の気持ちを考えるなら、当然ながらそんな話はできないだろうと思う。

追記)
 映画『神は死んだのか』では、主人公は単位取得をかけて教授と「戦う」ようだ。「神は死んだ」と書いて提出すれば単位がもらえる、という条件に抗ったからだ。つまり信仰的妥協によって単位を得るか、妥協しないで苦難の道を進むか、みたいな話でもある。
 無論これはフィクションであって、そんな究極的選択を迫られることは(少なくとも現代日本では)滅多にない。けれどこの映画を利用して、「神のために全てを捨てて戦わなければならない」みたいな二元論を突き付ける新興宗教系プロテスタントが現れないよう、祈るばかりである。

3 件のコメント:

  1. お世話になった牧師は子宝に恵まれていましたが、お一人まだ赤ちゃんのうちになくしました。仲間の一人のが近づいて、「お子さんはもっと良い所に行ったのだから大丈夫ですよ。」とか言われたそうです。何の慰めにもならなかったそうです。内心「この馬鹿野郎」と思ったのだと正直に言っておられました。その後、別の仲間が来て、会うなりなにも言わずに抱きしめてオンオン泣いてくれたそうです。その方は同じ経験をされた方だったそうです。それがどれだけ慰めになったかと言っておられました。利用かどうかはわかりませんが、善意から出ても慰めにはならない言葉も有りますね。

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  2. 匿名様
    コメントありがとうございました。

    確かに、悲しんでいる人に向かって、無神経な言葉をかけてしまうということがあります。本人は「「励まし」のつもりなのですが。

    何も言わず、一緒に泣いたその人は、本当の意味で隣人愛を表わしたのだと思います。
    だから善意にも思いやりというか、気持ちを察する配慮が、まず必要なのでしょうね。

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  3. 前のローマ教皇が東日本の大震災のときに「神様のなさることは私たち人間には理解不能です」とコメントしたのを思い出しましたね。バチカンもあのときはクリスチャンの少ない日本のためにミサをたてて祈ってくれました。
    「こうすれば祝福される」「ああすれば罰があたる」とやっているのは創価学会と同じです。学会では財務をすれば何倍にもなって返ってくるといい高額献金を迫りますよ(おや、もうすぐ財務の月ですね。今年の献金ノルマはどのくらいなのでしょうか?)。「あなたの子供が小児麻痺でびっこになったのは、先祖代々日蓮宗をやっているからだ。日蓮宗をやっている家には障碍者が生まれる。」とやっていましたが、なんと池田大作の長男の家には障碍者の孫が生まれたのです。池田家は親と兄弟は今も普通に真言宗で、大作だけが創価学会なのだそうですよ。池田家も大作も日蓮宗をやっていないというのに、なぜ池田大作の孫は障碍者なのでしょうかね?神だろうが仏だろうが、この宗教に入ったから/入らないからといって、自動的に功徳を与えたりバチを与えたりするようなマシーンではありません。神や仏は功徳&バチ提供機ではないのですよ。

    婆原彰晃は今度は噴火ですか(笑)。そういえば昔オカルト雑誌に「富士山噴火で云々」というタイトルの本(たぶん自費出版と思われます)の広告を出していた基地外がいたのを思い出しましたよ。そこには「著者は一見人間とされているが実は・・・」と意味深なコピーが踊っていました。私たちはそれをみて「こういうのはみんなで石をぶつけていじめてやればいいんだよね。」といって笑っていたものです。
    世界の終末をいう人はおこちゃまなのではないかと思うのですよ。自分の思い通りにならない世の中は滅びればいいというような・・・。こういう人たちを見ると「あなたはいったいどういう育てられ方をしたの?」と聞きたくなりますね。三歳児の全能感をいいトシしても保持している人なのですから。これは中学生になっても寝小便をしているのと同じで非常に恥ずかしいことなのではないかと思うのですが。
    いつも不思議に感じることをここでおたずねしたいのですが、新興宗教系のプロテスタントには中学生になっても寝小便をしているような人たちが多く集まる傾向が強いような気がするのですが、これはなぜなのでしょうか?

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