「それが御心だ」で人生が操作されてしまう危険性について

2014年11月9日日曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教信仰によって、人生が操作されることがある。

 この「操作」が神によってなら問題ない。けれどしばしば人間によって行われる。
「あなたは〇〇になる、と主が語られている」

 この一言で、たとえば音楽業界に向かわせられる人がいる。
「あなたには賛美の賜物がある。ゴスペルシンガーの道を主が備えておられる」
 以前コメントでもいただいたけれど、それを信じて本気でシンガーになろうとして、結局なれず、就職のタイミングも逃してしまった、というケースはけっこう多い。それでも人生は続く訳で、挫折感や不甲斐なさを抱えながら、それでも健気に礼拝で賛美奉仕をしていたりする。

 ある学生は、「芸能人になって芸能人伝道するよう主が導かれている」と牧師に言われて本気にしてしまった。牧師の指導で、メイクやら衣装やらにお金をかけるようになった。けれど肝心の実技レッスンまで受ける余裕はなかった。結局教会の集会で歌ったり、素人レベルのプロモーションビデオを作って教会で流したりするだけで、何の実も結ばなかった。

 またある学生は、「あなたが〇〇の学生になっているのが見える」と進路を誘導された。学校名まで指定された。本人はそうすべきかどうか散々葛藤した。けれど、結局自分が望む学校に入って事なきを得た。

 こういう進路操作、人生操作は「それが御心だ」が根拠になっていてタチが悪い。若く純粋な学生ほどそれを疑わない。疑えない。むしろ「神様のために」と一途に頑張ってしまう。

 また、たとえば「芸能人になれ」みたいなハードルは、本人がいくら努力してもどうにもならないところがある。苦労することも多い。けれど「御心なんだからできるはずだ。諦めるのは不信仰だ」などと言われて、退路を断たれてしまう。
「諦めない限り失敗したことにならない」という普通なら励まされる格言も、この場合は本人を追い詰めることになる。

 こういう人生操作をする牧師やリーダーらの動機は、大きく2つに分かれると思う。

 1つは、単に自分の「霊性の高さ」をアピールしたい、という動機だ。
「主が〇〇と語っておられる」を連発することで、「あの先生は神の代弁者だ」みたいな評価を得ようとする。この場合、「芸能人になれ」みたいな無茶な誘導はしない。あくまで相手の「適性」を考えて、できそうなことを言う。たとえば医学部を志望していて、実際に入れそうな学生に向かって、「医者になって〇〇をするよう主が導かれている」みたいなことを言う。何故か。言った通りに実現すれば、自分の言葉が神からのものだと証明されるからだ。
 けれどこれは、想定内の未来について言っているだけで、誰にでもできる。

 もう1つは、自分の願望(野望)を実現したい、という動機だ。
 たとえば芸能人伝道をする教会として有名になりたいとか、目立ちたいとか、富と名声を得たいとか、そういう動機だ。この場合、信徒はリーダーの野望実現のために利用し尽くされる。かなり無茶なことも「主のために」させられる。もちろん本人は神様に仕えているつもりだけれど。リーダーはすべてを神様のせいにして、結果的に自分の思惑通りになるよう仕向けている。

 繰り返すが、こういう操作は「それが御心だ」が根拠になっていてタチが悪い。
 特に若い人は、神の僕のフリをした偽善者に騙されないよう、よくよく注意すべきだ。未成年なら保護者がしっかり守るべきだ。もっとも、その保護者も騙されている、なんてこともあるけれど。

 いずれにせよ、誰に何を言われたにせよ、どんな状況だったにせよ、自分の選択の結果は自分が負わなければならない。「牧師がこう言ったから」「自分は正しいと思ったから」とか言っても何も取り戻せない。そういうことをよくよくわきまえて、私たちは日々、何かを選択していくのである。

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