クリスチャンの若者をどう育てるか、という話・その2

2014年11月15日土曜日

キリスト教信仰 教育

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 クリスチャンの若者をどう育てるか、という話の2回目。
「十代の十代による集会」に関連して書いているけれど、その続き。
 
若者たちに機会を」というコンセプトのもと、ある事柄を全て子供たちだけでやらせるみる、というのは、試みとしては良い。けれど傲慢になるなどの危険性が大きいから、ちゃんと子供たちの様子を見極めてフォローしなければならない、というのが前回の内容。
 
 今回は、もう少し細かいことを書いてみたい。
 
 たとえば、賛美奉仕を全部子供たちだけにやらせてみよう、という試みがある。
 もちろん責任者は大人だけれど、子供たちだけのバンドを作り、司会も選曲も構成も、全て子供たちに任せる。準備の段階は大人が助言するけれど、本番は子供たちだけで進める。
 
 それで実際にやらせてみると、まあ最初はいろいろ失敗したり、不手際があったりする。会衆の前で不適切な発言をしてしまい、実は誰かを不快にさせていた、なんてこともある。けれど、それは「やらせてみよう」というチャレンジ(悪く言うと実験)であって、皆それを理解している訳だから、問題ない。子供なのだから仕方がない。
 
 大事なのは、そういう「経験」を通して子供たちがそれぞれ「学ぶ」ことであろう。「若者たちに機会を」というコンセプトは、それが目的のはずだから。
 
 それはそれで教育効果はあると思う。けれど、そもそもそれを「礼拝」と呼ぶのはどうなのだろうか。
 神への真心からの礼拝、聖書的に言う「霊とまことによる礼拝」は、そういう子どもたちだけの実験的、教育的、チャレンジ的試みと、両立するのだろうか。
 私が「十代の十代による礼拝」と書かないで、「十代の十代による集会」と表現している理由は、そこにある。
 
 たとえばギター奏楽を任された子が、終始ギターの演奏や構成のことにだけ集中していて、礼拝中、ただ「演奏しているだけ」な状態かもしれない。そんな風に全員が、「やること」にだけ集中しているかもしれない。それでも彼らは先輩たちの姿を模範にしているはずだから、傍から見たら、ちゃんと礼拝しているように見える。会衆には、彼らの心のうちは見えない。
 
 あるいは、奉仕者がどうであれ、それに参加する一人一人が礼拝に向かえばそれでいい、という考え方もあるかもしれない。確かにそうできる人はいると思う。けれどそれは、「ウチの礼拝はいろいろ粗相があるでしょうけど、そこは個々で礼拝に集中して下さい」と表明するのと同じではないか。「教会」の体をなしているなら、集った人が安心して、落ち着いて礼拝できるように配慮すべきだ。それは最低限の務めだと思う。
 
「十代の十代による集会」は私も沢山参加したけれど、子供たちは皆緊張している。事前に散々練習して、直前までリハーサルして、台詞を忘れないように、流れを間違えないようにと、ドキドキしながら本番に臨む。そして確かに「素晴らしい純粋な礼拝」をする。けれど、(言葉が悪いけれど)それはいわば学芸会みたいなものだ。「若者たちの礼拝」でなく、「礼拝している若者たちを演出している」のである。
 
 そういう集会の後、大人たちが子供らに何と言うか、聞けばわかる。「良かったよ」「すごかったよ」「メッセージ恵まれたよ」とかほとんどの大人が言う。つまり子供たちがどれだけ頑張ったか、どんなにプレッシャーに耐えたか、どれだけ練習してきたか、という子供たちに対する称賛であって、神様なんてどこにもいない(もちろん「神様」という言葉は出てくる)。
 
 そこには多分に、「子供は無邪気に純粋に礼拝している」という大人の側の勝手な推測がある。彼らの多くは、たとえばギターがどれだけ難しく複雑な楽器か知らない。ちょっと練習すれば簡単に弾けるだろうくらいに思っている(もちろん全員ではない)。
 
 子供たちの礼拝に向けた努力とか、純粋な心とかを私は否定しない。それはそれでホンモノであろう。けれど、それだけでは説明できない子供たちの複雑な事情を無視して、「子供たちも大人と同じように礼拝できる。いや、大人以上に純粋にできる」と言うのは正確ではない。
 だから上記のような「子供たちに機会を」というコンセプトで、たまにイベント的にやるのはいいけれど、レギュラーで子供たちに礼拝を任せるのは良くないと私は思う。レギュラーの礼拝はいわば「仕事」であって、もはや「教育」ではない。そして子供のうちは、「仕事」より「教育」を優先すべきだ。
 
 ロクに教えられず、ちゃんと学んでない若者たちが、礼拝を任せられる。彼らなりに努力して、「良い礼拝」を見せる。大人たちが称賛する。「これは素晴らしい」ということでレギュラーで礼拝するようになると、最初は謙虚だった若者たちが、次第に傲慢になっていく。そしてそのまま大人になってしまうと、「パフォーマンスは高いけれど聖書を半端にしか知らない集団」になってしまう。そうなるともう手が付けられない。聖書を都合よく曲解し、「これが御心だ」で他人を都合よく動かす、おかしな宗教になってしまう。
 
 だから結論は前回と同じだけれど、若者には教育が必要だ。実践とか経験とかももちろん大切だけれど、正しい知識がないと、いずれどこかで間違えてしまう。
 人生の長さはそれぞれわからないけれど、子供のうちは特に成長発達の途中なのだから、いろいろな教育や準備に時間を当ててもバチは当たらない。実践は大人になってから、ゆっくりやっていけばいい。結局はそれが子供たちを守ることになる、と私は思う。

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